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転載します。
http://ni0615.iza.ne.jp/blog/entry/436549/
曽野綾子法廷証言、これって『偽証』?・・・(1)
2007/12/30 09:59
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
曽野綾子法廷証言、これって道義的には『偽証』になっちゃうんでしょうか?
年末押し詰まったところで、情報の大掃除をしていたらヤッカイなものを見つけてしまいました。それは、次の一文です。
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5 東京地裁に継続した家永・教科書裁判第三次訴訟の東京地裁の審理中、曽野綾子に対する1988年(昭和63年)4月5日の尋問で以下の事実が明らかになった。
村の兵事主任(富山真順) に対し「(昭和20年3月25日に17才未満の青少年や役場の職員に非常召集を掛けて役場に集まらせたという事実を知っているか」( 乙24−218頁質問88) との原告代理人の質問に対して、曽野綾子は「村の兵事主任がそれだけのことを知っているということを誰も言わなかったし、兵事主任に会った記憶もない」と答えた( 同回答乃至問91の質問とその回答) 。
すなわち、件の非常招集が『神話の背景』の出版の為の調査時には村民に知られていなかったことが明らかにされたのである。さらに、曽野綾子は、富山真順が集団自決なり、避難命令の問題なり、手榴弾の問題なりを聞いたとしたら、
「それほどおもしろいことでございましたら、私は必ず記憶しております」
「若い方を招集したり、何かをしたと、そのことが大変重大なことであれば、もう飛びついて、きちんと書いたと思います」
と答え、それほど大きな関心をもって調査していた曽野綾子が事実を察知していたならば、まず富山真順にあって話しを聞き、さらに『神話の背景』にも書いたと断言するのである(乙24−220頁問94,95と回答)。 ところが、その当時、「このことを、土地の人は誰も言わなかった」というのである( 乙24 −220頁問96〜101と回答)。事実がなかったからである。
<<
※これは、今大阪地裁で審理中の『大江沖縄裁判』の原告側準備書面(3)全文2006年6月9日です。WEB上での情報ソースは、http://blog.zaq.ne.jp/osjes/article/21/ です。
少し解説しますと、
【兵事係】
戦前、戦時には日本全国の役場に「兵事係」というものが置かれまして、新兵の招集(赤紙)や古兵の復員あるいは「戦死広報」の伝達などの事務を扱い、国民皆兵の基礎帳簿である兵籍簿を管理したりする重要な部署でした。
沖縄戦においては、正規の赤紙召集のほかに、補助兵力である17〜45歳男子全員の防衛隊招集(青紙)やそれ以下の年齢の義勇隊召集もあつかい、各市町村に駐屯する日本軍部隊にとっては、住民動員の要となる役場職員でした。
渡嘉敷村では、「兵事係」として兵事主任の富山真順さん(旧姓・新城)がおりました。兵事主任は重要な立場なので、村長や小学校校長とともに防衛隊召集が免除されていました。
【富山証言とは】
集団自決の軍命令を立証しようとする被告側準備書面(1)によれば、次のようなものです。
http://www.sakai.zaq.ne.jp/okinawasen/syomen1.html
1、日本軍は非戦闘員の住民にも自決命令を出していた
2、島がやられる二、三日前だったから、恐らく三月二十日ごろだったか。青年たちをすぐ集めろ、と近くの国民学校にいた軍から命令が来た。自転車も通れない山道を四`の阿波連(あはれん)には伝えようがない。役場の手回しサイレンで渡嘉敷だけに呼集をかけた。青年、とはいっても十七歳以上は根こそぎ防衛隊へ取られて、残っているのは十五歳から十七歳未満までの少年だけ。数人の役場職員も加えて二十余人が、定め通り役場門前に集まる。
3、中隊にいる兵器軍曹が兵隊二人に手榴弾の木箱を一つずつ担がせて役場へ来た
4、門前の幅二bほどの道へ並んだ少年たちへ、一人二個ずつ手榴弾を配ってから兵器軍曹は命令した。『いいか、敵に遭遇したら、一個で攻撃せよ。捕虜となる恐れがあるときは、残り一個で自決せよ』。一兵たりとも捕虜になってはならない、と軍曹はいった。
5、三月二十七日、渡嘉敷島へ米軍上陸。富山さんの記憶では、谷あいに掘られていた富山さんら数家族の洞穴へ、島にただ一人いた駐在の比嘉(旧姓安里)喜順巡査(当時三〇)が、日本軍の陣地近くへ集結するよう軍命令(指示)を伝えに来た。
6、その夜、豪雨と艦砲射撃下に住民は“軍指示”通り、食糧、衣類など洞穴に残し、日本軍陣地に近い山中へ集まった。今は『玉砕場』と呼ばれるフィジ川という名の渓流ぞいの斜面である。“指示”は当然ながら命令として、口伝えに阿波連へも届く。
7、『集団自決』は、この渓流わきで、翌二十八日午前に起きた。生存者の多くの証言によると、渡嘉敷地区民の輪の中では、次々に軍配布の手榴弾が爆発した。」
・・・・『朝日新聞記事』(1988年6月16日付夕刊)で報道。
最初に私が示した引用文は、富山真順さんの証言にかんしての曽野綾子さんの証言を、現裁判で大江健三郎さんを告訴した原告側弁護団が、20年前の「家永教科書裁判」の記録から引用したものです。「富山真順さんの証言には信憑性がない」ということを、曽野綾子さんという大作家の信用性によって立証しようとしたようです。
しかしこれは、諸刃の剣だったかもしれません。曽野綾子さんの証言の信用性がくずれれば、原告側弁護団の立証意図もくずれます。
曽野綾子さんの法廷証言の狙いは、富山証言が1988にポッと出てきた「あとづけ」であるから信用できないというものでしたが、「家永教科書裁判」においては曽野証言よりも富山証言に信頼をおいた「集団自決は日本軍の命令もしくは集団自決に追いやられたものが多い」判断した判決が下されています。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%B6%E6%B0%B8%E6%95%99%E7%A7%91%E6%9B%B8%E8%A3%81%E5%88%A4
とはいえ、曽野綾子証言の、
>>
「(昭和20年3月25日に17才未満の青少年や役場の職員に非常召集を掛けて役場に集まらせたという事実を知っているか」 との原告代理人の質問に対して、曽野綾子は「村の兵事主任がそれだけのことを知っているということを誰も言わなかったし、兵事主任に会った記憶もない」と答えた。
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の部分の真偽如何についてまでは、「家永教科書裁判」では踏み込まなかったようです。
私は、曽野綾子氏の法廷での緋牡丹お龍のまっ青な啖呵、
>>
富山真順が集団自決なり、避難命令の問題なり、手榴弾の問題なりを聞いたとしたら、
「それほどおもしろいことでございましたら、私は必ず記憶しております」
「若い方を招集したり、何かをしたと、そのことが大変重大なことであれば、もう飛びついて、きちんと書いたと思います」
<<
これには、瞳孔を圧し開いて活目せざるをえません。
1971年に雑誌連載をし、1973年に単行本上梓をした著書『ある神話の背景』の中で富山真順証言にいっさい触れなかったことについて、曽野綾子氏はこう胸を張ったのです。
しかし、しかし、
最初に申し上げましたように、わたしはヤッカイなものを発見してしまいました。それは、
>>
「それほどおもしろいことでございましたら、私は必ず記憶しております」
「若い方を招集したり、何かをしたと、そのことが大変重大なことであれば、もう飛びついて、きちんと書いたと思います」
<<
そう、曽野綾子さん自身が否定したところの、「きちんと書いた」文章を発見してしまったのです。以下に引用しますので、お読みください。
『曽野綾子選集II-2』読売新聞社p435 「切りとられた時間」より
>>
(前略)
「神父さんに伺いますが、もし敵が来たら、あなたはどうされようと思っておられたのですか」
逃げるのではなく、神父はその質問をいささかも逸らそうとせずに踏み止ったように見えた。
「逃げられるだけ逃げよう、そんなふうにしか考えていませんでした」
「しかし神父さんは私たち兵隊とは立場がお違いになる。もしあの時、防召兵たちに武器が配られて、神父さん、あなたも日本人として闘え、ということになった時、あなたはどうされました?」
「一般論をお答えするのですか?」
「いや、一般論は本当はいらないのです」
「私は、実は米軍上陸の前に。手榴弾を一発貰ったのです。離れて住んでいるのだから、万が一、敵に遭遇した時素手では困るだろう、と言って防召兵の一人が持って来てくれたのです。そして迂闘なことですが、その時初めて、私は自分が何をしたらいいかということに恐れを抱いた。といっても、まだ、あの集団自決のようなことがあろうとは思われなかったです。只、私は、その一発の手榴弾の使い方について考えた。あの時、村の人の考えには、二発一組というような意識はありませんでしたか?」
「二発一組といいますと」
「自分の手許に、手榴弾が二発あった場合です。防召兵は二発ずつ持っている人が多かった、ように思いますが」
「二発と一発では違いますか」
「違うように思いました。二発なら思い残りがなかった。一発は敵をやっつける為に使う。残り一発を自決用にとっておく。
私は少なくとも防召兵ではないし、しかも戦闘意欲を失ったような女を運れている。村の大方の感情としたら本当は見殺しにしたいところだったかも知れません。しかしそれでは人惰として見るに忍びない。一発ぐらいはやっておこう。それで、あの気狂い女と死んだらいい、ということになったのではありませんか。これは、悪意にとり過ぎたかも知れない。しかし私は、私の死後まで、私を笑いものにしようとする人々の意志のようなものを感じていたのです」
夜であった。どの夜であったか正確ではない。空襲の第一日目の夜のように記憶している。神父は江和と自分の掘った壕の中にいた。神父はポケットに、配給になった手榴弾を入れていた。初め神父は、それを身近かに置くことさえ恐ろしがったものなのである。ピンを抜いて起爆させる方法は教えられていた。しかし神父はそれが僅かな衝撃にも爆発しそうで、初めはそれに触ることさえ、恐る恐るであった。その日、神父は江和と共に壕の中にいて――それは流人の壕のように、村人たちの山の中の壕から全く離れていた――終日、死の恐怖に脅え続けていた。艦砲は遠くから着実に近づいて来る。神父は江和と共に海老のように身を丸めて死を待ち受けた。それは人間の人間に対する関心の示し方にこれほど残忍なものはあろうかと恩われるような行為の連続であった。
(後略)
<<
手榴弾が米軍上陸前に防召兵に渡されたと、ハッキリと書いていますね。
二発なら思い残りがなかった。一発は敵をやっつける為に使う。残り一発を自決用にとっておく。と、ハッキリと書いていますね。
富山さんから話を聞いたこともないとすれば、曽野綾子さんは、渡嘉敷の別の人からか、あるいは赤松戦友会の誰かから聞いたのでしょうか?
いやいやそんなことはありませんよね。
>>
ところが、その当時、「このことを、土地の人は誰も言わなかった」というのである
<<
曽野綾子さんは、法廷で誰からも聞かなかったと断言しているのですから。
曽野綾子著の小説「切りとられた時間」の発刊は、朝日新聞が元兵事主任富山真順氏の証言を掲載した(1988年6月16日付夕刊)よりもずっと前、1971年のことです。曽野氏はおそらく渡嘉敷島に最初に取材にはいったとき、兵事主任という要職にあった富山真順氏から、話を聞かなかったはずがありません。
渡嘉敷村史を執筆した安仁屋政昭氏は、この手榴弾配布のことはずっと前からなんども富山真順氏から聞いていたそうです。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/671.html#id_11024bde
故・富山真順氏はいいました。
>>
「玉砕場のことは何度も話してきた。曽野綾子氏が渡嘉敷島の取材にきた1969年にも、島で唯一の旅館であった『なぎさ旅館』で、数時間も取材に応じ事実を証言した。あの玉砕が、軍の命令でも強制でもなかったなどと、今になって言われるとは夢にも思わなかった。事実がゆがめられていることに驚いている。法廷のみなさんに真実を訴えるためにも、わたしの証言を再確認する次第である」
これが真実である可能性は、どうやら曽野自身の作品「切りとられた時間」が証明しているようです。
<<
果たして以上が偽証罪になるのかどうか? もうとっくに時効なのか、法律家でない私にはよく分かりません。著名な作家を偽証罪で問うてはいけないのかどうか、キリスト教徒でない私にはよくわかりません。
〜〜〜〜〜〜
※小説「切りとられた時間」は、もと挺進基地隊員の”釣師”が集団自決の島をおとずれ、子供ふたりを自らの手で殺めてしまった”女主人”の民宿にとまり、手榴弾を抱えながら生き残った”神父”と生と死について語りあう、という小説です。フィクションですが、曽野綾子氏は持ち前の調査精神で、渡嘉敷島での調査を踏まえて書き起こしたものと思われます。
※「ある神話の風景」(=「集団自決の真実」)で、曽野綾子氏はもともと渡嘉敷島にも集団自決にも興味がなく、例の慰霊祭騒動で興味を持った、と書いていますが、どうやらそれも、オトボケであったようです。彼女は、それらの前作「生贄の島」連載中に、渡嘉敷島に取材し、「集団自決」の文献も当然読んでいたようです。
【参考】
曾野綾子は赤松と複数回会ったか
http://tree.atbbs.jp/pipopipo/index.php?n=57
2つの赤松手記
http://tree.atbbs.jp/pipopipo/index.php?n=61
1968〜1973の関係者経緯
http://tree.atbbs.jp/pipopipo/index.php?n=62
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