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参議院選挙における自民党の大敗、安倍政権の突然の退陣と、日本の政治は大きく流動化し始めた。福田政権も滑り出しは無難であったが、防衛省、厚生労働省などの不祥事が続出し、政権の前途は多難である。まさに、この数ヶ月のうちに、政権交代をかけた総選挙が行われることは必至である。1993年の細川政権誕生以来、長い長い回り道の末、日本の政治もようやく政権交代可能なシステムの立ち上げに向け、最終的な助走の段階に入ったということができる。
しかし、政局の動きを予想することは本稿のテーマではない。助走で転んで千載一遇の好機を逸することのないようにするためには、リーダーシップや政局を動かす政治家の技量も必要である。同時に、次なる政党システムを描く構想力も不可欠である。本稿では、後者のテーマについて少しばかり考察してみたい。
今年の参議院選挙の最大の意義は、世界標準の二大(二極的)政党システムが姿を現した点にあると筆者は考える。世界標準モデルとは次のようなイメージである。経済効率や強者の自由を尊重する保守政党が右側に、分配の公平や弱者も含めた平等を尊重する社会民主主義系、あるいはリベラルな政党が左側に立ち位置を定め、政権をめぐって競争する。場合によっては中間的政党と連立を組む。イギリス保守党、ドイツキリスト教民主党、アメリカの共和党が前者のグループであり、後者のグループにはイギリス労働党、ドイツ社会民主党、アメリカの民主党などが属する。現在のヨーロッパでは、二つのグループの勢力はおよそ拮抗している。アメリカでは、ブッシュ政権の進める小さな政府路線のひずみがたとえば医療問題に現われ、来年の大統領選挙では国民生活を重視する民主党がいまのところ優勢である。
日本では、この十五年ほど二大政党制を目指すといいながら、世界標準モデルは根付かなかった。その最大の理由は、自民党がジキルとハイドよろしく、強者の自由を尊重しつつ、ある程度弱者にも再分配するという芸当を続けてきたからに他ならない。したがって、自民党を批判する勢力も、政府のリストラを図る新自由主義系の政策を前面に出すのか、国民生活を支える社会民主主義系の政策を前面に出すのか、明確な路線を定めることが出来なかった。ある意味では、冷酷無慈悲な小泉構造改革のおかげで、非自民勢力は社会民主主義を取るほかないという状況が生まれた。小沢民主党はそのような見極めをしたのである。
まさに、新自由主義的構造改革のひずみが明らかになり、勝ち組にあらざる普通の人々の生活が脅かされているという状況において、小沢民主党の「生活優先」というスローガンが国民の支持を集めた。民主党が社民路線をとったからこそ、参議院選挙における勝利がもたらされた。
しかし、自民党の古手の政治家も社民路線とは親和性を持っている。田中、竹下の系譜を引く政治家による利益配分政治が日本では社会民主主義の機能を代替してきたことは、よく知られている。小泉時代にはそれらの政治家は鳴りを潜めていたが、参院選の大敗と安倍の退陣によって息を吹き返しつつある。来年度予算の編成準備を見ると、地方重視という美名の下で利益配分政治が復活する気配もある。また、福田首相自身も構造改革のひずみに配慮することを明らかにしており、新自由主義対社会民主主義という単純な二項対立を描くことは難しくなりつつある。しかし、それもやむをえない。ヨーロッパの例を見れば明らかなように、純粋な新自由主義は過渡的な理念であり、政府のリストラが一段落すれば、国民も公共サービスの維持、充実を求めるようになる。イギリスの保守党でも、サッチャリズムの衣鉢を継ぐ者はほとんど残っていない。社会民主主義対新自由主義の対立は、程度の違いをめぐるものに収斂している。
しかし、政党間の差異が無意味になったわけではない。政党というものは、誰を支持基盤にするかによって基本的な方向を規定される。自民党の場合、小泉時代に日本経団連などビッグ・ビジネスとの関係がそれまで以上に緊密化した。また、経済財政諮問会議や規制改革会議などの公式の諮問機関においてビジネスの主張が政策形成に深く組み込まれるようになった。このような構造は不可逆であり、自民党の社民化には絶対的な限界がある。民主党としては、自民党の曖昧路線との差異化を図るために、生活優先というスローガンから抜け出し、より具体的な政権構想を描くことが急務である。
生活優先という理念を展開する際に、今まで流行語のように語られてきた生活者の政治という言葉を吟味しておく必要がある。実は、この生活者の政治という言葉の中に、市場中心の新自由主義に陥るわなが潜んでいるように、私には思える。
90年代の政治改革や行政改革の中で、生産(者)に対立する生活(者)という理念にもとづいて、政治システムの建て直しと、市場の純化という改革が提起された。生活者の声を反映させるために、政治改革が必要とされた。また、消費者の利益を優先するために、市場原理の解放を基調とする経済システム改革が必要とされた。そこではいわば、市民主権と消費者主権とが予定調和的に結合していたということができる。
当時から生活者主権、生活者起点という理念で、政党再編成を模索する動きもあった。ちなみに、私自身は1993年に出版した『政治改革』という本の中で、生活者新党に対して懐疑的な見解を述べていた。その理由として、「人間は生産に携わって生活の糧を得て、消費をする。だから生活者を生産者の対立概念として考えることには無理がある。生活の糧を安定的に得るためには、生産者の側に立った政策というものも必要となる」と主張している。後の展開を見れば、生活の糧を得るための生産の現場において、雇用が不安定化し、生活自体が困難になっていったわけで、生活者新党のビジョンが楽観的な前提に依拠していたことが明らかになる。市場における消費者主権と政治における市民主権が予定調和的に両立しないことが、そうした政治戦略が失敗した理由であろう。
我々は労働力を売って生活の糧を得ているが、その世界に消費者主権の原理を適用した時に何が起こるか、「生活者」を叫ぶ人々は十分考えていなかった。労働の世界においては、企業こそが労働力の消費者となる。そこに消費者主権を導入すれば、長年の労働運動によって勝ち取られた労働者保護の規制はすべて消費者の利益を損なうものとして否定されることになる。そして、低賃金長時間労働、様々な意味での保障のない非正規雇用こそ、労働力の消費者にとっては利益となる。さらに、そうした企業の背後には、安い価格を歓迎する一般消費者が存在する。最近では公務労働の世界でも、非正規雇用が急増しているが、これも公務員人件費の高さを批判する世論に応えての「改革」である。
また、最近は教育、医療などの公共サービスにおいて、顧客満足という考えが導入され、コスト削減と質の向上を求める動きが急である。無愛想な役所仕事を改善するためには市民を顧客と捉えることにも一理はある。しかし、公共サービスにおいて消費者主権を無際限に導入すれば、安全、公平といった公共サービスの重要な本質が破壊される。公共サービスの供給を担ってきた医師や教師は、仕事の増加と待遇の悪化で疲弊しきっている。最近学校では、理不尽な要求を教師に突きつけるモンスター・ペアレントなる人々が増えている。これなど、公共サービスにおける消費者主権の最もゆがんだ帰結であろう。消費者主権は、公共領域を解体し、資力に関係なくニーズに応じて提供されるべき公共サービスを劣化させたという意味で、新自由主義と親和的であった。
低価格を求めるという単純な経済人(ホモ・エコノミクス)モデルで消費者=生活者を定義し、その利益を極大化することを改革と考える思考からこのような歪みが生まれたことを直視すれば、生活者のイメージを考え直すことが必要となる。
最近、国際経済においてフェア・トレードという考え方が広がりつつある。第3世界が持続可能な発展をすることが出来るよう、それらの国の主要な産品に対して公正な価格を支払うという運動である。この理念は、国内においても、持続可能な社会を作るために応用すべきではなかろうか。国内の農業、地域コミュニティ、公共サービスを守るために我々はコストを負担しなければならない。従来日本は「高コスト社会」と言われてきたが、消費者が払ったものの値段の中には、農業、コミュニティ、雇用を守るための費用も含まれていたわけである。消費者が払う値段、納税者が払う税金によって、不明朗な特権を維持することは困る。その意味での改革はこれからも必要であろうが、安全で公平な社会を維持していくために、税金や価格をどのように負担すべきか、広い視野から考え直すことが求められている。
生活者とは、安さのみを追い求め、自らの欲求を供給者にぶつけるような偏頗な存在ではないはずである。生活者の政治というスローガンもいささか陳腐になってきた昨今である。働く場でも、医療や教育などの公共サービスの場でも、生活を支えてきた基盤が崩れている現在、働く、消費する、育てる、老いるなど人間生活の様々な局面を包括し、新しい生活者イメージを造り出すことが、次の政治を考える上でも必要である。来年に予想される選挙に間に合う話ではないが、政権構想を考える際には、そのような文明論も不可欠である。(『社会運動』332号)
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