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■急進的なフェミニズムはウーマン・リブ的共産主義
2003.5.14
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/opinion03d.htm
<目次>
第1章 フェミニズムの本質とは
第2章 マルクス=エンゲルスが源
第3章 レーニンが実行し、ソ連は混乱
第4章 西欧マルクス主義も根本は同じ
第5章 ルカーチは文化テロリズムを敢行
第6章 グラムシは文化的ヘゲモニーを着想
第7章 フランクフルト学派の批判的否定
第8章 マルクスとフロイトの統合
第9章 エロス的革命を唱導したマルクーゼ
第10章 性解放を煽動するライヒ
第11章 共産主義は死んでなどいない
第12章 日本ではどう展開したか
第13章 道徳を破壊するウーマン・リブ
第14章 共産主義とウーマン・リブが合体
第15章 ジェンダーフリー派の登場
第16章 人類の自滅的衝動を克服しよう
第1章 フェニミズムの本質とは
わが国では、社会のそこここでジェンダーフリーが猛威をふるっている。国会では、夫婦別姓の法制化をめざす提案が繰り返されている。これらの動きを推進しているのは、フェミニストと呼ばれる人たちである。
日本ではフェミニストというと、「女に優しい男」という意味で使われる。しかし、英語のフェミニストという言葉にこういう意味はない。フェミニストとは、フェミニズムを主張する人のことである。
フェミニズムとは、18世紀末、フランス革命の中から誕生した男女同権論に基づく女性の権利拡張の思想・運動である。その後、女性の権利は拡張され、性差による不当な差別は、少しづつ改善されつつある。この古典的な意味でのフェミニズムは女性解放論のことであり、女性の権利を獲得・拡張しようとする運動である。女性解放運動は、わが国でも戦前から行われ、婦人運動として、男女の平等・同権を訴え、女性の地位の向上と権利の拡大を唱えてきた。その限りではその主張は正当であり、戦後、わが国では法的・社会的に女性の権利の確立が相当程度、進んできている。
しかし、今日のフェミニズムの主流は、単に男女の平等・同権を求めるものではない。もっと過激な思想に変貌している。
わが国では、親子の情、夫婦の和を重んじてきた。そして、先祖を敬い、子孫の愛育に心を尽くしてきた。家族のつながりを大切にすることは、わが国の伝統であり、また国民の常識である。しかし、急進的なフェミニズムは、こうした伝統や常識を根底から覆そうとしている。
急進的なフェミニストは、誰もが女性に備わっていると信じている母性本能を否定する。母性本能などというものは、存在しないというのである。また、特に3歳までは母親が常に子供とともにいて子育てをするのが良いということは常識だが、これも、こうしたフェミニストは、男性が女性を支配するために作った虚偽の観念だという。そして、彼女たちは、すべての女性は家庭から出て、働くべきだと主張する。それゆえ、専業主婦は、彼女たちの攻撃の的である。彼女たちは、専業主婦の女性たちを、口を極めてののしり、罵倒する。
急進的なフェミニストは、結婚という制度は廃止すべきだと主張する。そして、個人の自由の拡大を主張する。結婚とか家族に縛られることなく、個人としての自由を追及したいというのである。このなかには、性的自由が含まれる。それは、フリーセックスの主張に結びつく。
急進的なフェミニズムの本質のひとつは、個人主義である。フェミニズムは、女性における個人主義の徹底を推し進める思想でもある。個人主義を徹底するならば、家族という人間関係は束縛となる。女性の自由拡大のためには、家族を解体しなければならない。それが、この運動の目指すものなのである。
個人主義は、西洋近代啓蒙思想の特徴の一つである。個人主義は、社会の基本単位は個人であると考える思想である。そこでは、親子・夫婦・祖孫などの家族関係を捨象した、抽象的な個人というものが仮設される。アトム的つまり原子的な個人を単位として人間関係を考えるのが、出発点となっている。そのため、西洋近代啓蒙思想では、個人と個人、集団と集団の間の関係を、力の関係としてとらえる。例えば、王と貴族や市民の関係を力関係としてとらえ、それをひっくり返そうとしたのが、近代デモクラシーである。さらに資本家と労働者の関係を力関係としてとらえ、これをひっくり返えそうとするのが、共産主義である。
その共産主義の影響の下に、急進的なフェミニズムは、男女の関係を階級対立の一種ととらえる。それゆえ、このフェミニズムの本質のまた別の一つは、闘争の思想である。急進的なフェミニズムは、夫婦関係、さらに一般の男女関係を、支配関係ととらえる。そして、女性が男性に支配されていると考え、この状態をひっくり返そうというのが、この種のフェミニズムである。
共産主義の始祖マルクス=エンゲルスは、西洋近代啓蒙思想を徹底し、すべての歴史は階級闘争の歴史であるととらえた。唯物史観は、階級闘争を社会発展の原動力とする。彼らはこの一面的な歴史観を、家庭・男女関係に持ち込む。階級闘争を、家庭の中から行おうというのが、共産主義的なフェミニズムなのである。実際、このフェミニズムが主張する「結婚制度の廃止」も、「家族の解体」も「性的自由」も、共産主義が唱えてきたものである。
共産主義的なフェミニズムは、共産主義の女性解放運動の新たな形態である。また、それはフェミニズムの新たな発展形ともなっている。共産主義の始祖・マルクス=エンゲルスはもちろん、その後、彼らの思想を継承・発展させたレーニンや、ルカーチ、グラムシ、フランクフルト学派、ライヒ、マルクーゼ等の理論が、こうしたフェミニズムの背後にある。特に既成の文化を破壊することを革命の手段とする共産主義の一派の影響が、色濃く現れている。
それと同時に、今日のフェミニズムには、アメリカで生まれたウーマン・リブの思想が流れ込んでいる。ウーマン・リブは、それまでの女性解放運動・女権拡張運動を、極めて急進的なものにした。既成の道徳や秩序を徹底的に破壊しようとするものである。ドラッグ(麻薬)やフリーセックスが肯定され、同性愛も肯定されている。
それゆえ、今日の急進的なフェミニズムは、共産主義とウーマン・リブとが合体した、ウーマン・リブ的共産主義と見ることができる。これは、共産主義革命運動の新たな展開であると同時に、人類の精神文化を破壊しようとする危険な運動である。このことを確認するために、本稿を書くものである。(ページの頭へ)
第2章 マルクス=エンゲルスが源
マルクス=エンゲルスは、共産主義の社会を実現することを目標とした。共産主義とは、コミュニズムの訳語である。コミュニズムとはコミューンをめざす思想・運動である。コミューンとは、私有財産と階級支配のない社会であり、個人が自立した個として連帯した社会であるとされる。(註1)
マルクス=エンゲルスは、私有制と階級支配に諸悪の根源を見ていた。その見方で彼らは、家族というものをとらえる。近代の家族は、ブルジョワ的私有に基礎づけられている。ブルジョワ的私有が近代家族を生み出したのだとする。それゆえ、私有制の廃止によって、家族は消滅する。女性解放も、私有制の廃止によって、初めて実現するとするというのが、彼らの理論だ。
それでは、彼らは近代的な家族を解体したうえで、どのような社会を建設しようとしたのか。彼らは、新しい人的結合によるコミューンの社会について、具体的には語っていない。むしろ語れなかったというべきだろう。想像の中にしかない社会であり、空想に近いものだったからだ。
人的結合体を考えるには、人格という概念が必要になる。ところが、唯物論的な世界観は、自然と人間を物質ととらえ、神・霊魂などの観念を否定する。それととに、唯物論的な人間観では、人間の人格的・道徳的欲求が見失われている。人格的成長、精神的向上は、親子・夫婦等の家族関係の中で、基礎が作られるものだが、マルクス=エンゲルスは近代家族を憎むあまり、家族が人格形成に対してもつ意義をも否定してしまった。人格形成のための基本的な場所を消してしまったならば、新しい人的結合体を構想することもできなくなる。家族がバラバラになり、自由になった個人とは、愛と生命の共同体を失った孤独な人間である。その人間に、どういう社会の建設が可能だというのか。マルクス=エンゲルスは、まったく間違った方向に、理想を求めたのだ。
ところが、マルクス=エンゲルスは、労働者が階級として団結し権力を奪うならば、この社会の建設ができると考えた。そして、労働者を階級闘争に煽動した。また、女性が家庭から外に出て労働することによって、この想像上の社会が実現できるという幻想を振りまいた。
エンゲルスは、著書『家族・私有財産・国家の起源』(岩波文庫)で、以下のように述べている。
「近代的個別家族は、妻の公然または隠然の家内奴隷制のうえに築かれており、そして近代社会は、個別家族だけをその構成分子とする一つの集団なのである。今日、すくなくとも有産階級では、夫は大多数のばあい稼ぎ手であり、家族の扶養者でなければならないが、このことが彼に支配者の地位を与えるのであって、これは法律上の特権を一つも必要としない。夫は家族の中でブルジョワであり、妻はプロレタリアートを代表する。…近代的家族における夫の妻にたいする支配の独特の性格や、夫婦の真に社会的平等を樹立する必要性並びに方法も、夫婦が法律上で完全に同権になったときに初めて、白日のもとに現れるであろう。そのときには、女性の解放は、全女性が公的産業に復帰することを第一の前提条件とし、これはまた、社会の経済的単位として個別家族の属性を除去することを必要とする、ということがわかるであろう」。
さらに、「生産手段の共有への移行とともに、個別家族は社会の経済単位であることをやめる。私的家計は一つの社会的産業に転化する。子どもたちの養育や教育は公的な事項となる。嫡出子であろうと私生児であろうと、一様にすべての子どもの世話を社会がみる」と。
すなわち、エンゲルスは、女性が真に解放され、真に男女の社会的平等が実現されるためには、まず女性が家庭から出て働くことが必要だと言っている。働いて経済的に自立することを、エンゲルスは主張しているのである。さらには家族を廃止して、子育てや教育は、家庭ではなく社会的に集団で行うようにする。そして別の形態の人的結合を造ることが必要だと言っているのである。
マルクス=エンゲルスは、女性が家庭の外に出て労働することで初めて女性たちは一つに結束し、集団(=労働者階級)として女性解放運動を戦い抜く可能性が出てくると考えていた。今日の急進的なフェミニズムが、すべての女性を家庭外で働かせようとするのは、全女性を労働者階級として階級闘争を激化するためである。
マルクス=エンゲルスは、女性を家庭外で労働させるだけでなく、結婚という制度を廃止し、男性が婦人を共有し、育児を集団的に行い、家族を解体することによって、共産主義の社会に近づくと考えた。そのために、家父長制を否定、一夫一婦制を否定、さらに性を自由化しようとするのである。
マルクス=エンゲルスは、18世紀に現れた空想的社会主義を継承し、「空想から科学へ」という言葉のように、科学的な社会主義を標榜した。彼らの先駆者の一人に、フーリエがいる。
フーリエは「ファランステール」と呼ぶコミューンを構想した。そこでは、一夫一婦制は無意味となり、恋愛や結婚は従来の拘束から解き放たれ、風俗の自由が提唱され、夫婦が「ニ組、三組、あるいは四組」で交際することが可能になる。さらに家族が廃止され、料理、育児等は集団で行われる。フーリエは「女性がそろって母性的傾向があり、そろって小さい子供の世話に熱心であるとは限らない」と考えた。そして、「幼年時代からスカートとズボンという対照的な衣服で男女を区別すること」を避けることとした。フーリエの思想は、今日のジェンダーフリー論の先駆けであり、性革命の発想でもある。
マルクス=エンゲルスは、こうしたフーリエのジェンダーフリー的性革命の発想を継承し、今日の急進的なフェミニズムの源となっているのである。この過程では、マルクスとフロイトの統合が重要な契機となった。(第8章で述べる)
話を戻すと、マルクスは、『ドイツ・イデオロギー』で、家父長制家族の長は、妻子を財産と考えると述べている。エンゲルスは『家族、私有財産及び国家の起源』のなかで、女性差別の根源は家父長制にあると論じた。そして家父長制を打ち倒そうとする。これと同時に、彼らは一夫一妻制の結婚という制度を打ち壊そうとする。
エンゲルスは、結婚に対して激しく憎悪した。それは、結婚には不可避に財産や社会的地位その他が伴うからである。エンゲルスは、愛情の冷却をもって直ちに婚姻の終了つまり離婚することを「共産主義者の道徳」と定めた。「愛情がつづく婚姻だけが道徳的である」と彼は言う。動物の一部は発情して交尾をし、子育ての短い間のみ「婚姻生活」をする。動物の婚姻は無所有という理想を体現しているという理由で、それをエンゲルスは理想とした。「愛情が積極的になるか、または新しい情熱的な恋愛によって駆逐される場合には、離婚が双方にとっても社会にとっても善行となる」(岩波文庫版)と。ここには、子供を中心とした考え方がない。大人が自由に暮らせることだけが、追求されている。大人の性愛の自由が優先的に追求されている。そして、自由な性愛のために、家族を解体しようというのである。
マルクス=エンゲルスは、家族を解体するための方法として、男性が婦人を共有することを打ち出す。彼らは宣言する。「共産主義者は…公認の、公然たる婦人の共有をとりいれようとする」「共産主義者はこれら(自由、正義など)の永遠の真理を廃棄する。…道徳を…廃棄する」(『共産党宣言』)。
男性が婦人を共有することを公認すれば、一夫一婦制は否定される。これは、従来の性道徳や家庭道徳を真っ向から否定するものである。その社会は、自由恋愛の社会となる。フリーセックスの社会であり、男女は三角関係どころか多角関係で重なり合った社会である。
これによって、家族に基づく社会全体の秩序が崩れる。その結果、すべての人間は、夫婦・親子の関係すらない個人としてバラバラに分解され、改めて集合した社会となる。これが、マルクス=エンゲルスの考えた共産主義社会実現の方法である。
左翼的なフェミニズムによるジェンダーフリー、急進的性教育、夫婦別姓運動は、マルクス=エンゲルスの思想を実現する道であることがわかるだろう。
マルクス=エンゲルスは、ブルジョワ的私有が、近代家族を生み出したとし、私有制の廃止によって、家族は消滅する。女性解放も、私有制の廃止によって、初めて実現するとするとした。急進的なフェミニズムはマルクス=エンゲルスの思想に基づき、ブルジョワ的私有が廃止され、共産主義社会が実現して始めて女性差別がなくなり、女性が真に解放されると考える。そして、プロレタリアートとしての女性がブルジョワとしての男性に取って代わって、女性が男性より優位に立つというのが、その論理なのである。(ページの頭へ)
註
(1)共産主義については、以下の拙稿をご参照ください。
「共産主義を総括する」
第3章 レーニンが実行し、ソ連は混乱
今日の急進的なフェミニズムの基本思想は、マルクス=エンゲルスにほとんど表われていることが前章において明らかになった。マルクス=エンゲルスの思想に基づいて共産主義革命を初めて実現したのが、ロシア革命である。革命の70年後にソ連は崩壊した。だから、共産主義は死滅したかのように思っている人が多い。その誤解が油断を招き、深刻な事態を生んでいる。誤解を解くには、フェミニズムがレーニンの行った政策を継承している関係を知るとよい。
ロシア革命は、マルクス=エンゲルスの予想し得ない出来事だった。マルクスは、『資本論』において、絶対的窮乏化、階級の二極分化、恐慌の不可避性を説き、西欧先進国でのプロレタリア革命を煽動した。ところが、彼の予想はことごとく外れ、先進国ではなく、後進国のロシアで革命が起こった。革命を成し遂げたレーニンの方法は、ロシア独特の暴力闘争運動の伝統に基づくもので、職業革命家による前衛党が主導する暴力革命だった。この方法はその必然的な結果として、一党独裁による官僚支配を生みだした。また、私有制を廃止し、社会的所有を実現したところ、ノーメンクラツーラと呼ばれる特権階級が生まれた。その後、社会主義的計画経済は破綻し、停滞と抑圧のなかで、ソ連は崩壊した。
ソ連が解体したことにより、政治革命の方法、経済政策等についてはレーニン主義は後退した。しかし、レーニンが行った社会政策・婦人政策・文化政策については、依然として同じ夢を追っているものが多い。その文化革命は、フェミニズムによって継承されている。
レーニンはマルクス=エンゲルスの思想に基づいて、社会政策・婦人政策・文化政策を行った。マルクス=エンゲルスの家族廃止論をそのまま実践し、発展させた。
八木秀次・高崎経済大学助教授は、次のように概説している。「ロシア革命の指導者たちはマルクス、エンゲルスの理論に基づきながら、女性解放のための徹底した政策を採用した。家長権が廃止され、女性は独立した人格として男性と同等の権利を手に入れた。参政権を得、離婚の自由、財産権および親権の平等が確立された。そればかりか女性を家族制度の束縛から解放して労働者として自立させるために家事労働の共同化、保育所の設置が主張され、家族の廃止・死滅、性の自由化まで主張されたのである」
この点を、具体的に見ていきたい。まずレーニンは、1919年11月の第1回全ロシア婦人労働者・農村婦人会議において、次のように発言した。
「女性は家事の苦役におしひしがれており、彼女をこの状態から救い出しうるのは社会主義だけである。社会主義だけが、われわれの小さな家計から共同経済へ、土地の共同耕作へとうつっていくときにだけ、ただそのときにだけ、女性は完全に自由となり、完全に解放されるであろう」。
レーニンの発言を受けた形で、女性党員イネッサ・アルマンドは、分科会の一つで「国民経済と家庭経済における女性労働者」という報告を行った。アルマンドは、女性を家事労働から解放するためには、いたるところにできるだけ早く公共的な調理場、食堂、公共的な洗濯場、日常生活品の工場を造らなければならないと強調した。今日のフェミニストが主張する「家事のアウトソーシング(外注化)」を唱えたのである。
また、当時、アレクサンドラ・コロンタインという女性党員は、次のように述べた。「古い家族は滅びつつある。…家庭は必要でなくなった。…これまでの家庭にかわって男女の新しい共同的様式として、共産主義社会にある二人の自由で独立した、平等に働く同志的・恋愛的結びつきが生まれる」と。彼女は恋愛、結婚、セックスは何物にもとらわれない自由な活動であるべきだと彼女は考えた。今でいう「ライフスタイルにおける自己決定権」を主張したのである。革命後のロシアでは、私有財産を基礎としたフルジョワ的男女関係が打破されたことにより、青年の間に、性は自由だという風潮が広がった。彼女はこの風潮を、共産主義社会では性欲を満たすのは「一杯の水」を飲んで喉の渇きを癒すのと同じように小さなことだと正当化した。現在、フェミニストが推し進めようとしている「性の自由化」を正当化したのである。彼女の主張は青年層に悪影響を及ぼしたため、さしものレーニンも批判するところとなった。
「家事のアウトソーシング(外注化)」「ライフスタイルにおける自己決定権」「性の自由化」が、いずれも革命後のソ連で唱えられたことは、驚くべきことである。それとともに、今日の急進的なフェミニズムが、共産革命の中から起こった主張を、より過激な形で推進しようとしていることがわかる。
革命後、ソ連ではレーニンの指導の下、共産主義社会を目指して家族を解体するために、結婚・離婚の自由化を進めた。近親相姦や重婚が犯罪リストから除かれ、堕胎も公認されることになった。そして1927年には登録された結婚と未登録の結婚を同等とし、重婚でさえも合法とされた。やがて、想像もつかない社会問題が起こった。青少年の性行動や家族の秩序が混乱したため、堕落と離婚が激増した。その結果、出生率が激減し人口が増えなくなった。家族関係・親子関係が弱まったため、少年犯罪・非行が急増した。少年による暴行傷害、重要物の破壊、住宅への侵入略奪と殺傷、学校襲撃と教師への暴行、婦女暴行が横行した。「性の自由化と女性解放」というスローガンは、逆に強者と乱暴者を助長し、弱者と内気な者を痛めつけることとなった。数百万の少女が漁色家の犠牲にされ、数百万の家なし子が生まれたと当時の新聞は書いている。
さすがのソ連政府も、これは大変だと気付いた。レーニンを襲って権力を独占したスターリンは、政策を180度転換した。1934年頃から、従来の家族政策・女性政策を根本的に見直し、逆に家族を「社会の柱」として再強化する方針を採った。家族の尊重、離婚の制限、妊娠中絶の禁止等を実行した。1936年のスターリン憲法は、家族尊重と母性保護を規定するようになった。1944年には未登録結婚の制度を廃止して、嫡出子と庶子との差別を復活させた。さらに子供の保育・教育における両親の責任を重くした。レーニンの唱えた家族の死滅論を撤回し、家族を社会の基礎単位として重視することになった。また、女性は、労働者としてより母親・母性として尊重されるようになった。
このようにソ連では、ロシア革命後、マルクス=エンゲルスの理論を実践したために、破壊的な結果を招いた。そこで、その社会政策・女性政策は大きく見直されたのである。しかし、これによって、マルクス=エンゲルス=レーニンの思想の欠陥が、本当に認識されたのではない。彼らの思想は、欧米や日本に、しぶとく影響を続けていくのである。(ページの頭へ)
第4章 西欧マルクス主義も根本は同じ
第1次世界大戦の開戦まじか、ドイツで一人のユダヤ人女性共産主義者が、革命の緊迫性を直感していた。ローザ・ルクセンブルクだ。レーニンは、職業的革命家による前衛党の上からの指導性に力点を置いた。帝政ロシアは、ツアーリズムに支配されており、民主主義の伝統はなかったからだ。これに対し、ルクセンブルクは、レーニンの前衛党組織論を批判し、ソビエト政権をも厳しく批判した。そして、ドイツでは民主主義が相当程度まで浸透しているとして、プロレタリア大衆の自発性に期待した。彼女は、「民主主義は、プロレタリアートの権力掌握を必然的にし、かつまた民主主義のみがそれを可能にするが故に、無くてはならないものだ」とした。しかし、当時のドイツには、彼女が思い描いた革命的プロレタリアートなど存在せず、大衆の自発性への期待は勝手な思い込みに過ぎなかった。
ロシア革命後、ドイツ・ハンガリー等で革命運動が起こったが、いずれも失敗に終った。ローザ・ルクセンブルクは、この中で敗死した。第1次大戦において、西欧の労働者階級は、国際共産主義より、自国のナショナリズムを支持した。彼らはマルクスにより革命の主体と目されていたが、共産主義者の煽動には乗らなかった。
果たしてマルクスの何が問題だったのか。マルクスは、資本制社会はブルジョワジーとプロレタリアートに二極化し、労働者は絶対的に窮乏化する。恐慌が必ず起こり、プロレタリアートが蜂起して革命が起こると予想した。しかし、実際は、そうならなかった。19世紀の末期以降、西欧の労働者階級の生活水準は向上し、新中間層が出現し、議会制民主主義による漸進的な社会改良が進んでいた。労働者は、プロレタリアートという、すべてを奪われ、失った階級ではなくなっていた。また、マルクスが定式化した経済的土台つまり下部構造により、上部の社会的な意識が決定されるという理論も不十分だった。上部と下部には相互作用があり、かえって人々の意識が経済に影響を与える。資本主義の発達自体がそうであったことは、マックス・ウエーバーが「プロテスタンティズムと資本主義の精神」で明らかにした。人間は観念によって動く部分が大きく、観念体系には、下部構造に対し、相当の独立性がある。宗教や道徳による価値観が経済活動の動因ともなる。マルクスの定式では、意識の問題の重要性をとらえることができなかった。こうして唯物論に基づく、マルクスの二元論的で決定論的な理論は、歴史と社会の現実の中で破綻した。
付け加えておくと、さらに根本的な問題は、そもそも西欧の帝国主義は、15世紀からのアジア・アフリカ・ラテンアメリカの植民地支配の上に存立していることである。西欧諸国の資本家と労働者は、帝国主義の本国・中心部(メトロポリス)におり、ともに植民地・周辺部(ペリフェリ)からの収奪の上に生活していたのである。この点は、本稿では立入らないが、非常に重要な点である。
ロシア革命後の数年間に、西欧では革命が成功しなかった。その経験を通じて、西欧のマルクス主義者の中には、開祖マルクスの間違いを認める者が出てきた。革命はマルクスの理論とおりには起きなかった。彼らは、その原因の一つとして、社会意識の問題を見出した。そして、特にキリスト教の存在の重要性に目を向けた。マルクスは「宗教はアヘンである」と言った。その弟子たちは、西欧の労働者が蜂起しなかったのは、2千年に渡るキリスト教的思考が染み付き、真の「階級利益」に気づいていないからだ、と考えた。聖書と西洋文化的思考を根絶しない限り、西洋にマルクス主義は浸透しない。労働者階級のための革命を彼ら自身が裏切る事態が生じてしまう、と。そこから、彼らは反キリスト教的で反西洋文化的な戦術を編み出す。その代表的な理論家が、ルカーチとグラムシである。
ついでに言っておくと、共産主義者は革命のために、西洋ではキリスト教道徳を破壊しようとするが、わが国であれば神道や儒教や仏教による道徳の破壊を狙うことになる。攻撃の対象は、伝統的な精神文化であり、心霊的な道徳である。
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第5章 ルカーチは文化テロリズムを敢行
ハンガリーの共産主義者ジェルジ・ルカーチも、ユダヤ人だった。ルカーチは主著『歴史と階級意識』(1923)において、マルクスが軽視していた上部構造、社会的意識の問題を論じた。彼は、歴史の変革における意識、特にプロレタリアートの階級意識の果す積極的役割を強調し、中間的存在である知識人は自らプロレタリアートの側に立つべきことを説いた。また、資本制社会の合理化・機械化の過程のなかで、人と人との関係が、物と物との関係に変えられ、労働者は自己の商品化(労働力を売る立場)を通じて、体制に組み込まれると論じた。いわゆる「物象化」の理論である。ルカーチの理論は、西欧マルクス主義の先駆となり、フランクフルト学派に重要な影響を与えた。そして、教条的なマルクス=レーニン主義(スターリン主義)に代わり、先進国における共産主義の延命に貢献している。
ルカーチは「社会を変える唯一無二の手段は革命による破壊だ」「古い価値の根絶と、革命による新しい価値の創造なくして世界共通の価値転覆は起こりえない」と説いた。そして、規成の価値を破壊するため、家族と性道徳を攻撃した。
彼の祖国ハンガリーではロシア革命に続いて、1919年に革命が起こった。ベラ・クンの指導のもと、革命評議会政権が成立し、ルカーチは教育人民委員代理となった。そして、みずからの「天才的アイデア」を実践に移し、「文化テロリズム」をもたらした。その一環として、彼は過激な性教育制度を実施した。ハンガリーの子供たちは学校で、自由恋愛思想、セックスの仕方を教わり、中産階級の家族倫理や一夫一妻婚は古臭く、人間の快楽をすべて奪おうとする宗教理念は浅はかだと教えられた。女性も当時の性道徳に反抗するよう呼びかけられた。こうした女性と子供の放縦路線は、社会の核である家族の崩壊を目的としていた。この「文化テロリズム」が、西洋の価値観の基礎にあるキリスト教道徳を破壊するものであることは、明らかである。
ハンガリー革命は結局5ヶ月で失敗し、ルカーチはウィーンに亡命した。30年代には、ソ連に亡命した。第2次大戦後、ハンガリーはスターリンの侵攻によって共産化され、ソ連の衛星国とされた。ルカーチが祖国に戻ったのは、スターリン主義のソ連の支配に抵抗したハンガリー革命(1956)の時である。しかし、ソ連の戦車によって、ハンガリーの自由は圧殺された。ルカーチも粛清されかかった。しかし、彼は共産主義そのものの誤りには気づかぬままだった。
ルカーチが再評価されたのは、1960年代、スターリン主義への批判が高まる中だった。1960年代の後半、西欧の学生運動のなかで、ルカーチの『歴史と階級意識』が若者たちに大ブームとなった。彼の思想は「性革命」真っ只中のアメリカでも、ベビーブーマーたちに熱烈に受け容れられることとなった。アメリカで小学校から性教育を行うようになったのは、ハンガリーで過激な性教育を推進したルカーチの影響を受けている。ルカーチの思想は、さらに日本の新左翼運動にも影響を与えた。それが、今日のフェミニズムにも流れ込んでいるのである。(ページの頭へ)
第6章 グラムシは文化的ヘゲモニーを着想
ルカーチとともに、現代の共産主義、そしてその一形態である急進的なフェミニズムに、大きな影響を与えているのが、アントニオ・グラムシだ。イタリアの共産主義者グラムシは、後進国ロシアで起こった革命を「資本論に反する革命」と呼んだ。
彼は、当初、後進国であるにもかかわらずレーニンらが革命を起こしたことを評価した。しかし、1922年から24年にかけて、グラムシはソ連に滞在した。そこでグラムシは、恐怖政治でしか体制を維持できぬレーニン主義は、失敗に終わると洞察した。彼は、ロシア人は共産主義に嫌悪感を抱いており、ロシア人を共産革命から遠ざけているのはキリスト教思想だと考えた。そして、西洋の共産化には、まず西洋の非キリスト教化が必要だと考えた。
イタリアに帰国したグラムシは、ムッソリーニによって、1926年に逮捕された。グラムシは獄中生活で健康を害し、37年に病死した。その間、彼が獄中で書いたのが、『獄中ノート』だ。このノートで、グラムシはヘゲモニー論を唱えた。
彼によると、労働者階級は、文化的ヘゲモニー(主導権)を確立しなければ、政治権力を奪取することができない。文化的ヘゲモニーは、政治権力の奪取にとって本質的な前提条件なのだとグラムシは言う。労働者階級は、自らをブルジョワ的・キリスト教的文化から解放しなければならない。西欧では、マルクス主義者は権力を掌握して上から文化革命を押し付けるより、まずは文化を変えよ、そうすれば熟した果実のごとく権力は自然と手中に落ちてくる、と彼は主張する。文化革命戦術には、芸術、映画、演劇、教育、新聞、雑誌、ラジオ等を、一つ一つ攻め落とし革命に組み込んでゆくことが肝要だ。そうすれば人々は徐々に革命を理解し、歓迎しさえするようになる、と言う。
こうしたグラムシの思想は、イタリアをはじめとする西欧諸国のユーロコミュニズムに大きな影響を与えた。さらに、アメリカのカウンターカルチャー運動にも影響を与えた。対抗文化のバイブルとなった『緑色革命』(1970)は、表紙にグラムシそっくりの言葉を載せている。著者チャールズ・ライクは言う。「革命がやってきた。昔とは異なる革命が。起点となるのは個人であり文化であり、政治制度に影響を及ぼすのは最後のほんの一筆。成功のために暴力は要せず、暴力による鎮圧も成功しない。驚異の速さで広まり、すでに法律や組織、社会制度を変えつつある…新世代の革命が」と。
ロシア革命のとき、西欧のマルクス主義者は、レーニンの前衛党組織論が一党独裁、共産党による労働者の支配を生み出すことを予測した。スターリンの専制・個人崇拝の登場はその延長線上にあった。これに対し、民主主義の発達した西欧では、共産主義者は暴力革命戦術よりも文化革命戦術を重視すべしと考えた。その戦術を打ち立てたのが、グラムシである。レーニンの暴力革命方式は、1991年のソ連の解体とともに大きく後退した。しかし、グラムシの文化革命戦術の思想は、脈々と受け継がれ、多くの賛同者を獲得し続けている。日本でも、その有力な賛同者の中に、フェミニストがいることは、言うまでもない。
共産主義者内部での路線の違いは、マルクス=レーニン主義とユーロコミュニズムや社会民主主義の違いとなっていく。しかし、路線によって革命の手段・方法は違うが、共産主義者がめざしている社会は同じである。だから、社会政策・女性政策・文化政策においては、欧米や日本のマルクス主義者もレーニンと基本的には同じ政策を行う。レーニンは政治権力を奪ってから、これらの政策を行った。欧米・日本の共産主義者は、権力を奪う方法として、これらの政策を行っていき、その結果、政治権力を掌中にしようとする。先か後かの違いだ。いずれにしても、彼らが、家族の解体、女性の労働者化、育児の社会化、性の自由化等において、マルクス=エンゲルスの忠実な実践者であることに、違いはない。(ページの頭へ)
第7章 フランクフルト学派の批判的否定
レーニン、ルカーチ、グラムシらとともに、現代のフェミニズムに大きな影響を与えているのが、フランクフルト学派である。
1923年、フランクフルト大学に「社会研究所」が設立された。出資者は、ユダヤ人富豪の跡取だった。当初、研究所の名称を「マルクス主義研究所」とする案があった。そのことに表われているように、この研究所は、ルカーチを先駆とする西欧マルクス主義の研究機関であった。代表的なのは、ホルクハイマー、アドルノ、ベンヤミン、マルクーゼ、フロム、ハーバーマスらである。彼らがフランクフルト学派と呼ばれる。
1931年、哲学者マックス・ホルクハイマーが研究所の所長となった。彼の哲学は、弁証法的唯物論である。彼は、哲学と経験的個別科学との学際的研究を組織した。彼のもと、哲学者、社会学者、経済学者、歴史学者、心理学者などの共同研究が行われた。
ホルクハイマーは、研究所の共同研究のテーマとして、「権威と家族」を選んだ。彼を含め、研究所の主要メンバーは、ユダヤ人であった。彼らにナチスの弾圧の手が伸びてきた。1933年、ドイツ議会はヒトラーに独裁権を与えた。すると、ナチスは「国家に対する敵性」があるとして研究所を閉鎖してしまった。
ホルクハイマーは、やむなく34年にアメリカに移住した。そして、資本主義の牙城ニューヨークで、研究所を再建した。コロンビア大学の社会調査研究所がそれである。ここで「権威と家族」の共同研究は続けられ、36年に『権威と家族』が刊行された。
この研究は、なぜドイツでファシズムが勝利を収めたか、またなぜユダヤ人の大量虐殺が行われたか、その原因を究明するものだった。ナチスを支持し、反ユダヤ主義に走ったドイツ人には、強い者に服従し弱い者を虐げる性格の者が多かった。こうした権威主義的な性格が作られるには、家父長制家族が大きな役割を果たしていることが報告された。家父長制家族は、父性中心のユダヤ=キリスト教的な西洋家族の特徴である。
ホルクハイマーは、続いて1937年に『伝統的理論と批判理論』を発表した。伝統的理論とはデカルトやカントの認識論を意味し、現実を受容し、それを秩序づけるだけで、現代社会に批判的な照明をあてる努力をしていない理論だとした。これに対し、批判理論とは、マルクスの『経済学批判』に代表される認識論だとし、歴史や社会は人間の活動ないし労働の過程であり、現実の矛盾は人間自らが生み出した自己矛盾であるととらえる。そして、社会変革に向かうのが、批判理論であるとした。
ホルクハイマーは、彼を追って渡米した盟友の哲学者アドルノとともに、『啓蒙の弁証法』(1949)において、「何故に人類は、真に人間的な状態に踏み入っていく代わりに、一種の新しい野蛮状態へ落ち込んでいくのか」と問うた。西洋が「啓蒙」による文明化の果てに、ナチズム・スターリニズム・世界戦争等という「野蛮」に転じた原因を彼らは追求した。そして、西欧近代の理性は、当初の神的意味を失って、目的を実現する手段に変じ、「道具的理性」となっていると批判した。さらに彼らは、「啓蒙」の概念を広げ、西洋文明の発生にまでさかのぼって「啓蒙」=「文明」について検討した。彼らは、神話の中に既に「啓蒙」が現われており、「啓蒙」の中に自己崩壊の芽があったと断じた。「啓蒙」が「野蛮」に転じた逆説を、彼らは「余すところなく啓蒙されたこの地球は、災禍が勝利を誇る場となってしまった」と指摘した。そして、この啓蒙の自己崩壊を仮借なく批判できるものもまた、理性の自己批判能力以外にないとした。
ホルクハイマーとアドルノは、アメリカで、その商業主義的な文化や、合理主義的な管理社会を批判した。それは資本主義文化への批判であるとともに、アメリカ文化への批判でもあった。このヨーロッパからきたユダヤ人たちの所論は、戦後のアメリカ社会に、じわじわと浸透していった。1960年代には、『権威主義的パーソナリティ』(1950)が、若者を揺さぶった。これは、アドルノがカリフォルニア大学バークレー校の世論研究グループとともに行った研究を発表したものである。彼らは、『権威と家族』の研究を発展させ、ナチズムや反ユダヤ主義に見られる人間の性格分析を進めた。そして、裕福で一家そろってクリスチャン、父親が権威主義的という家庭に育った子供は、独裁的な人種差別主義者に育つとした。「家父長制家族はファシズムのゆりかごである」とアドルノは断じた。
ホルクハイマーとアドルノは、さらに西洋文明の主な要素――キリスト教、権威、家族、家父長制度、道徳、伝統、性的節度、忠誠心、愛国心等――を否定的に批判した。その批判的否定の哲学は、既成の価値を相対化し、体制や文化の変革を促す思想である。こうしてフランクフルト学派の批判理論は、共産主義の文化革命戦術を強化した。
ホルクハイマーとアドルノは、戦後、ドイツに帰国し、フランクフルトに研究所を再建した。この時期になって彼らは、マルクスの理論に間違いや限界があることに気づき、それを認めるようになった。しかし、戦前、彼らが刊行した文書は、新たな影響力を発揮し、「西欧マルクス主義」という形でマルクス主義を延命させる役割をした。1960年代、欧米で学生・知識人による革命運動が高揚した。そこには、フランクフルト学派の批判理論の影響があった。ホルクハイマーやアドルノは、ドイツの左翼学生のアイドルとなった。アメリカの若い世代にも、自由と豊かさの中で管理社会の矛盾と疎外感を感じ、反抗と変革の運動に走る者が出てきた。わが国でも、フランクフルト学派の批判理論は、新左翼の一部に影響を与えた。やがて、こうした1960年代の左翼運動の中から、共産主義的なフェミニズムが登場してくる。(ペー ジの頭へ)
第8章 マルクスとフロイトの統合
フランクフルト学派は、マルクスとフロイトの統合を試みた。マルクスとフロイトは、ともにユダヤ人であり、反キリスト教、唯物主義、合理主義において共通している。この二人の結合が、フランクフルト学派の「批判理論」を、より闘争的なものとした。今日の急進的なフェミニズムは、その影響下にある。
社会研究所のマルクス主義的な社会研究と、フロイトの精神分析とを媒介したのは、エーリッヒ・フロムである。フロムは、フロイトの弟子の一人であり、彼もまたユダヤ人だった。
フロイトは、ヒステリーや神経症の治療において、性欲の抑圧が病気の重要な原因となっていると考えた。そして、人間の心理的行動を、性本能と自己保存本能をもとに説明し、独自の理論を展開した。
フロイトは、性本能を自己保存本能と対抗して働く、無意識生活の基本動因とみなした。そして、自己保存本能と性本能の対立・葛藤を、快感原則と現実原則という、相対立するニ原則でとらえた。フロイトによると、人間の心は、緊張に基づく不快を回避し、緊張を低下させることによって快感を得ようとする。そこには不快を避け、快を求める本能的な欲求がある。新生児は、この快楽原則のみに支配されているのだろうが、自我の発達につれて現実原則が優位を占めるようになる。現実原則とは、外界の現実に適応しながら、無理なく不快な緊張を解消し得るように、緊張解消を延期したり、多少我慢したりしつつ、最後には快感に達することを目ざすものである。
人間がこの世の中で生存するためには、外的現実を支配している現実原則にまず順応しなければならない。そのためには生まれつきの快感原則を抑制し、現実原則に従わせねばならない。そして、この課題を達成するのが自我の仕事である。性本能についても、自我は自己保存本能を代表し、快感原則を追及する性本能を現実原則に従わせる。それが性的抑圧の成立であるとフロイトは考えた。
その後、フロイトは、人間の心を、「意識」「前意識」「無意識」の三つの層に区別した。さらに後年、意識の三層説に加えて、 「エス (イド)」「自我」「超自我」という三つの心的な組織から成るという構造論を提示した。「エス」は、生まれたばかりの新生児のような、未組織の心の状態である。その時、その時の衝動で動く本能のるつぼである。「エス」は快楽原則に従う。
この「エス」が外界と接触する部分は、特別な発達を示し、「エス」と外界とを媒介する部分となる。これが「自我」と名づけられる。「自我」は、母体である「エス」とは正反対の性質をそなえるにいたる。すなわち、合理的・組織的で、時空間を認識し、現実を踏まえた動きをする。「自我」は現実原則に従う。
この「自我」の一部として形成されるのが、「超自我」である。フロイトによると、子どもは「エディプス期」という父親の存在に対して葛藤する時期を経験する。この時期を通じて、両親像が心の中に摂取されて内在化して、「超自我」が形成される。「超自我」は、両親を通じて内面化された社会的な道徳や規範の意識に相当する。
フロイトは、現実原則に従う理性的な自我意識が、快楽原則に支配される本能的・衝動的な無意識を制御すべきものとした。そしてフロイトは、人間の発達上、現実原則の支配を重要視し、現実原理の確立こそ成人の健康人の条件であるとした。(註2)
フロイトの発想は、基本的に機械論的で生物学的である。これに対し、フロムは、個人の病理を社会的背景から洞察した。そして、性的なものより、人間同士の関係を重視し、社会的・経済的因子が個人に及ぼす影響に注目した。
フロイトは、人間が社会的存在であるのは、自己保存本能と性本能、特に後者をみたすに他人が必要だからと考えた。生理的欲求を互いに満たすために他人と関係を持つ。他人は自己の目的を達成するために二次的に必要なものに過ぎない。フロイトの考えでは、他人は自己の目的のための手段に過ぎないのである。
一方、フロムは、心理学の中心問題は、生理的な欲求の充足・不足ではなく、個人と外界の関係だとした。そして、欲求から人間をとらえるのではなく、実存から人間の心理をとらえようとした。人間存在は死ぬことを知っており、孤独・無力・不安を感じている。人間のこの特有のあり方のため、個人は他人や外界と関係を持つ。そして、フロムは、フロイトに欠けていたところの、経済構造や社会構造が個人に及ぼす影響を重視した。彼は、経済的下部構造(土台)が上部構造(社会的意識形態)を規定するというマルクスの図式を、精神分析で補完し、また精神分析をマルクス主義で補完しようとした。これは、ホルクハイマーの期待に応えるものだった。しかし、フロムは、やがて立場の違いを感じ、フランクフルト学派を離れ、独自の方向に進んだ。
研究を進めたフロムは、『正気の社会』(1955)において、マルクスへの批判を公にした。マルクスは人間疎外の原因を追求するために経済学的分析を行ったが、彼は人間性には独自の法則があり、経済条件と相互作用の関係にあることを十分認識していなかった、というのである。フロムによると、マルクスは人間の心理学的洞察に欠け、人間の内部にある非合理的な権力欲、破壊欲を認識しなかった、そのため、3つの誤りを犯している。第一は、人間における道徳的要素を無視しているため、新しい社会体制になったとき、新しい道徳が必要となることに注意を払わなかった。第二は、革命によって「よい社会」が直ちに来ると考え、権威主義や野蛮性が現われる可能性を軽く考えていた。第三は、生産手段の社会的所有を必要充分条件と考えてしまったことである。こうしたフロムの主張は、共産主義が見失っていた心の問題を明らかにし、人間性の回復に寄与した。
フロムの主張は、マルクス主義の限界を暴露するものであった。フロムは、人々に愛や幸福を説き、道徳的な価値の大切さを再認識させた。これに対し、唯物論者であるホルクハイマーとアドルノは、フロムを修正派と呼び、フロムは現代社会では決して実現されるはずのない人格の調和的統一を求めようとしており、かえって社会的矛盾をおおい隠すものだ、と反論した。しかし、それは、マルクス主義の限界をおおい隠そうとするものにすぎなかった。
マルクスとフロイトの統合だけでなく、もう一つフロムには、フェミニズムに影響を与えたものがある。母権制や性差への注目である。フランクフルト研究所にいたころ彼は、バッハオーフェンの『母権』(1861)という本に引き付けられた。本書は、家父長制社会が成立する前に、母権制社会が存在したことを明らかにしたものだ。マルクス=エンゲルスに注目されて以来、久しく忘れられていたが、1920年代に再び脚光を浴びた。本書をもとに、フロムは『母権理論とその社会心理学的意義』(1934)という論文を発表した。
フロイトは、父と子の関係においてエディプス・コンプレックスが生まれ、それが神経症の重要な原因であると説いた。これは、父性中心的な西洋の家父長制家族、ユダヤ=キリスト教社会に特有の病理である。しかし、フロイトは、エディプス・コンプレックスを絶対視した。このコンプレックスは本来家父長制社会の男性にだけ見られるものなのに、フロイトは人類一般に見られる心理と考えた。社会体制が異なれば、家族の構造も異なることを考慮しなかった。
これに対し、フロムは、エディプス・コンプレックスは父性中心的な社会の人間にだけ見られるとし、エディプス・コンプレックスの普遍性を否定した。母性中心の社会もありうると考え、母性原理の意義を説き、また人間には、男女の別なく愛と理性に基づく自己実現の能力があると主張した。この主張は、男性中心で父権の強い西洋の文化を相対化し、また補正するものだった。(註3)
フランクフルト学派の共産主義者たちは、フロムの主張をも文化革命戦術に利用した。マルクス=エンゲルスの思想を墨守する彼らは、西洋家族の基本となっている家父長制を攻撃した。そして、母親が一家を支配する家母長制や、家庭の中で男女がときに役割を交換したり、あるいは完全に逆転させた「両性具有」制を推奨した。こうした主張が、今日のフェミニズムにつながっていく。
フロムを最も激しく批判したのが、マルクーゼである。彼は、フロムはフロイトから性の問題を殺ぎ落としており、それによって社会が個人に加えている抑圧を無視しているという。そして、マルクスとフロイトの統合を、もっと闘争的な形に推し進めた。それが、フェミニズムに否定的な批判性と非妥協的な闘争性を与えた。(ページの頭へ)
註
(2)フロイトについては、以下の拙稿をご参照ください。
「フロイトを超えて〜唯物論的人間観から心霊論的人間観へ」
(3)フロムについては、以下の拙稿をご参照ください。
「フロイトとマルクスをともに批判〜フロム」
第9章 エロス的革命を唱導したマルクーゼ
ヘルベルト・マルクーゼは、フランクフルト学派の最左派に位置した。同学派の領袖ホルクハイマーは問うた。「来るべき文化革命でプロレタリアートの役を演じるのは誰か」と。マルクーゼはこれに答えを出した。彼が候補に挙げたのは、若い過激派、黒人運動家、フェミニスト、ゲイ、社会的孤立者、第三世界の革命家、その他西洋に迫害されたと憤るあらゆる「被害者たち」だった。労働者階級に代わって西洋文化を破壊するのは彼らだという。マルクス主義の正統的な思想からは特異な発想だ。しかし、この発想こそ、マルクス主義の文化革命戦術を激烈なものとしたのだ。
マルクーゼは、マルクスとフロイトの統合を、闘争的な方向へ推し進めた。晩年のフロイトは、『文化の不満』(1930)において、人間には生の本能と死の本能があるとし、それぞれエロスとタナトスと呼んだ。彼によると、文化は、個人や家族、国家等を、人類へ統合しようとするエロスのための過程である。ところが、エロスによって文化が発達すればするほど、その一方で解体と自己破壊をもたらすタナトスも高まり、人間を脅かすと洞察した。マルクーゼは、こうしたフロイト晩年の理論を発展させ、『エロス的文明』(1955)を書いた。そこで、彼は、文化の担い手であるエロスの復興こそが、人間解放の条件であるとした。それは、社会構造の根本的な変革によってのみ可能であると説いた。
先述したように、フロイトは、心の構造を「エス(イド)」「自我」「超自我」の三層に分けた。「エス」は「無意識」に、「自我」は「意識」に対応する。フロイトは、「無意識」を生物学的・衝動的なものととらえ、「意識」によって洞察され、打ち克たれるべきものと考えた。
フロイトによると、人間の心は、緊張に基づく不快を回避し、緊張を低下させることによって快感を得ようとする。新生児は、この「快楽原則」のみに支配されているのだろうが、自我の発達につれて「現実原則」が優位を占めるようになる。「現実原則」とは、外界の現実に適応しながら、無理なく不快な緊張を解消し得るように、緊張解消を延期したり、多少我慢したりしつつ、最後には快感に達することを目ざすものである。
心の三層構造においては、「快楽原則」に支配されているのが、無意識的な「エス」であり、「現実原則」に従うのが、意識的な「自我」である。フロイトは、「現実原則」に従う理性的な自我意識が、「快楽原則」に支配される本能的・衝動的な無意識を制御すべきものとした。そしてフロイトは、人間の発達上、「現実原則」の支配を重要視し、「現実原理」の確立こそ成人の健康人の条件であるとした。フロイトは、この理論を、人類の文化にあてはめ、自然人としての人間の社会化・文明化の過程を、「快楽原則」の支配から「現実原則」の支配への移行としてとらえた。
これに対し、マルクーゼは、マルクスに基いて、「現実原則」を人間に課しているものは、ある特定の歴史的な社会組織である、という。現代の支配体制は大衆に過剰な抑圧を課している。この「過剰抑圧」を課すための社会的枠組み(実行原則)は、社会制度・法律・道徳・価値観などの形に具現される。こうした「過剰抑圧」と「実行原則」に反抗するものが、自由なエロスであり、特定の歴史的・社会的制約を越えた人間性の復権である、と説く。そして、フロイトの「快楽原理」を全面的に認めよと提唱した。文化的規範はすべて拒絶せよ、そうすれば「多種多様な邪悪」の存在する世界が創出できると唱えた。セックスとドラッグ(覚せい剤)を強力な武器とした。「戦争よりセックスを」は、マルクーゼ自身の生んだスローガンである。このようにして、マルクーゼは、マルクスとフロイトを闘争的に結合し、エロス的革命の原理を打ち上げた。これは、マルクス主義が秘めていた、性に関する価値転換を大胆に遂行するものでもあった。それが、キリスト教的な道徳秩序を否定するものであることは、言うまでもない。
続いて、マルクーゼは、『一次元的人間』(1964)で、アメリカの大衆社会を念頭におき、資本主義における自由は商品選択の自由でしかない、現代資本主義は人々から自律性を奪い、新しいタイプの全体主義を用意しているとする。そして、高度の合理化が生み出した管理社会が人間疎外を生んでいるとして、既存の体制への全面的拒否を説いた。
さらにマルクーゼは、「抑圧的寛容」に対し、「解放的寛容」すなわち「右翼に対する不寛容と左翼に対する寛容」を要求した。彼は次のように説く。「抑圧され圧倒されている少数者には、もし合法的手段が適切でないとわかったら、非合法的手段を使ってよい抵抗の自然権がある」と。彼は、政治権力の合法化された暴力に対して、解放の暴力を擁護する。その理論は、体制内的自己の「自己否定」や「日常性からの脱却」を促した。「自己否定」と「日常性からの脱却」は、1960年代の日本の学園紛争・全共闘運動における流行語ともなった。
1960年代のアメリカでは、戦後のベビーブームで生まれた世代がキャンパスに押し寄せた。彼らつまりベビーブーマーズがキャンパスに足を踏み入れたのは、1964年の秋だ。彼らを中心にマルクーゼの本が売れ、社会運動に大きな影響を与えた。マルクーゼ思想にはまった学生たちは、ベトナム戦争への反戦運動を行った。それは、アメリカという国家への反逆だった。彼らはまたキリスト教の価値観や道徳に反抗し、セックスとドラッグへと自己を解放した。この「ドラッグ革命」「性革命」に続いて、黒人の公民権運動が高揚した。黒人が公民権を求めるのを見て、白人の女性たちも権利の拡大を要求し、ウーマン・リブの女性解放運動が起こった。
ベトナム反戦運動、ドラッグ革命、性革命、黒人公民権運動、ウーマン・リブこそ、マルクーゼが理論的に推進するものだった。これらの運動には、「来るべき文化革命でプロレタリアートの役」を演じる者たちがいた。マルクス以来の労働者階級を主体としたプロレタリア革命の理論の枠組みは破られた。この動向は、アメリカから西欧・日本に伝播した。そのことを象徴的に表わすことがある。昭和43年(1968)5月、フランスのパリで5月革命が起こった。このときの学生・知識労働者の運動は、三M革命といわれた。三Mとは、「マルクス・マオ(毛沢東)・マルクーゼ」であった。
マルクーゼは著書『弱肉強食』で、新たな革命戦術を述べている。「文化革命を正しく論じることは誰にもできる。なぜなら、あらゆる文化制度に向けられた抗議だから。……一つだけ確実に言えることがある。伝統的革命思想、伝統的革命戦略はもはや通用しないということだ。そうしたやり方は時代遅れだ。……われわれが着手すべき革命は、社会制度を広汎に渡って解体するような革命である」。
マルクーゼこそ、共産主義による文化革命戦術を現代化した理論家なのである。そして、彼の理論は、欧米や日本で、新左翼運動やフェミニズムに大きな影響を与え続けている。(ページの頭へ)
第10章 性解放を煽動するライヒ
マルクーゼの『エロス的文明』は、1960年代のアメリカでベビーブーマーを中心に読まれた。それがヴィルヘルム・ライヒの復活を呼び起こす格好になった。
ライヒは、フロイトの弟子で共産主義者だった。マルクスとフロイトの統合を試みた者たちの中で、最も過激な思想家である。マルクーゼと同年の1897年生まれであり、フロムより3歳年長だった。3人ともユダヤ人だった。
ライヒは1920年代後半、フロイトの助手をしていた。その時期から、彼はマルクス主義と精神分析の統合に取り組み、30年に主著『性と文化の革命』を出した。同年、ライヒは性政策計画を打ち出し、ドイツ共産党はそれに基づいて「プロレタリア性政策のためのドイツ協会」をつくった。しかし、ライヒの主張があまりに過激だったので、彼は33年にドイツ共産党から除名され、ついで精神分析協会からも追放された。
初期のフロイトは、人間の心理に自己保存本能と性本能を見出した。自己保存本能は飢えのように待ったなしだが、性本能は、意識から無意識の世界に押しこめたり(抑圧)、他の対象に向けたり(置換)、社会的に価値あるものの形に表れたり(昇華)するとした。その後、フロイトは性本能を理性や道徳で自制し、昇華つまり社会的に価値ある行動に変化させることによって、文化が発展すると説いた。
こういうフロイトを、ライヒは激しく批判した。初期のフロイトは性革命の必要を説いた。その後、彼はそれを捨てた。しかし、ライヒはこの発想に固執し、性的エネルギーの全面的な解放を唱えた。それのみが神経症等の治癒となり、社会問題の解決ともなると主張した。
ライヒは、結婚するまでは純潔でなければならないという考えはブルジョワが発明したもので、厳格な性道徳は性交は悪いものという印象を与えて神経症や倒錯を生む、解決策は性を健康的で楽しいものと見なして強制的な性道徳を拒絶することだと説いた。ライヒは、性道徳を廃止すれば、家父長的権威主義的な家庭を解体でき、資本主義国家を転覆できると主張した。そして、性を解放することが社会革命の根本であると訴えた。
ライヒは、性解放は家父長的権威主義的な家族を解体することになり、それによって共産主義を実現できると考えた。家父長制家族とは、家父長が家族全体を支配し、祖先から伝わった財産を独占し、財産が男子から男子へと相続され、婦人が父・夫・息子の後見のもとに服する家族のことをいう。ユダヤ=キリスト教社会に特に顕著な家族形態である。
ライヒは39年に渡米し、ここでオルゴン・エネルギーの研究を行い、異端の存在となった。アメリカ政府から擬似医療装置の販売禁止命令を受けたが、それでも違反を続けたため投獄され、刑務所で亡くなった。妄想性精神病と診断されていた。
ライヒの主著『性と文化の革命』は、マルクーゼが呼び水となる形で、1960年代に欧米の学生運動・新左翼運動の中で読まれた。フランスの5月革命(1968年)の時は、マルクスの本より、よく読まれたという。わが国でも70年安保闘争の最中、昭和44年(1969)に邦訳が出て、全共闘世代にむさぼり読まれた。
ライヒは人間の自立の形態のうち、最高に自立した段階として「性的自立」を挙げている。簡単に言えば、性の解放であり、行き着くところはフリーセックスである。これこそが人間がもっとも解放された状態だと主張した。この点、ライヒは、マルクス=エンゲルスの理論及びレーニンの実践を継承し、彼らの思想を発展させて、さらに徹底したものといえる。そして、性解放と性的自立の思想は、急進化したフェミニズムにも過激さを加えている。(ページの頭へ)
註
(1)ライヒについて詳しくは、以下の拙稿をご参照下さい。
「過激な性教育の背後に、妄想医師ライヒが」
第11章 共産主義は死んでなどいない
共産主義は既に敗北し、歴史のかなたに消え去ったのではないのか。そう思っている人が多いだろう。確かに1917年にロシアで幕を開けた共産主義革命の波は、1989年、ベルリンの壁の崩壊で幕を閉じた。続いて、91年にソ連が解体された。その間、共産主義による犠牲者は、1億人にも達したと見られる。もし日本の共産化を含め、共産主義による世界革命が続いていたら、犠牲者はこの何倍にも膨れ上がっただろう。その悲劇は食い止められた。21世紀は、共産主義を克服したところに開かれた、と思っている人があっても不思議はない。
だが、姿形(すがたかたち)を変えて、共産主義は活動を続けている。暴力革命派の果せなかった夢を、文化革命派が受け継いでいる。その活動はむしろ一層、巧妙になっている。
文化革命派の共産主義とは、共産主義を実現するために、政治権力の奪取を第一とする暴力革命戦術ではなく、文化革命を進めていって最後に政治権力を奪うという文化革命戦術を取る思想・運動である。
ここで、今なお活動を続ける共産主義についての認識を深めるために、第2次大戦後の歴史を、ざっと振り返ってみよう。
大戦の時、ルーズベルトは真の敵を見誤った。彼は、ソ連を「民主主義」の勢力とし、チャーチルともにスターリンと手を結んだ。しかし、大戦末期の混乱のなか、ソ連は「解放」と称して東欧やドイツに侵攻し、共産党の傀儡政権を打ち立てた。さらに、日ソ中立条約を一方的に破って、満州や樺太に侵攻し、北方領土を不法占拠した。また、60万もの日本人がシベリアに強制連行、抑留された。
大戦後、米ソの対立は、「資本主義対社会主義」「自由主義対全体主義」というイデオロギーの戦いとなり、東西両陣営の対峙が世界的規模で繰り広げられた。米ソの冷戦構造の下、世界共産革命の可能性は遠ざかっていた。しかし、1960年代は、共産主義が変形・変質しつつ、先進国の奥深くまで影響力を強めた時代だった。資本主義先進諸国は、高度産業化が進み大量消費社会を作り出していた。これに対して、左翼的な学生や知識労働者は、文化や芸術、思想までもが体制に取り込まれ、抑圧的なものに転化していると感じた。管理社会への失望や疎外感が、彼らを反乱に駆り立てた。彼らが直接・間接にフランクフルト学派やライヒ、マルクーゼの影響を受けていたことが、見て取れよう。アメリカのスチューデント・パワー、フランスの5月革命、日本の学園紛争・全共闘運動など、先進国で左翼運動が高揚したことには、こういう背景があった。
急進的な革命運動の嵐は収まったが、70年代には、西欧でユーロコミュニズムが伸長し、議会制民主主義の仕組みを利用して政権に入り、企業の国有化など、社会主義的な政策を推し進めていった。イタリア・フランスなど、多くの国で左傾化が進んだ。その間、80年代にかけて、ソ連は軍事力を増強していった。ソ連が核兵器による大陸間弾道ミサイルを大量配置したことによって、米ソ激突による世界核戦争の危機が高まった。
1981年、アメリカ大統領に就任したレーガンは、共産主義に勝たねばならないという強い信念を持っていた。そして、彼の2期8年にわたる在位に、アメリカは軍事力を増大し、ソ連の冒険的な先制攻撃を抑止した。日本は経済力と技術力で、アメリカを支えた。経済的・社会的矛盾が限界に達したソ連圏は、東欧諸国・ドイツに続いて、1991年にソ連自体が内部から崩壊した。同時に西欧でも、70〜80年代に一時政権にまでついたユーロコミュニズムも、退潮になった。西欧の共産党は、社会民主主義の政党名に変わった。冷戦は終結し、自由民主主義・資本主義の歴史的勝利が強調された。こうして、20世紀の世界で1億人もの命を奪った共産主義は、悪夢のように消え去ったかのように見える。
しかし、共産主義は死んではいない。共産主義的文化革命は、アメリカや日本で社会の隅々まで根を張っている。アメリカでは、1960代以降、たった3分の1世紀の間に、かつては反文化的と非難されていた文化が支配的となった。フリーセックス、ドラッグ、同性愛等がそれだ。それが、アメリカニズムの流行によって、西欧・日本にも深く浸透している。その源に、共産主義の革命戦術があるとは大衆は気づいていない。
新しい共産主義者は、文化を支配し、革命・教育の手段とするため、体制内に身を置いて、社会の制度や大衆の慣習を変えていく方法で、文化革命戦術を展開する。急進的なフェミニズムは、こうした共産主義の文化革命戦術の一環と理解することによって、その真意が見えてくる。(ページの頭へ)
第12章 日本ではどう展開したか
次に戦後のわが国における共産主義の歴史も、おおまかに振り返ってみよう。
敗戦後、アメリカは日本弱体化のために占領政策を強行した。このとき、GHQには共産主義の影響を受けたニューディーラーが多数いた。彼らによって占領政策が推進され、現行憲法が起草された。伝統的な家族制度を崩すため、イエ制度が廃止された。男女平等・男女同権が実現したのはよかったが、同時に極端な個人主義が吹き込まれた。現行憲法には、権利が多い一方、義務が少なく、国益を中心とした公共性が低く、家族条項がないなど、アトム的な個人が利己主義に走りやすいような内容となっている。
また、アメリカは、共産主義者の活動を解禁した。それにより、戦前は取締りを受けていた日本共産党が公然と活動するようになった。アメリカは日本国民の団結をなくすため、思想的な分裂を画策したのだ。これがソ連を利することになったのは当然だ。そのお陰で共産主義は労働運動や教育に浸透し、日教組が左翼教育を行った。
こうして、戦後日本には、アメリカ的民主主義とソ連的共産主義が移植された。この一見、対立するはずの二つの主義が融合・協働していった。これは不思議なことではない。ともに欧米以外を「西洋化」「近代化」する思想であり、兄弟のようなものだからである。
「西洋化」とは、西洋的価値観の流入である。西洋文明の3大特徴は、キリスト教、ギリシャ=ローマ思想、ゲルマン的騎馬民族文化である。非西洋世界から固有の価値観を駆逐し、これらの価値観を注入することが、西洋化にほかならない。「西洋化」は西洋近代文明の流入によって起こるから、これは同時に非西洋世界における「近代化」の過程でもある。
「近代化」とは、いわゆる「呪術からの解放」(M・ウェーバー)によって、価値の合理化を進めることである。合理化は生活全般に及ぶ。それは、経済的、政治的、社会的、文化的の4分野において進められる。経済的近代化とは産業化・資本主義化、政治的近代化とは民主主義化・官僚制化、社会的近代化とは家族や村落等の共同体の解体、機能集団である組織(企業等)の成立等であり、文化的近代化とは合理主義の実現である。戦後の日本は、こうした日本を「西洋化」「近代化」する思想に支配されてきた。
戦後日本の左翼は、二大政党・日本共産党と日本社会党(現社民党)を中心として動いてきた。前者は共産主義、後者は社会主義を標榜する。ともにマルクス=エンゲルスの思想を根拠にしている点では共通している。それゆえ、ここでは広義の共産主義という意味で、共産主義と総称する。
占領・復興・高度経済成長の過程で、これらの主義が浸透し、米国の模倣とソ連への隷従が日本人の意識を支配した。戦後日本の共産主義者は、日本の共産化のために、レーニン流の暴力革命戦術を取らずともよい。当面、現行憲法の下で、「民主」「平等」「人権」「平和」などの教育・普及をやっていけば、日本は共産化に近づいていくのである。これは日本流の文化革命戦術といえる。芸術、映画、演劇、学校、新聞、雑誌、テレビ・ラジオ等が利用されているのは、言うまでもない。
アメリカ的民主主義とソ連的共産主義に共通するものは、政治体制としては共和制である。共和制とは王制・君主制の廃止である。日本における共和制とは、天皇を廃位し、天皇制度を廃止することを意味する。戦後の日本は、米ソの主義の浸透によって、共和化の方向へと進まされている。共和化の延長上に、共産化がある。共産主義者にとっては、共和化は、時間はかかるが共産化への確実な道である。共産主義者は、民主主義の名のもとに、「民主」「平等」「人権」「平和」を唱えることによって、日本の共産化への道を舗装しているのである。
戦後、1940年代〜50年代の世界は、米ソ東西両陣営の対立となった。東アジアでは、朝鮮戦争以後、米ソの冷戦と東西両陣営の対立が構造化し、膠着状態に陥った。これに不満をもった左翼の急進的な部分は、共産党や社会党を批判し、独自の思考をし始めた。昭和31年(1956)、ソ連でスターリンの独裁・個人崇拝・粛清への告発が始まった。これをきっかけに、ロシア革命とソ連の実態についての批判的研究が進んだ。ここで復活したのが、トロツキーである。ソ連の社会主義建設と国際革命戦術をめぐってスターリンと対立したトロツキーは、スターリンの路線を官僚制支配・一国社会主義と規定し、強く批判した。彼はスターリンに抹殺されたが、彼の思想を継承するトロツキストは欧米で活動を続けていた。その影響を受けたのが、日本の新左翼の始まりである。これに、毛沢東や西欧マルクス主義(ルカーチ・グラムシ・フランクフルト学派等)など雑多な思想の影響が加わって、多数の党派が生まれ、競合した。
昭和43年(1968)、ベトナム反戦運動や大学の学費値上げ闘争などがきっかけになって、全国の大学に学園紛争が広がった。この学生運動は、日米安保に反対する70年安保闘争へと発展した。各大学を結ぶ全共闘は、新左翼の思想が支配的だった。革命運動の中心は、労働者階級ではなく、学生や知識労働者であった。この運動は、昭和45年、70年安保の自動延長によって、阻止された。
その後、それまでの共産主義革命運動に替わって、人種差別反対、少数民族独立、自然保護のエコロジー運動、同性愛者など、様々な運動が力を得てきた。その中の一つが、フェミニズムである。こうした多様な運動に、新左翼の一部が融合した。今日勢力を得ている「人権」を前面に押し出した社会運動――女性・児童・性同一性障害者・少数民族等の権利の拡大を求める思想・運動――の始源をそこに見出せるだろう。そして、これらの運動の中核となっているのが、今や共産主義的フェミニズムなのだ。(ページの頭へ)
第13章 道徳を破壊するウーマン・リブ
一般的な意味でのフェミニズムは、フランス革命以後、19世紀前半の西欧で誕生した。これは男女同権論に基づく女性の権利拡張の思想・運動である。この動きは、マルクス=エンゲルスによって共産主義の中に取り入れられ、理論化された。レーニン、ルカーチ、グラムシ、フランクフルト学派、ライヒ、マルクーゼらは、それを継承し続けた。
フェミニズムは、1960年代以降、アメリカで急進化し、わが国にも強い影響をもたらすことになる。それは、アメリカで発生したウーマン・リブ(女性解放運動) による。ウーマン・リブは、女性の立場から政治・経済・社会・文化の総体を批判し、女性の意識高揚を提唱した。その思想・運動は、「女性による人間解放主義」を提唱するものとなった。ここにウーマン・リブ的共産主義である現代の急進的なフェミニズムの源流の一つがある。
第2次大戦後のアメリカでは、男性兵士たちが帰国し、それまで職業労働をしていた女性たちが家庭に戻ると、家庭での生活に不満を感じた。また高等教育を受ける女性が増大したにもかかわらず、能力を生かす機会が与えられないという不満もあった。そうした状況において、60年代に黒人公民権運動が高揚し、また新左翼運動が拡大していた。ウーマン・リブは、黒人が権利を主張するのなら、白人の女だって主張すべきだということから、始まったといわれる。そして、黒人差別撤廃の運動の波に乗って、ウーマン・リブは伸長した。この時代の申し子が、ベティ・フリーダンである。
女性心理学者フリーダンは、1963年、『女らしさの神秘』(邦題『新しい女性の創造』大和書房)を出版した。彼女は「幸福な主婦」を執拗に攻撃し、「幸福な母子関係」を叩いた。同書はベストセラーとなり、甚大な影響を及ぼした。
1966年、フリーダンは、全米女性連盟(NOW: National Organization for Women)を結成し、初代会長となった。NOWによって、ウーマン・リブは本格的に拡大し、フェミニズムは急進化した。もっともフリーダンは自分はレズビアンだと公言し、彼女らのNOWは、レズの権利などの運動団体と化しているという。
1970年代のアメリカでフェミニズムが高揚した背景には、アメリカ人の性に関する意識と行動の変化があった。60年代に進行した「性革命」が、女性の意識を大きく変えたのだ。これは、マルクーゼの影響を受けた新左翼運動と密接に結びついている。性革命運動は、新左翼運動とともに本格化していった。
当時の「性革命」の理論家に、ケイト・ミレットがいる。ミレットは、ウーマン・リブから登場した、急進的なフェミニストだった。ミレットは1970年に出した著書『性の政治学』の中で、社会体制が男性の女性支配を固定化しているとし、体制の変革を訴えた。とくに男性支配の原単位が、一夫一婦制の家族にあるとし、それを崩すために、婚前・婚外の性交渉、同性愛、女性の社会進出などあらゆる手段を駆使することを主張した。これは完全なフリーセックスにつながる主張である。ミレットの思想は、当時のアメリカ社会に、強い影響を及ぼした。ミレットもまた、レズビアンだった。
ミレットらの運動は、「ラディカル・フェミニズム」と呼ばれる。マルクス主義が説く階級支配より性支配を重視し、男性支配からの解放を第一義的とする思想である。マルクス主義はそれまで、性差別は共産主義の実現によって解決できるとしていた。新左翼の中から、ラディカル・フェミニズムの家族論をとりこんだ「マルクス主義的フェミニズム」が登場した。この共産主義化したフェミニズムこそ、今日の日本で影響力を振るっている思想である。この点は、また後に触れる。
60年代、70年代のアメリカでは、結婚に対する否定的な考えも主張された。アンドレア・ドウォーキンは著書『ポルノグラフィーー女を所有する男たち』に次のように書いた。結婚とは「レイプ(強姦)を習慣化する制度。レイプは本来、婦女を無理やり連れ去るという意味だが、連れ去って捕虜にすると結婚となる。結婚とは捕虜である状態の拡大延長、つまり略奪者による使用のみならず所有をも意味する」と。ロビン・モーガンは、結婚は「奴隷制度のようなもの。結婚制度を廃止しない限り男女の不平等は撤廃できない」と言った。
そして、1973年、ナンシー・レーマンとヘレン・サリンジャーの出した新声明『フェミニズム宣言』は、一挙に広まった。「結婚は男のために存在するーー女を支配するための法的に是認された手段として……私たちはこの制度を打破せねばならない……結婚制度廃止は女性解放の必須条件である」と。
フェミニズムは、アメリカのウーマン・リブによって急進化した。既成の文化や秩序を徹底的に批判し、従来の価値観を転覆しようとするものとなった。こうした闘争的なフェミニズムに、マルクス=エンゲルス、レーニン、ルカーチ、グラムシ、ライヒ、マルクーゼらが、直接・間接に影響を与えていることが、容易に見て取れよう。
もっとも、アメリカは、1980年代以降、フェミニズム以前の社会に、大きなうねりとなって回帰しつつある。そして、家庭を始めとする道徳回復運動が、国家的規模で推進されている。ウーマン・リブの闘士だったベティ・フリーダン自身も、家族回帰に方向転換している。 (4)
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註
(4)拙稿「フェミニズムから公共道徳へ」をご参照下さい。
第14章 共産主義とウーマン・リブが合体
わが国のフェミニズムは、戦前の社会主義の婦人解放運動を母体にもつ。戦後も共産党・社会党により、その運動は続けられてきた。それと、1970年(昭和45年)ころ、アメリカから入ったウーマン・リブが合体した。その結果、ウーマン・リブ的共産主義が生まれた。これが今日のフェミニズムの主流となっている。
こうしたウーマン・リブが1969〜70年(昭和44〜45年)ごろに、日本に伝播し、新左翼や既成の婦人運動に衝撃を与えた。全学連・全共闘出身の女性運動家たちが、ウーマン・リブ化するとともに、男性の共産主義者たちの意識にも変化が起こった。こうして、共産主義とウーマン・リブが合体したウーマン・リブ的共産主義が生まれた。これが、現代日本のフェミニズムの主流である。1972年(昭和47年)にはピル解禁を要求する中ピ連が生まれ、ピンクのヘルメットがテレビに登場し、その過激さが世間を驚かせた。大衆にはおかしな流行にしかみえなかっただろう。しかし、共産主義とフェミニズムの協働によって、新しい共産主義の文化革命戦術が練り上げられていくことになる。
わが国のフェミニズムは、1970年代から今日まで、どのように成長し、現在、どういう活動をしているのだろうか。林道義氏は『「男女平等」に隠された革命戦略 ──ジェンダーフリー運動の危険』(『正論』平成14年8月号掲載)において、わが国のフェミニズムの展開過程を明らかにしている。
林氏は、まず1970年代、80年代に、フェミニズムの理論闘争と組織化が行われたという。「組織化への第一歩は70年の全共闘運動であった。それまではフェミニズムにはいろいろな派があり、母性本能を肯定する派や、エコロジーフェミニズムや、家族を重んじる派などがあった。しかし70年を境にして、階級闘争史観に立ついわゆるラディカル・フェミニズムが支配し、それが共産党系のフェミニズムと共闘を組むようになり、統一指導部が成立したものと思われる。その中では、母性を重んずる派やエコロジー・フェミニズムはほぼ完全に否定されてしまった」「この運動は80年代末まではほぼ思想・学習運動として発展していった。公民館での『学習』活動を中心にし、それをバックに地方自治体の職員の中に食い込んでいくという作戦が採られた。それと並行して弁護士とジャーナリストの組織化も進められた。彼女らは皆『働く』女性であったから、当然のごとくフェミニズムの担い手になったのである」
次に、90年代には、フェミニズムは権力の中に入りこんだという。「90年代になると、フェミニズム運動の戦略は一新される。国政のレベルで、国家の立法を左右し、フェミニズム的な法律を制定させ、国や自治体の政策としてフェミニズムを実施させる作戦が表面化した。まず夫婦別姓法案を画策し、しきりに世論操作をして、何度も世論調査を実施したが、つねに国民の半数以上が反対という結果が出た。業を煮やしたフェミニストたちは、正面突破作戦を立て、『男女共同参画社会基本法』を成立させてしまった。…続いて制定された『介護保健法』も、家族の意義を否定し、介護を家庭の外へと『外注』させることを目的としていた。もちろん同時進行で保育所の拡充も画策され、子育ても家庭の外に出すという戦略が進められた。これらの一連のフェミニズム立法が、家族を解体し、個人をばらばらにして国家に従属させる戦略の一環であることは明らかである。それはとりもなおさず日本の社会主義化であり、その中で革命勢力が権力を握ることを意味していた。90年代終わりまでで、家族に関するかぎり、共産主義革命の筋書きどおりに進んでいる」
そして、現在、21世紀のフェミニズムは、子どものジェンダーフリー化を進めようとしているという。「21世紀にはいると、フェミニズム運動は新たな段階に突入した。今までは女性を家庭の中から外に連れ出すのが戦略目標だった。専業主婦を攻撃し、『働け』イデオロギーによって女性を労働者にするのがその中心的戦略であった。しかし今や家庭の中をフェミニズム化し、そうすることで健全な家族のあり方を破壊するのが戦略目標になっている。その道具がジェンダーフリー教育であり、教科書とくに家庭科教科書のフェミニズム化である」「今やフェミニズム勢力は上からの権力を使ってジェンダーフリー教育を組織化しようとしており、子供たちを洗脳することを狙っているのである」と林氏は分析している。
林道義氏は、現在、「ジェンダーフリーが反体制運動の中軸として位置づけられ、革命戦略の最も重要な一環になっていることを、われわれは見抜かなければならない」「ちょうど戦後の革命運動がコミンテルン指導のもと、大衆に受け入れられやすい『平和と民主主義』というオブラートに包んでなされたように、現代の革命運動は『男女平等』という、これまた大衆受けのよいオブラートにくるんで進められている」と警告する。このジェンダーフリー運動については、次章に書くことにする。
林氏の論を続けると、現在の「フェミニズム運動は、革命勢力が背後にいて、綿密に戦略を立て、組織化し、オルグや指導をしているのである。きわめてしたたかで執拗な精神力を持ち、徹底した理論武装をほどこされ、整然と組織だった動きをする、一種の軍団だと認識する必要がある」「フェミニズム運動は革命政党の指導下、段階的進化をとげて、今や国家内国家の様相を呈している」と、林氏はその危険性を強調してやまない。
林氏がいうところのフェミニズムは、急進化し、共産主義と融合したフェミニズムであり、歴史的にはフェミニズムの一部であるが、それが今日のわが国では主流となっている。かくして、マルクス=エンゲルス、レーニン、ルカ−チ、グラムシ、フランクフルト学派、ライヒ、マルクーゼ、ウーマン・リブと展開してきた家族解体・道徳破壊・性自由化の思想が、日本の政治や社会をじわじわと支配しつつある。夫婦別姓やジェンダーフリー運動は、ウーマン・リブ的共産主義となった今日の主流的なフェミニズムの最新の武器となっている。過激な性教育もまたその一環として、推し進められていると見られる。(ページの頭へ)
第15章 ジェンダーフリー派の登場
第13章に、新左翼の中から、ラディカル・フェミニズムの家族論をとりこんだ「マルクス主義的フェミニズム」が登場し、この共産主義化したフェミニズムこそ、今日の日本で影響力を振るっている思想であると書いた。そして、この思想の中から、ジェンダーフリー運動が出てきた。「ジェンダー」とは、生まれつきの男女の差ではなく、社会的・文化的に作られた性差を意味する言葉とされる。ジェンダーフリーとは、そうした社会的・文化的性差がなくなった状態という意味だろう。フェミニズムは、女性の権利を獲得・拡大する思想・運動であり、本来、ジェンダーフリーとは別のものである。しかし、ジェンダーフリーを唱え、急進的に進めようとするフェミニストが、日本に登場した。ジェンダーフリーという言葉自体、和製英語である。
平成11年6月、「男女共同参画社会基本法」が制定された。そして、「男女共同参画社会の実現」のかけ声のもと、具体的な政策・施策が国や各自治体で進められてきた。その結果、ジェンダーフリーの思想があらゆるところを席巻し、わが国の常識や伝統を覆すような事態が起こっている。
「男女共同参画社会基本法」の制定は、ジェンダーフリーを推進する学者がブレーンとなっていた。その中心人物が、東京大学の大沢真理教授である。大沢氏は、男女共同参画審議会の男女共同参画会議・影響調査会会長だった。また、同法の解釈や運用に、強い影響を与えている学者に、東京大学の上野千鶴子教授がいる。
ジェンダーフリー運動の大本の思想を支えているのは、この二人の女性東大教授である。二人は、「ジェンダーフリーの2大教祖」ともいわれている。
大沢氏は、上野氏との対談で、同法について、「ジェンダーそのものの解消を目指すことを議論し尽くした上ではっきり決めた」と話している。そして、「政府はジェンダーそのものの解消を志向している」と主張している。大沢氏や上野氏の解釈では、「男女共同参画=ジェンダーフリー」なのである。性差を否定・解消することが、彼女らの真の目標なのである。
ジェンダーフリー派フェミニスト、大沢真理・東大教授は、次のように語っている。
「セックスが基礎でその上にジェンダーがあるのではなくて、ジェンダーがまずあって、それがあいまいなセックスにまで二分法で規定的な力を与えている、けれど本当はあなたのセックスはわかりません、ということ」だと。
このような考えに持つ大沢氏は、「女で妊娠したことがある人だったらメスだと言えるかもしれないけれども、私などは妊娠したことがないから、自分がメスだと言い切る自信はない」とまで言う。(『上野千鶴子対談集 ラディカルに語れば』平凡社、平成13年)
大沢氏が多くを負っているのが、フランスの社会学者でマルクス主義的フェミニスト、クリスティーヌ・デルフィである。普通、私たちは、男女の生物学的な性差に基づいて、男または女の性自認がされると考える。ところが、デルフィは逆に「ジェンダー」が先にあって、自分が生物学的に男であるか女であるかを識別できると考える。デルフィは、この考えについて、「もちろん仮説であり、実証(または反証)されるまでには数年かかるだろう」と述べ、それは「冒険的な企て」であるが、「にもかかわらず、この賭けを私たちはやりたいと思っているのだ」と述べている。(『なにが女性の主要な敵なのか』勁草書房、平成8年)。
デルフィのジェンダー先行論は「仮説」に過ぎないのだが、それを前提にして、ジェンダーフリーを唱導し、積極的に性差の否定・解消を目指すのが、大沢氏のジェンダーフリー論である。
大沢氏は、フェミニストを自称する。今日、フェミニズムは多様化しており、いろいろな流派がある。例えばリベラル・フェミニズムのように、フェミニズムという言葉の頭に、マルクス主義、ラディカル、精神分析派、ソーシャリスト、アナキスト、エコロジカル、現象学、ポストモダン等がついて、それがさまざまな流派の旗印となっている。私は、現代のフェミニズムは共産主義との関係なくして存在しないと見ている。マルクス主義の影響を受け、それに対する同化や反発の仕方が、フェミニズムの多様化の要因となっていると思う。また、フェミニストが本気で自分たちの思想を実現しようとすれば、政治権力の奪取を目指すことになるだろう。その方法を提示しているのは共産主義しかない。だから、私は、フェミニズムは共産主義との関係で考察することがポイントだと思っている。
大沢氏のジェンダーフリー論のもとになったデルフィは、「マルクス主義フェミニスト」と自称している。デルフィは、著書『女は何を欲望するか?』径書房、平成14年)で、以下のように述べている。
「明らかにマルクス主義は唯物主義である。そのかぎりにおいてマルクス主義はフェミニズムに応用できる」「マルクス主義フェミニストと名のることのできる立場とはどういうものであるか‥‥それは、彼女たちがまさに行っていない二つのことを行うことにある。つまり、唯物論を女性の抑圧に応用することと、マルクスの『資本論』の分析を家父長制の分析にもとづいて再検討することである」
デルフィは、このように自身を「マルクス主義フェミニスト」と規定する。彼女の言う唯物論とは史的唯物論のことであり、唯物史観は階級闘争を歴史の原動力だとする。このマルクス主義のイデオロギーに基づいて、デルフィは、男女関係を階級関係ととらえている。すなわち、
「セクシュアリティはまさに階級闘争の場である。それは二つの集団が対決する場の一つであるが、それらの集団とは労働者と資本家ではなく、社会における男性と社会における女性である」と。
このとらえ方は、マルクスの盟友エンゲルスのとらえ方と一致する。先に書いたように、エンゲルスは、著書『家族・私有財産・国家の起源』(岩波文庫)にて、家族の中で夫はブルジョワ、妻はプロレタリアートであり、男女関係は階級間の支配・搾取の関係であるというのが、マルクス主義のジェンダー論である。デルフィはこれにほぼ忠実なジェンダー論を説いていることが分かる。そして、次のように言う。
「女性の解放のためには、現に知られている社会すべての基礎を完全にくつがえす必要がある。この転覆は革命なしには、すなわち現在他の人間に握られている、私たち自身を支配する政治的権力を奪取することなしには実現できない。この権力奪取が女性解放運動の究極的目標とならなければならないし、女性解放運動は革命的な闘争に備えなければならない」
デルフィは階級闘争を説き、革命を説いている。冷戦終焉後、これほど直接的な言説は、過激派以外には見当たらない。このデルフィを継承したのが、大沢氏である。デルフィがめざす「政治権力の奪取」を、武装闘争による権力の奪取ではなく、グラムシのような文化革命戦術、マルクーゼのような体制内変革で行っていく。それが、大沢氏が仕掛けた「男女共同参画=ジェンダーフリー」だろう。
わが国の政治家たちは、マルクス主義フェミニスト・デルフィでさえ「仮説」に過ぎないと言っているものを、大沢氏の能弁に圧倒され、科学的真理であるかのように誤解し、男女共同参画社会基本法を制定してしまった。ジェンダーフリーが共産主義に基づく革命思想だということに気づかずに、国を挙げて全国に押し広める形になったのが、近年の混乱なのである。政府によって軌道修正がされつつあるが、教育現場はジェンダーフリーに席巻されており、地方自治体も性差解消に熱を上げているところが多い。このとんでもない現状を、早急に転換しなければならない。子供たちを、この恐ろしい思想から守らなければならない。(5)
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註
(4)ジェンダーフリー運動については、以下の拙稿をご参照ください。
「猛威のジェンダーフリーと過激な性教育」
「ジェンダーフリーは革命思想〜デルフィと大沢真理」
第16章 人類の自滅的衝動を克服しよう
フェミニズムは、女性の権利の獲得・拡大のための運動だったが、急進化することによって、逆に女性の伝統的役割の価値を失墜させるものとなってきた。今や欧米では、急進化したフェミニズムの影響により、若い女性の多くが、結婚と母性に否定的となり、結婚する気も子供を産む気もないという状況だ。アメリカ産の性革命の洗礼を受けた彼女らは、いつまでたっても結婚しない。また、離婚率の増大と出生率の低下が示すように、たとえ結婚したとしても、家庭生活は実り少なく不安定なものとなる。
この風潮は西洋全体に蔓延しているだけではない。わが日本こそ、世界で最も急速に少子化と高齢化が進んでいるのである。人口動態の劇的な変化は、国家の経済力を弱め、民族の生命力を低下させ、社会の道徳力を萎縮させている。共産主義の政治・経済革命は崩壊したが、破滅的な少子化と家庭崩壊を食い止めなければ、共産主義や女性優位どころではなくなる。その社会そのものが、衰退・混迷に陥るばかりである。
急進化したフェミニズムは、既成の秩序・価値・道徳を破壊し、家族を解体し、性の自由を拡大し、個人の自由をどこまでも追求しようとする。そのうえで、こうしたフェミニストは、どういう文明を創造し、どういう社会を建設しようとしているのか。そこには、なんら建設的なヴィジョンを見出せない。
共産主義は、破壊ばかりで建設がない。それは「建設なき破壊」の理論である。その共産主義に基づくフェミニズムも、「建設なき破壊」の運動である。それゆえ、それらは、物質科学文明の進展のなかで、自然と生命と精神の価値を見失った人類が、攻撃・破壊の衝動を高めていることの現れというべきである。
フロイトは、人間には生の本能(エロス)と死の本能(タナトス)があるという仮説を立てた。人間は生の本能により、個人や家族、国家等を、人類へと生の組織を統合・拡大していこうとする。ところが、文化が発達すればするほど、文化に解体と自己破壊をもたらそうとする欲動も高まる。これを生物学的に本能ととらえることには、異論がある。しかし、人間には攻撃性がある。攻撃性は外の対象に向かい、その対象を破壊しようとする。ところが、障害に合い、その対象を破壊できないような場合は、攻撃性は自分に向かう。自傷行為や自殺がそれだ。それが集団的に表れれば、自滅への衝動ということになる。
人類の文明の相当部分は、男性が築き上げてきた。有史以来、男は機械を作り出し、自然環境を変え、多くの生命を破壊してきた。女性は、男性に比べ、自然のリズムの影響を強く受けている。女性の月経は、月の満ち欠けと同じ周期性を持っている。だから、本来、女性は、男性よりも自然の側に近く、男性中心に発達した人類文明の偏りを、自然や生命と調和する方向に向ける役割があるのではないか。ところが、現代の女性の一部は、それとは正反対に、文化と家族と生命を破壊しようとする運動を推進している。急進化したフェミニズムは、人類の半分を占める女性の側に現れた、自滅への衝動というべきものである。
共産主義もフェミニズムも、西洋が生み出した思想であり、西洋近代の産業主義や人間至上主義をさらに押し進めようとする思想である。しかし、西洋近代に生まれた思想は行き詰まっている。限界の見えている思想をさらに極端化することは、破滅への道でしかない。
この行き詰まりを破るものは、西洋文明・近代文明とは別の立場からの、もっと根底的な取り組みである。この取り組みにおいては、唯物的な共産主義は過去のものとなっている。また、自己過信による西洋近代的ヒューマニズム(人間至上主義)は、既に乗り越えられている。21世紀に必要な思想は、17〜20世紀の啓蒙主義・合理主義・産業主義・物質主義・人間至上主義・対立闘争主義を超える思想である。それは、自然と生命と精神に基づく思想である。こうした思想の登場による、総合的かつ根本的な意識転換が求められている。
転換は、私たちが、ごく当たり前の、単純な真理を確認することから始まる。男性と女性は互いの特長を認め合い、互いの短所を補い合って、協力していくべきだということである。一家において夫と妻が、社会において男と女が争い合えば、子供も生まれず、健やかに育たず、人類は数世代の後には滅亡する。
共産主義の亡霊を成仏させよう。急進化したフェミニズムが秘める攻撃的・自滅的衝動を、愛と調和の感情へと転換させよう。それが女性にとっても、子どもたちにとっても、そして人類全体にとっても、今、必要な極めて重要なことである。(ページの頭へ)
参考資料
・八木秀次著『反人権宣言』(ちくま新書)
・パトリック・ブキャナン著『病むアメリカ、滅びゆく西洋』(成甲書房)
・大原紀美子他著『女性解放と現代 マルクス主義女性論入門』(三一新書)
・林道義著『「男女平等」に隠された革命戦略──ジェンダーフリー運動の危険』(『正論』平成14年8月号)