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http://www.magazine9.jp/interv/hayashi/hayashi.php
この検定において、文科省が訂正の「根拠」として持ち出したのが、林さんの著書『沖縄戦と民衆』でした。しかし、通読すればすぐわかるように、林さんはこの中で、「日本軍による強制」を否定しているのではなく、むしろ多数の証言からその強制性を明らかにしようとされているんですね。
林
そのとおりです。たしかにその本の中には、集団自決のその場において、「今自決せよ」といった直接的な命令はしていないだろう、という表現はあります。文科省は、そこだけを取り上げて「この本の中でも強制は否定されている、だから記述を変えろ」と言ったわけですね。本の結論では、集団自決は日本軍の強制と誘導によっておこったんだと何度も強調しているのに、それを無視してある一文だけを取り上げるのは、まさに詐欺としか言いようがない。
編集部
しかし、それが「おかしい」ということは、一度でも『沖縄戦と民衆』を読めばわかるのに、なぜ教科書の執筆者たちは反論せずに訂正に応じたのか? というのが、最初にこの問題をめぐる報道に接したときの疑問だったのですが、実は文科省からの検定意見が出される際には、検討する時間もほとんど与えられず、その場で訂正内容を決めなくてはならないことになっているそうですね。
林
私も現場にいたわけではないので、執筆者から聞いた話ですが。昨年12月に文科省に呼ばれて、検定意見を見せられ説明をうけた。そして、それに対してどう書き換えるのかを、文科省の会議室にいる間、2時間以内に決めないといけなかったのだそうです。
実は、1989年以前は検定意見を持ち帰って、調べた上で資料を持ち出したりしてやりとりをすることができたんです。それがこの年に制度が改悪された。文科省が持ち出した「根拠」が本当かどうかを確認することもできないまま、会議室の中で判断しないといけないというんだから、本当にめちゃくちゃですよね(笑)。
それで今回、執筆者のひとりが帰ってから私の本を取り出して読んでみたら、「そんなことない、ちゃんと強制って書いてあるじゃないか」ということになったわけです。
林
検定意見では、「集団自決しろという命令は出されていない」から書き換えろ、ということになっていますね。でも、教科書の記述は、日本軍によって「集団自決を強いられた」とか、「集団自決に追いやられた」というものであって、「軍命令に従って」なんていうことは、最初からどこにもないんです。
たとえば、座間味島での集団自決において、部隊長が「自決しろ」という命令を出していないと自ら主張しているようなことは、少なくとも20年以上前にはもうわかっていた。沖縄戦の研究者は、その上で研究を続けているんですね。「自決しろ」という命令がなかったからといって、強制があったということを否定する理由にはならないからです。
編集部
命令そのものではないところに「強制」があったと?
林
だって、何も下地がないところにいきなり軍人が「おまえたち、自決しろ」と言ったって、みんな聞くわけがない。つまり、「いざという場合には自決するんだ」と人々に思い込ませるようなことが、日本軍が来てから何ヶ月もかけて準備されていたんだということです。客観的に見れば、米軍が上陸してきたからといって、住民が死ぬ必要なんてまったくない。米軍は保護するつもりで来ているわけだから、生きることはできるんだけれど、その選択肢があることを認識できないようにするわけです。中には、渡嘉敷島や座間味島のように、軍から「手榴弾を渡された」というケースもありますが、そこで「自決しなさい」と言われなかったとしても、黙って手榴弾を渡すということが何を意味するのかは明らかですよね。
編集部
まさに、無言の強制ですね。
林
行政だとか教育、個々の日本軍将兵による言動も含めて、当時の戦時体制の中で、人々は(米軍がやってきたら)「死ぬしかない」と思い込まされた。そうして自決に追いやられた。これまでの沖縄戦についての研究が明らかにしてきたのは、そういうことなんです。
だから、「今自決しなさい」という軍命があったかどうかというのは、実はそれほど大きな問題ではない。しかし、今回の検定意見は部隊長の命令が「なかった」ということだけを問題にして、それで日本軍の強制を全部否定している。ある部分だけの間違いを取り出して、全部が嘘だというこのやり方は、「新しい歴史教科書をつくる会」の論理そのものです。それをそのまま文科省が検定意見に採用しているんですね。
林
靖国神社をめぐる議論と同じなんですよね。普通であれば生きられたはずの人々が、国家の行為によって死に追いやられた。その場合、国家、あるいは軍の責任が当然問われるべきなのに、「崇高な死だ」ということによって国家や軍が免罪されてしまうという構図です。
集団自決というのは、米軍が上陸してきてすぐに起こったもので、その後には起こっていません。なぜかというと、証言の中で出てくるのは「米軍が非常に親切にしてくれた」ということ。つまり、それまで「米軍は捕まえた住民にひどい扱いをして皆殺しにするんだ」という恐怖心を叩き込まれていたから、投降できなかった。でも、「ちゃんと助けてくれるんだ」とわかると、もう自決する必要はない、山から下りていこうということになったわけです。
そして、もう一つ大きかったのは、「日本軍が玉砕するときには自分たちも一緒に玉砕する」という意識です。軍官民共生共死――もう「共に生きる」というのはこのころには意味がないですから、「共に死ぬ」方ですが――というのを信じ込まされていたんですね。それで、日本軍はもう玉砕するはずだと思っていたから、自決が起こったわけです。
編集部
でも、実際には日本軍は「玉砕」しなかった…
林
そう。全然玉砕する気がなくて山の中なんかに隠れていた。それで、生き残った住民たちが少し逃げているうちに日本軍が玉砕していないことがわかってくると、日本軍が生きているのに自分たちだけで玉砕するなんてばからしいということになるんです。
だから、防衛庁の戦史などに書かれているような、「軍に迷惑をかけないように自ら進んで」なんていう意識はほとんどなかったはずです。あったのは、米軍への恐怖と「軍が玉砕するときは自分たちも」という意識。だから、そこの嘘が崩れてしまうと、もうそれ以上自決は起こらなかったんです。
編集部
集団自決が起こった原因が、「お国のために」という皇民化教育にあるという意見もあります。ひめゆり学徒隊の生存者の方などは、そういった証言をされていますね。
林
ひめゆり学徒隊の方たちの証言は、彼女たちにとってはまったくそのとおりだと思うんです。しかしその理由で全体を説明するのは違うんじゃないか、というのが私の主張です。たとえば、ひめゆりの人たちは当時16、17歳で、まさに軍国主義にどっぷりと浸かって育った世代ですから、たしかに「お国のために命を捧げるのは立派なことだ」と本気で信じ込んでいたと思う。
でも、もっと上の世代、あるいはひめゆりの人たちのような中等教育をうけていなくて、小学校しか出ていないような大多数の人々はどうか。もちろん、建て前は建て前としてあるけれど、プライベートなところ、軍のいないところではけっこう本音を言っている――ときには天皇の悪口を言ったり――という部分があったようです。本を書いたり、語り部になるのはやはりある程度教育を受けた人が多いのであまり注目されないけれど、「軍に招集されたけれど、郷里の母親が心配で途中で逃げ出した」なんて証言もありますから。
集団自決とは反対に、地域の人たちが集団で米軍に投降したケースはたくさんありますが、それらはもっと上の世代が地域のリーダーである場合です。たとえば40歳代くらいであれば、大正デモクラシーの時代に教育を受けていて、その影響が残っている人たちも少なくないですから、ひめゆりの世代とは全然違います。
もちろんその世代のなかにも皇民化教育を推進した教育者や、戦時体制に積極的に協力した人たちもいますから、同じ世代でも一色ではありませんが。
では、そういう人々を集団自決に追いやったのは何かというと、やっぱり先ほども言ったアメリカ軍や日本軍への恐怖心だと思うんです。皇民化教育だけでは「死ぬしかないんだ」という意識をたたき込めないからこそ、恐怖心を煽ったのではないでしょうか。
そして、さらに決定的だったのは、日本軍がそこにいたということです。日本軍がいなければ、生きたい、米軍も民間人までは殺さないだろうからみんなで投降しようということができますが、日本軍がいれば非国民、スパイとして殺されてしまいます。集団で米軍に保護されるというのは、日本軍がいなかったからできたのです。
林
これまでの与党による改憲論議は、まさにアメリカと一緒になって世界中で戦争をできる国にしようというものですから、とても認めることはできません。
ただ、9条の問題を考えるときに非常に重要なのは、実は日本やヨーロッパ、アメリカなどの先進国は、第二次世界大戦後、自分の国土で戦争をしたことがないという事実だと思います。
編集部
それはどういうことですか?
林
たとえばライフラインです。第二次世界大戦のときまでは、日本もヨーロッパも、飲み水は井戸や川からとっていたし、食事は竈(かまど)でつくるし、というような生活スタイルです。電気冷蔵庫など電化製品などまったくありません。ですから、そこが戦場になって電気や水道、ガスといったライフラインがストップしても―というよりもともとないのですが―、それなりに生きていけるような生活をしていた。現在戦争が起こっている途上国もそうですね。
ところが、経済成長で生活スタイルが一変し、さらにIT化も進んで、電気が止まるとすべてがストップしてしまい、生きていけなくなるような社会になってしまった。人類の経験の中で、そういう社会の中で戦争が起こったことは一度もない。逆に言うと、こんな社会が戦場になるという想定そのものが、およそあり得ない、ナンセンスな話だと思うんですね。
つまり、日本だけではなく先進国はみんな、人の生活自体がもう、戦争には耐えられない状態になっているということです。戦争でライフラインが破壊されたら、水がないからトイレも困る、電気が止まり冷蔵庫も使えない。昔なら裏山から薪を採ってこられたけれど、都市ではそれもできないし、井戸もない。マンションなんてもう、どうしようもないですよ。実際の砲弾で死ぬ人よりも病気で死ぬ人のほうがはるかに多くなるだろうし、とんでもないことになるでしょうね。
編集部
戦争をするべきじゃない、というよりも、もはや「できない」社会になっているということですか。
林
そう。安全保障の問題も、社会のあり方がまったく以前とは変わってしまってるんだということを前提にして考えないといけない。そうすると、理念として軍事力を放棄すべきかどうかということは別にしても、戦争は「できない」んだからしない、戦争をしてしまうとそれだけで人々に想像を絶する被害がでてしまう、そうするとそこで武力を持っていることに何の意味があるのかということになります。
日本の場合でいえば、完全非武装までは行かないにしても、今の自衛隊のような強力な軍事力はいらない。せいぜい国境警備隊程度で、日本列島の外側で守るという選択肢はあり得るけど、そこを破られたらもう、手を挙げるほうがいい。そこで戦争を始めてしまったら、とんでもない犠牲が出るんですから。
編集部
それが、犠牲を最小限に抑える現実的な手段じゃないかということですね。
林
そうです。「軍隊を持たない」「非武装を貫くべきだ」などというと、なんだか非常に立派な人格者みたいだけど(笑)、そうじゃなくて、もっと自分のエゴで考えても、軍隊を持たないほうがかえっていい。自分の身が一番大事だからこそ、軍事力はないほうがいいんだということ。それが自分にとってもいいだけでなく、ほかの人々、ほかの国の人々にとってもいい。
理念や理想で考えるのも大事ですが、それよりは、そういう現実的な議論をもっとしたほうがいい。改憲論議の中では、軍隊を持つことのほうが「現実的」だと言われることが多いけれど、軍隊で守ることこそが「空想的」「観念的」であって、持たない方がずっと「現実的」だ、というふうに、それをひっくり返さないといけないと思うんです。
はやし・ひろふみ
1955年生まれ。関東学院大学経済学部教授。平和研究・戦争研究・現代史を専門とする。『沖縄戦と民衆』(大月書店)で第30回伊波普猷賞受賞。その他の著書に『裁かれた戦争犯罪−イギリスの対日戦犯裁判』(岩波書店)、『BC級戦犯裁判』(岩波新書)、『シンガポール華僑粛清』(高文研)などがある。
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