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消えない戦争の傷 【東京新聞】
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投稿者 そのまんま西 日時 2007 年 8 月 15 日 22:21:22: sypgvaaYz82Hc
 

消えない戦争の傷 千葉の現場から<上> 爆心地で遺体運ぶ 原爆症の認定を
【東京新聞】2007年8月12日

「審査の結果、該当しません」。紙に素っ気なく書いてあった。

 「えっ。何で」。五年前、浅井三郎さん(75)=仮名、長生郡在住=は原爆症申請却下の知らせを見て言葉を失った。

 十三歳の時、広島で被爆。若いころから体の不調に悩み、六十一歳でぼうこうがんと診断され、何度も手術していた。「自分ほど原爆症にぴったりの男はいない」と思っていた。

 しばらくして、認定には基準があり、投下後に爆心地へ近づいた場合などは一切認められていないことを知った。「国は一律の公式に当てはめて審査し、実態を聞いていない。話し合えば分かってもらえるはず」。突き動かされるように原爆症認定集団訴訟に加わることを決め、千葉訴訟の原告第一号となった。

■ 友だち見つけたい
 一九四五年八月六日。浅井さんは、広島市立中学校の二年生だった。学校から指示された作業に向かうため、爆心地から約五キロの場所で汽車に乗り込もうとしたところで被爆した。

 同じころ、一年生ら三百数十人が爆心地から約三百メートルの所で建物を壊す作業をしていた。安否は分からない。級長で責任感の強かった浅井さんは教師の指示で捜しに行くことになった。

 原爆ドーム付近の路上を捜したが見つからない。八日からは兵隊に交じって、川に無数に浮いていた遺体を引き揚げる作業をした。

 遺体は舌や目が飛び出し、皮膚は焦げ茶色。衣服は身につけておらず、浮袋のようにふくれ、硬くなっていた。「友だちを見つけてやりたい一心。感覚を失っていた」。遺体を物のように運び、十−二十体をまとめては油をかけて燃やした。三日間で火葬した遺体は約百体に上った。

 同月十日まで毎日通ったが、生徒の遺体は一体も見つからなかった。熱が出て頭が割れるほど痛くなったため作業をやめて、母親の実家に避難した。下痢が始まり、げっそりとやせて衰弱した。髪の毛も抜けた。

 翌年の一月に復学したが、同級生はくしの歯が欠けるように、一人また一人と亡くなっていったという。

 徹底的な軍事教育を行った当時の教師は戦後になって全員学校を去った。生徒たちが、いつ、どこで、どのように亡くなったかについて学校が調査することもなかった。

■ 「金目的」中傷恐れ
 千葉訴訟は提訴から四年が経過した。「裁判では発言の機会がほとんどなく、がっかりした」と浅井さん。しかも同じ時期に提訴した各地の地裁で、すでに原告勝訴の判決が出ているのに対し、千葉ではいまだに結審すらしていない。

 しかし、原告となったことは、浅井さんの意識を大きく変えた。

 「同情を買うだけ」と長く拒んできた被爆体験の語り部を積極的に引き受けるようになった。同級生の多くが亡くなったことや、核兵器の恐ろしさを伝えることの大切さを認識したからという。

 それでも仕事への影響や、「認定で支給されるお金がほしいだけでは」という中傷を恐れて、本名を公表する勇気はまだない。「開き直っている気持ちもあるが、決心がつかない」 (宮崎仁美)

 まもなく六十二回目の終戦記念日を迎える。戦争を知らない世代にとって、かつて日本が突き進んだ無謀な大戦は既に“歴史”になろうとしている。しかし原爆の後遺症で苦しみ、原爆症認定集団訴訟に加わったものの、いまだに本名を明かすことをためらう人、地下工場建設に従事しながら、歴史の闇の中に消えようとしていた朝鮮人労働者の実態を調査、その成果を啓発し続けている人、敗戦の混乱の中、中国に置き去りにされた残留日本人の生活を支援するために奔走する人−。大戦が歴史にならない人たちも多くいる。そうした人たちの声を聞いた。

 原爆症認定集団訴訟 被爆者の病を被爆による「原爆症」と認めない処分をした国に対し、処分の取り消しを求めて約270人が原告となって全国の裁判所で係争中。広島地裁など6地裁で原告側が勝訴している(いずれも国が控訴)。千葉地裁では2003年5月に提訴し原告は7人。原爆症と認定されると、医療手当が支給される。認定には厳しい基準があり、被爆者約25万人に対し、認定者はわずか約2200人。安倍晋三首相は今月、認定基準の見直しについて言及し、政府は見直しに向けて検討を始めた。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/chiba/20070812/CK2007081202040577.html


消えない戦争の傷 千葉の現場から<中> 地下工場 朝鮮人の過酷な実態追う
【東京新聞】2007年8月14日

 「町の大切な歴史を忘れないで」−。終戦間近の一九四四−四五年、大網白里町では、零式艦上戦闘機(ゼロ戦)の部品を製造する地下工場の建設が進められていた。同町の住民団体「戦時下の郷土を考える会」代表で、元高校教諭黒須俊夫さん(78)は、この工場の建設跡地や作業の実態について調査し、展示会を毎年開いて結果を発表し続けている。展示会は今夏、九回目を迎えた。

 当時、空襲対策として、全国の工場で地下化が進められていた。大網白里町の地下工場は、千葉市にあった日立航空機の分工場として建設が計画された。五百人以上の朝鮮人も作業に従事していたという。

■ 資料残らず難航
 黒須さんは、全国一斉に行われた朝鮮人強制連行の調査に協力する形で、九一年ごろから地下工場での作業の実態などを調べ始めた。

 しかし、当時の資料は燃やされるなどして、ほとんど残っておらず、調査は難航。「手元にあったのは昭和三十五(六〇)年ごろの住宅地図くらい。作業の実態どころか、地下工場の場所さえ分からなかった」と振り返る。

■ 70人以上の話聞く
 「当時のことを覚えていないか」と住民に聞いて回るうちに、「名前も住所も言わない」という約束で資料を提供してくれたり、実際に働いた在日朝鮮人が証言してくれたりして、徐々に全体像が明らかになった。六年ほどかけて話を聞いた人は七十人以上に上った。

 「戦時下の暮らしは日本人もひどかったが、作業員宿舎の朝鮮人はひどさが違った」と黒須さん。「黄色くなったぼろぼろの下着を身につけ、食事を取るのは野外。トイレは穴を掘って囲いをしただけの屋根もない所だった。とても人間的とは言えない生活だったらしい」

 結局、地下工場は全体の四割ほどしか完成せず、終戦を迎えた。

 黒須さんは「町の重要な歴史を知ってもらいたい」と、町の協力を得て九九年から、同町で展示会を開き、住民から聞き取った証言や調査の成果などをパネルにして披露している。毎年三日間の会期中に延べ二百人ほどが訪れて好評だが、高齢になるにつれ、開催は体力的にきつくなっているという。

■ 学徒動員経験ゆえ
 それでも続けているのには理由がある。

 黒須さん自身も中学三年生だった四四年九月から九カ月間、学徒動員で横浜市磯子区にあった工場で働き、ゼロ戦の部品などを製作した。

 戦争経験者だからこそ、最近の風潮に危機感を覚える。「だんだん世の中が、軍国主義とまでは言わないが、軍事力が増強され戦争を肯定するような方向に進んでいる感じがしてしょうがない」。頑張れる限り、展示は続けていきたいという。 (宮崎仁美)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/chiba/20070814/CK2007081402040906.html


消えない戦争の傷 千葉の現場から<下> 中国残留日本人の力になりたい
【東京新聞】2007年8月15日

 永住帰国した中国残留日本人やその家族を世話する「自立指導員」という資格がある。奥村正雄さん(76)=千葉市花見川区=は、指導員になって十五年以上。「中国語への興味から始めた仕事。帰国者を通して中国の生活や文化に接することができるのが魅力だね」と話すが、続けるうちに、日本社会が抱える問題も見えてきたという。

■ 国交正常化機に
 奥村さんは新潟県生まれ。地元の旧制中学在学中に終戦を迎え、二十歳で上京。週刊誌のフリーライターなどをやりながら、家業の都合で東京と新潟を往復していた。中国とはかかわりのない日々を過ごしていた。

 一九七二年に転機が訪れる。この年、田中角栄首相(当時)が日中国交正常化を実現。日本中でにわかに中国語学習熱が高まり、新潟市の公民館でも中国語教室が開設された。特に中国語に関心があったわけではないが、当時は英語以外の外国語を学べる機会は珍しく、何となく参加するうちにのめり込んでいった。

 ちょうど残留孤児らの存在がマスコミでクローズアップされ始めた時期。ある日の新聞で、同県小千谷市に一時帰国した残留孤児の二人兄弟がいることを知る。覚えたての中国語を試してみたくて、友人と一緒に兄弟を訪問。複雑な会話はできなかったが、何度も会ううちに親しくなった。

 あるとき、弟の方から身元引受人になってほしいと頼まれた。日本帰国を望んでいるが、(日本にいる)親族からは反対されているという。だが、経済的な理由で断らざるを得なかった。「自分を頼ってきたのに、力になってあげられなかった」。今でも忸怩(じくじ)たる思いだ。

■ 実らなかった支援
 新潟ではまた、残留婦人の帰国者と中国人の夫のために、ギョーザ店の開店資金を集めたこともある。ともに中国では教師だったインテリ夫婦で、日本で生活保護を受けるのを潔しとせず、中国に戻りたがっていた。

 そこで中国語の勉強仲間たちと一計を案じ、得意料理の水ギョーザの店を開くことを提案。地元紙で募った支援金を元手に実現させた。店は順調に滑り出したものの、次第に飽きられ客足は遠のいてしまう。それでいったんは中国に戻ったが、子供が日本に住むのを強く希望したため再帰国。「新潟には不義理をしたから」と、他県で暮らすことになったという。

■ 差別にさらされ
 奥村さんが千葉市に引っ越したのは八九年ごろ。間もなく自立指導員の資格を取り、永住帰国者の世話を始めた。これまで担当したのは三十世帯以上。一世帯について派遣期間は原則三年以内だが、期間を過ぎても頼ってくる帰国者は多い。ほかに頼るべき人がいないからだ。後から自費で帰国した親類が住む住宅のあっせんを依頼されることもあるが、受け入れてくれる民間アパートは多くない。日本語が分からないまま日本の学校に編入させられ、ストレスで入院する子供も。露骨な差別に遭うこともある。「今でも彼らは、この社会の厄介者扱いなんだよね」と嘆く。

 小千谷市の兄弟との出会いからすでに三十年余り。たまたま飛び込んだ世界が、いつの間にかライフワークになっていた。「足が抜けなくなっちゃって。自分の時間はなくなっちゃったけど、やらなきゃよかったなんて思わない」 (宮尾幹成)

<メモ>中国残留日本人 戦後、旧満州に残され、中国人の養親に引き取られた幼児(残留孤児)や中国人男性と結婚した女性(残留婦人)らの総称。1980年代から帰国が本格化し、これまでに全国で6300人以上(厚生労働省調べ)が永住帰国を果たしたが、不自由な日本語や生活習慣の違いから、日本社会で暮らす上でさまざまな困難に直面するケースがほとんど。

 自立指導員 永住帰国者世帯が日本社会に定着できるよう、生活上の世話をする国の資格。定期的に訪問して相談に応じるほか、自治体や福祉事務所への仲介、日本語の指導などを行う。派遣期間は従来3年以内とされていたが、今年から4年目以降も状況に応じて派遣できるようになった。現在、県内に15人いる。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/chiba/20070815/CK2007081502041143.html

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