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http://www.jcj.gr.jp/massinfo.html#20071127
週刊誌からコメント依頼があった。タイトルは「読売新聞は死んだ」だが、それでいいでしょうかという。確かに大阪本社と、東京本社の違いはあるが、読売と言えば、私の出身母体である。「死んだ」とは穏やかではない。だが、話を伺って、私はそのタイトルのもとで、コメントさせてもらうことにした。
週刊誌の取材はもちろん、あの連立構想と小沢さんの辞任劇、それをめぐる、読売新聞グループの会長であり、かつ、読売新聞の主筆として厳然たる力を持っている渡辺恒雄氏の関与についてである。
思えば、1987年、いまは亡き黒田清さんと、私が大阪読売を退社した時、さまざまなメディアが、かのナベツネ氏と、大阪の黒田軍団の確執を書いてくれた。だが、当時から黒田さんは「ボクら、ナベツネに睨まれるほど大層なもんやない。目の上のタンコブどころか、目の下のホクロみたいなもんや。けど、あの人はそのホクロさえも許さんのやなあ」と言っていた。
さて、目の下のタンコブどころか、ホクロさえ許さない人がこの大連立構想に主筆、いや違った、主役として関与した時、どうなるか。あの小沢さんの辞任撤回の記者会見の席で、朝日・日経以外は信用ならんと発言してきた小沢さんに、あたかもそれを取り消せとばかりに質問した記者は自分の携帯メールを見ながら発言、その様子をテレビカメラが捉えていた。考えたくもないことだが、記者は社命のメールを読んでいたのではないか。
百歩譲って、もし、大連立が出来てしまって憲法改変から共謀罪、あらゆる危険な法案が雪崩を打って成立、その時になって、記者たちが、しまったと感づいたとしても、それを批判することが果たして出来るだろうか。改めて言うまでもなく、記者の仕事は権力のウオッチャーであると同時にチェッカーでもあるはずだ。その記者が批判さえ許されないとしたら最早、記者とは呼べない。
朝日新聞の声の欄が目に止まった。
《「今の読売は権力にすり寄っているなんてもんじゃない。権力者が新聞をつくっているんだ。そんなのジャーナリズムじゃないよ」
読売新聞大阪本社の社会部長を努めたジャーナリストの故黒田清さんは、古巣の読売についてこう評した。(魚住昭著『渡辺恒雄 メディアと権力』)》(愛知県犬山市・梅沢広昭)
同じ朝日の「朝日川柳」には、《黒田記者 存命ならば何と書く》とあった。黒田さんが亡くなって7年、存命ならば夜な夜な水割り片手に、私に何を語ってくれただろうか。目の上のだろうと、目の下だろうと、権力にとって、タンコブであるはずの記者たちがホクロであることも許されなくなった新聞はやはり死んだのである。
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