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□ひきこもり団体への訣別宣言 [yoshiya(仮)のブログ。]
http://ameblo.jp/yoshiya/entry-10027347206.html
2007-03-07 12:06:54
ひきこもり団体への訣別宣言
テーマ:ブログ
今まで何度も書いてきたことであるけれども、京都でも語ったとおりに、既存のひきこもり支援団体への疑問が日々募ってきた。京都では時間も限られているし他の人もいる手前、自分の考えを全て話すことは当然できなかったし、しなかった。
めぼしいひきこもり系団体の中で、支持できる団体はひとつもない。下記の文章では、「ひきこもり」を「不登校」と言い換えてもいい。「ニート」でも「フリーター」でも同様。
ひきこもり団体にはだいたいパターンがある。主に「心理系」「就労系」「教育系」「家族系」の4パターン。
「心理系」の団体は、何でもかんでも心の問題にしたがる。クスリやカウンセリングだけで全て解決するわけないだろうが。どこの回し者なんだ。
病名そのものを団体名にしたりして、政府から金を引っ張るためにひきこもりに病名をつけ、病院送りにして投薬して「ナンチャラ療法」などを施せば解決という戦略を持つ。全ての人にそんなことをされたらたまったものじゃない。
効果があるのかないのかすぐにはわからないクスリやカウンセリングだけが売り物の「心理系」は、精神科医の懐を暖めることはできても、当事者たちにはせいぜい癒し系で終わりだろう。
「就労系」は、2005年頃からのニートブームに乗って勢力を伸ばした。ニートといえば予算が取れる役人の思惑とも相性がいい。「ニート対策」とは、若者の就職支援よりも、それによって予算を確保できる役人の雇用確保対策だと思った方がいい。
ニートブームを利用する「就労系」は精神論とも親和性が高い。
「育ててあげよう」というお節介は、「最近の若いやつは」というニート批判の連中と「勤労意欲が足りない」という認識を共有する。「本人のやる気の問題だ」というわけだ。劣悪化する労働環境を改善しなければいけないという問題意識は双方とも持ち合わせていない。
ニート批判をしている暇があるならキャノンの偽装請負を糾弾しろ。
「教育系」は不登校や若年のひきこもりを対象にするフリースクールなどだが、すでに常識であろう「学校だけが人生じゃない」も、低学歴では生涯賃金で莫大な格差を生むという現実社会の前では、やはり精神論以上の価値を持たない。
若年のうちはまだ学歴を挽回する機会もあろうが、年齢が上がれば「学歴がなくたって」とばかり言ってもいられない。現実に就職先がなかったりするからだ。
しかし、いまさらどこかで教育を受けようと思っても行く学校などなく、ユーキャンのように、生涯成果が得られない生涯教育で、生涯金をむしりとられて終わるだけになることも目に見えている。
本当に「学校だけが人生じゃない」といえる社会を実現していく取り組みがなされなければ、ただのお題目で終わる。「学校に行かなくても幸せになれた」という人の存在は、「学校にも行かなかったし幸せにもなれなかった」という人にとっては気休めにもならない。
「家族系」は、ひきこもりは家族関係に問題があるのだから、その構造を変えることで変化を起こそうという発想だ。その発想自体は間違いではなかろう。
具体的な方法には、例えば、家族と引き剥がして生活させてみるという、流行の「若者自立塾」などがあろう。
しかしこれは、家族が丸抱えをしていたものを別の場所で丸抱えするという構図で、要するに丸抱えのたらいまわしである。その負担は家族丸抱えになる。費用は、安くても月に十数万円で、年間では数百万単位になる。
訪問活動もこの発想だ。
しかし、この訪問活動というのは、ほぼ例外なく家族の通報によって始まる。本人が「自分のところへ訪問してくれ」と連絡するなどありえない。
つまり、本人の意向が介在する余地がない。いつスタートを切るかを、本人ではなく外部の他者が勝手に決めるのだ。
しかし、本人はすでに新たなスタートを切ろうと心の準備をしているのかもしれないではないか。自分のタイミングを見計らっているかもしれないではないか。それを外部から「今すぐにこういう方向でスタートしろ」と「自立のレール」を敷いてしまう。
「何かをすることも、しないこともできる」という状態を自立というならば、拒否する自由を認めていない時点で「自立阻害活動」だ。
「レンタル○○さん」みたいなわけのわからないやつが家に押しかけてきたら、金属バットで殴ってやれ。正当防衛だ。ひきこもりの人には自立のための核武装を勧めたい。非武装中立では侵略されるのを防げない。
「親の会」による、親の都合どおりの自立をさせようという試みも、親の愛情の牢獄から子どもを抜け出せなくさせる。親の監視の目からの逃げ場をなくすという点では、学校と地域と家族が一体となって子どもを守るという間違った教育政策と同じように、子どもの自由を奪い居場所と行き場をなくす。
親の願望をなぞることが子どもにとっては屈辱なのだ。親の都合どおりに自立することなどありえない。親の都合どおりに振舞っていたら、その子どもは自立したとはいえないだろう。
親にとって都合の悪いことをし始めたときが真の自立なのだ。「親の会」にとってはそれが「不都合な真実」であっても。
親子関係を修復するのが最も難しいのだから、そのエネルギーの百分の一でもあれば他人との人間関係を作ることができる。
親子関係から手をつけることはうまい手法とは思えない。
どの団体も、社会問題を放置して個人へのしわ寄せの構造を維持するすることで、永久に商売ができるという問題をはらむ。わらにもすがる思いの家族につけ込めば、「子どものためなら」といくらでも出すだろう。ステイクホルダーとなる団体は、社会問題の永続をむしろ望むだろう。
さらに、「左翼的」市民運動団体にありがちな縄張り意識と内ゲバ体質ももれなく標準装備している。
自分の団体の政策に都合の悪い意見は聞かない。ひきこもり支援が目的だったのではないのか。自分にとって都合のいい対象しか支援しないのか。
「こんなやつに支援されるくらいなら死んだほうがマシだな」と思う連中も現にいる。
自分の考えが絶対に正しいと思う連中ばかりが団体の代表者などの地位を占めているから、団体同士は仲が悪くなる。
「自分の考え」など邪魔になるだけだ。ひきこもりの人の役に立つことが目的なのか、「自分の考え」の正しさを押し通すことが目的なのか、どっちなんだ。
そもそも、「自分の考え」だけにしがみついて閉鎖的にひきこもって活動しているひきこもり団体を、一般の人が関心を持ち支持することなどありえないではないか。エゴイスティックでクレイジーな連中の集まりとみなされるのが関の山だ。一般的な公共性に資する活動に見えなければ、社会運動体としては消滅するしかない。
ひきこもり対策として、学校教育の多様化や労働環境の改善などの一般の人の利益にもなるだろう政策を主張して理解を得ようという発想はまずない。「SSRIの充実」など、誰が関心を持つか。
「ひきこもり支援活動」に関わる者は、総じてどうしようもなく視野が狭い。個人の問題としてばかり考えていて、社会の問題を考えない。個人の問題を解決しても、問題だらけの社会に個人を押し出せば、うつ病にされて再びはじき出される危険性には気づかないのか。
ひきこもり支援者といっても、もともとそういう職種を目指してキャリアを積んできた人など皆無だ。
精神科医やらカウンセラーやら教員やらあるいは当事者などをやっている時に、たまたまひきこもりの事例にぶつかったからこの世界に足を踏み入れてきたという人しか現実にはいない。
僕も当初はひきこもりを支援する仕事をしようという意思を持っていたわけだが、支援者を養成するシステム自体が存在しない。支援者になろうという意思があっても支援者になる方法がない。
つまり、もともと「専門家」など存在しないのだ。
自信満々のヤツはまず疑ってかかるに越したことはない。
自分が元ひきこもりで今はひきこもり支援者になっているという人も多くいるわけだけども、支援者としての立場での都合しか考えられなくなっている人が多いように見える。
支援者としての都合よりも、当事者が利用しやすくすることを優先するべきであるのに、自分がひきこもりだった頃のことを忘れてしまったのか。
当事者性の弊害ともいえようか。当事者の意向を聞くことは必要不可欠であるが、「自分も当事者だった」からといって特権が付与されるわけではない。
特に、フリースペースの世話人などの責任ある立場にあるものが、他人の意見を聞かず、自分だけの思い出や経験などの「当事者性」にしがみつくことは弊害しか生まないだろう。
もう一方の当事者である家族にも同じことがいえる。家族の思いを聞くことの必要性と、団体としての家族会の主張の正当性が別問題だということは、家族会の利害が当事者の利害と全く異なることを見るだけで思い半ばに過ぎよう。
支援者は善意で一生懸命やっているのだから多少問題があっても批判するべきではないという間違った風潮もある。「善意でやっている人を批判してはいけない」という悪しき学校教育の弊害である。「善意で一生懸命」間違ったことをしているのならば、一生懸命やらないでいてくれたほうがよっぽどいい。
ひきこもりを利用して金儲けしているだけなんじゃないのかという団体も現実にある。しかも自分たちは善意なのだから手に負えない。
「若者の自立支援のため」といえば誰も反対はできない。しかし、「自立支援」などと言いながら、「まだ自立していない」と言い続ければいくらでも金が取れる。
こういうことを言うと、「じゃあどうすればいいと言うのだ」というのがお決まりの反論である。
「今、目の前にいる人」の「個人の次元」と、「社会的な次元」の区別がついていない。批判しているのは「社会的な次元」のほうである。
「今、目の前にいる人」の「個人の次元」を一般化して、「社会的な次元」の対処法としてしまう間違いを犯している傾向がある。
例えば、「今、目の前にいる人」の中で、親が殴って改善した人が一人いたからと言って、全員殴ればいいみたいな話にしてしまう長田百合子のような話である。長田のごときは明白な悪であるからまだいいとして、一見すると善である場合もある。
「ひきこもり」というのは「病名」ではなく、あくまでも「状態像」である。原因もさまざま、「これをすれば解決する」ということはない。「個人の次元」では、あらゆる方法が効果を有する可能性がある。
戸塚や長田や杉浦に助けられた人もいるだろう。当たり前だ。しかし、連中のやり方は違法だ。三人のうち二人は人殺しだ。それは「社会的な次元」の話だ。
無自覚に金儲けの構図になっている場合もある。それで助けられた人もあるのだろう。だからといって、「社会的な次元」では、社会問題を個人にしわ寄せして家族に負担させて金を得るという「金儲け」であることに変わりはない。
そういう団体に御用学者みたいなのがくっついてお墨付きを与え、著名人をくっつけてメディアに出る機会も多く持てば、「あれが正しいひきこもり支援法なのだな」と一般の人に思わせる。
見事にビジネスとしては成功するだろう。充実した青春時代かもしれない。
しかし、それでいいのだろうか。
このような疑問を持たなければ、どの団体の中でも立場は安泰なのだろうし、世渡りはうまくいく。何も考えずにボーっとしていたほうが、得するのだろう。
学校にいれば教育制度に疑問を持ち受け入れられず、社会へ出る場面になれば社会問題に疑問を持ち受け入れられず、もし会社に入ることになったとしても、その中で疑問を持ち受け入れられないということになったのだろう。疑問を持つようなことがなければひきこもりにもならずに済んだ。
結局、どこに行っても疑問を持ってしまうのだ。
僕はひきこもり支援活動に身を投じようと思って、ひきこもりから抜け出したのだ。しかし、ひきこもり当人のことを考えているとはとても思えないような「支援者」を見て、自らのひきこもり経験にもかかわらずひきこもり当人の気持ちを思うことを忘れてしまったかのような「元当事者」を見て、社会問題への意識のない視野の狭い「社会運動体」・ひきこもり団体を見て、どうにも可能性を感じなくなった。自分のひきこもり最中と同じくらいひきこもり活動の未来が見えないと思うようになった。
念のため申し添えておけば、支援活動をしている人たちは善意で一生懸命やっていることを否定はしない。ほとんどがいい人たちだ。個人的に何か嫌な思いをしたわけではないし、むしろお世話になってきた。
しかし、あえて言わなければならないこともある。
このまま既存のひきこもり団体と同じことをしていてもダメだろう。そういう疑問をぬぐえなくなってきた。
だからといって、何もしなくなるというわけではない。
自分は元ひきこもりだ。こちらの仲間だ。吾々がひきこもりである事を誇り得る時が来るまで。
さらに自らの立場で闘いぬくだろう。
このことを宣言して、あるいは訣別宣言としたい。
善意で一生懸命に「自立支援活動」に取り組んでいる人たちは、そういう疑問を持つことは、果たしてあるのだろうか。