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今こそ、民主党頑張れ! (渡邉良明・現代日本政治論)
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投稿者 いっぱつ 日時 2007 年 11 月 12 日 21:56:53: sl92nDep4Wwmo
 

 酷暑の夏が遠のき、今年も余すところ二カ月足らずとなった。金木犀から山茶花の季節へと移りつつある今日この頃だ。昨日8日はもう立冬だ。新年の年賀葉書も発売され、すでにその準備を始めた人もいるかと思う。正直、“民営化されてもう年賀葉書はなくなるのかな”と案じたが、まったくの杞憂だった。ところで、お年玉付年賀葉書の発案者が小沢一郎氏の父親佐重喜氏(1898〜1968)だということを知る人はそう多くないかもしれない。年賀葉書は、彼が吉田内閣の初代郵政大臣になってからの年間最後の国民的行事になった。同氏は、根っからの苦労人であったゆえに、庶民の“喜び”や“期待感”を真に理解していたと思う。他方、このたび、愛息の一郎氏は、われわれ庶民を心底驚かせ、困惑させてしまった。彼も父親に倣って、真に庶民の喜びや“期待感”を喚起する政治指導者であってほしいと願うのは、決して私だけではないと思うのだ。

 私事だが、このひと月余り、母の入院と手術、それに実家の新しい庭づくりや地元の研究会での発表、それに愛用のパソコンの故障と修理などで、本稿への寄稿を休載する形となった。その間、とくに最近、永田町に激震が走った。小沢一郎民主党代表の突然の辞意表明と、苦吟の末の同代表への復帰である。今回の政変は、小沢氏の釈明会見と、無条件の民主党復帰ということで決着した観がある。「雨降って地固まる」と感じる人や「最後良ければすべて良し」と感じる人が大勢かもしれない。だが、なかには、福岡政行氏(白鴎大学教授・政治評論家)のように「覆水、盆に返らず」と言う識者もいる。そこまでいかなくても、いまだ釈然としない人もいよう。筆者もそんな釈然としない者の一人である。第一、今回のキーワードは「大連立」ということだと思うが、小沢氏には、一点の曇りもなく、今後それを表に出さないという確信があるのだろうか? 正直、同氏の本音がわからない。わからないまま、彼を支持・支援することは不可能だと思う。なんらかの“いい結果”が出たと思える昨今、当初の問題をぶり返すのは、決して賢明なことではない。だが、問題の所在や本質をいい加減に看過しないためにも、このたびの問題をあえて明確にしておきたい。そのために、たいへん参考になると思えるのが、次の山口二郎氏(北海道大学教授・政治学)の論述である。
 「小沢氏辞任表明の意味するもの」という題名で、同氏は、「大連立」は政党の主体性放棄と書き、「民主は政権交代へ主張を」と記した。長い引用になるが、重要な文章だと思えるので、ご寛恕いただきたい。氏は、次のように論じた。《大連立構想を自身の党の幹部に否定され、突如党首の座を投げ出した小沢一郎氏が何を考えていたか。それについては、私も各種メディアの論評を読むだけで、何ら付け加えることはない。むしろ、この十数年、政権交代可能な政党システムの構築を主張し続けてきた者として、小沢氏にどのような錯誤があったのかを明らかにし、今後の民主党再建の方向について考えてみたい。民主党が政権に参加することと、政権交代を起こすことは、まったく別の事柄である。そして、日本にとって必要なことは、政権交代であり、民主党の政権参加ではない。この数日の動きを見て、小沢氏にはこの識別がまったくできていなかったと痛感する。政権参加は連立の組み替えですぐにできる。政権交代は選挙によってのみ起こせる。七月の参院選で国民が示した意思も、自民党に代わって政権を担える政党が出現してほしいという願望であった。まして、安倍晋三前首相のぶざまな退陣によって自民党が政権担当能力の欠如をさらけ出した後であり、民主党は早期の衆院解散・総選挙によって、国民にどちらの政党に政権を預けるか、選択の機会を与えろと主張し続ければよかったのである。現在ドイツでは大連立政権が国を統治しているが、これも選挙の結果を受けて生まれたものであり、単なる政党の離合集散の結果ではない。大連立については、国政の停滞を放置できないというもっともらしい正当化もある。しかし、そもそも福田康夫政権は国民の負託を欠いた、正統性なき政権である。だから、福田政権が国家の命運を左右するような重大な政策を決定してはならないのである。自民、民主の大連立ができたとしても、両党が選挙協力をすることは不可能であり、その連立政権は次の総選挙までの短命政権であることは不可避だ。参院選のマニフェストで示した政策をそのような暫定的な政権で実現できるはずはない。そもそも政党とは何か、政党政治とは何かを基本に返って復習しなければ、大連立騒ぎはこれからもねじれ状態の国会に時折、蜃気楼のように現れるだろう。政党は英語でパーティーといい、その語源は部分(パート)である。つまり、政党は最初から全体を代表することはできない存在である。政党はその主義や理念に基づいて社会の中のある人々、ある利害を代表し、公共空間に表出する。そして、さまざまな部分的な主張が公共空間でぶつかり合うことを通して全体を統括する政策が出来上がる。政党はまず自己主張をしなければ公共的空間も成り立たない。野党として自己主張を続ければ、与党から国政の停滞という攻撃が浴びせられる。大連立は、政党の主体性を放棄し、見せ掛けの全体に引き込もうとする誘惑である。たかだか数時間の党首会談で敵対勢力との合意が見いだせるほど、民主党の自己主張はいいかげんなものだったのか。小泉・安倍時代に推進された改革路線も所詮はある部分の利害を反映したものであった。この路線で打ち捨てられた部分の利害を代表したのが参院選における民主党だったはずである。民主党が政権をとりたいならば、自分たちの代表している部分の利害を徹底的に主張し、それを公共的な政策に鍛え上げるしか道はないはずである。また、そうした姿勢に徹すれば、数ヶ月の政治的空白は政党政治を確立するための助走期間として国民にも許容されるであろう》(11月6日付熊本日日新聞)。

 まさに正論だと思う。大正時代の政治学者・吉野作造がこの時代に生きていれば、ほぼ同じ内容の文章を書いたのではあるまいか。山口氏の「政党はまず自己主張しなければ公共的空間も成り立たない」という言葉や「たかだか数時間の党首会談で敵対勢力との合意が見いだせるほど、民主党の自己主張はいいかげんなものだったのか」という訴えは、実に重い。小沢氏にも再認識してほしい名論卓説である。われわれも、山口氏の最後の言葉に注目すべきだと思う。また、そこにこそ、民主党や同党を支持・支援するわれわれの希望も見出せると思うのだ。 
 山口氏と同様、今回の小沢氏の政治行動や、同氏の「国連偏重主義」に批判の目を向けるのが森田実先生である。森田先生がとくに着目なさっているのは、「憲法9条の問題」ではなかろうか。先生の御新著『自民党の終焉』の「おわりに」にもあるように、「戦争は絶対にしてはいけない。政府に戦争をさせてはいけない。国民を不幸にするような政治は変えなくてはいけない」のだ。われわれは、すべてをこの視点から考え、行動すべきだと思う。それゆえ、自・公連立政権ばかりか、小沢・民主党さえこの大前提を蔑ろにするようならば、われわれは身命を賭してでもそれを阻止すべきだと思うのだ。その点で、森田先生の次の言葉に注目したい。 《日本の安全保障政策の基本については、(1)憲法第9条、(2)国連決議(小沢一郎)、(3)米国政府と一体化(自公連立政権)という3つの考え方がある。いまの自公連立政権はアメリカ一辺倒である。これに対し小沢氏は国連一辺倒を主張している。私は憲法第9条が基本だと考えている。しかし、この立場に立つ政治家は意外なほど少ないのが現状である。日本国憲法を無視したら民主政治は成り立たない。日本国憲法を第一義に守ることで「法の支配」を確保することができる。小沢一郎氏が国連決議を日本国憲法の上位においていることは、法理論上は間違っていると思う。小沢一郎氏が押しも押されぬ政界の大実力者になったとき、小沢氏は国連決議第一主義をとるだろう。だが、それはきわめて危険な選択である、というのが私の考えである。自衛隊の活動範囲を日本の領土領海内部に制約するというのが、憲法第9条と自衛隊の存在とのぎりぎりの調和点である。これを無視して国連決議があれば、自衛隊を、世界のどこへでも派遣できるという解釈は間違っているだけでなく、きわめて危険な考え方である》(森田実の言わねばならぬ[711]より)。

 無論、小沢氏は、軍事支援ではなく、あくまで民生支援であると強調しよう。だが、実際にアフガンなどで活躍する人々(たとえば現在パキスタンにいる中村哲氏)の目から見れば、民生支援などといっても、実に過酷な戦争状況のなかでの活動を余儀なくされる。そのため、結局、警護のために軍事行動や軍事介入やむなしという危機的状況も十分予想されよう。また、小沢氏の「国連決議」の強調は、アメリカの暴走に追随する主体性なき日本外交の現状を牽制、かつ是正しようという意図もあろう。だが、国連の実質はかつての“連合国同盟”であって、日独両国はいまだ「敵国条項」さえ解かれていない現状である。日本が、国連を通じて世界のために貢献するというのであれば、ドイツと一致・協力して、その削除を要求することこそ先決であろう。それを果たさずに、国連第一主義や国連偏重主義というのは実に変な話だと思う。無論、こんなことは、小沢氏は百も承知であろう。だが、同氏が強調なさる憲法の前文にある「国際社会において、名誉ある地位を占めたい」がために、再び国民を戦争という塗炭の苦しみに陥れてはいけないと思うのだ。とくに、戦争を知らない60歳以下のわれわれ“未熟者”(たとえば石破防衛大臣を含め)たちが、まるでゲームのごとく戦争を論じることなど論外であろう。何より私は、森田先生の「憲法第9条」を守ろうとなさる視点こそ現代日本に生きるわれわれが最も大事にすべきものだと思う。その意味で私は、このたびの先生の主張こそ、現代日本の“良心の声”だと思うのだ。

 ところで、本日(8日)の地元紙の一面大見出しには、小沢氏続投表明「衆院選に政治生命」とあった。また、小見出しには「大連立の可能性否定」とある。大方の新聞がほぼ同じ論調だ。だが、大変興味深いことに、昨日、小沢氏が、民主党の両院議員懇談会で“虚心坦懐”にこのたびの経緯を縷々説明したなかに、国民が知らされていなかったことの真相がいくぶん明白となった。地元紙がまとめたポイントによると、(1)ある人物から2カ月ほど前に呼び出されて食事をし、「国のために大連立を」と言われた。(2)福田康夫首相の「代理」と会い、首相も本気だと言われた。直接首相から話を聞くのが筋だと返事をしたら、党首会談の申し入れがあった。 (3)党首会談をめぐる報道で迷惑を掛け、気力が途切れ、けじめをつけようと思った。(4)(辞任表明で)おしかりや励ましをいただいた。党内の大多数の人から次期総選挙で勝つまでやれと言われ(続投して)やってみようと思った、ということである。小沢氏は、真に口の固い人物で、一切無駄口のない人だ。それゆえ、この言葉に寸分の余分な言葉も感じられない。私は、この言はまったくの真実だと思う。そうすると、どうも「大連立」という構想の裏が、当初、われわれが予想していた小沢氏の国民への“裏切り行為”という構図とずいぶんと異なったものだという気がするのだ。小沢氏は、彼の信念と美学により、「国のために大連立を」と訴えた著名人が一体誰かを言うのを差し控えた。実に小沢氏らしい見上げた行為だ。だが、大方の国民はその御仁が讀賣新聞社の渡辺恒雄社長ぐらいのことは察しがついている。当の渡辺氏は小沢氏だけでなく、鳩山幹事長にも同じ内容の訴えをしていた。多分、他の民主党の要人に対しても同様の画策をしていたことだろう。つまり、参院選での自民党敗北後、渡辺氏は、民主党の“切り崩し”に奔走していたのである。だが、今回の讀賣新聞社によるまさに“マッチポンプ的”な所業は、長い目で見れば、まさに恥ずべき売国的行為とさえ言えよう。多分、渡辺氏も中曽根康弘氏などと協議の結果なのだろう。今回の“異変”の背後に、時の権力者たちによる“小沢つぶし”や“民主党壊し”の策謀が見てとれる。まさに稀代のワルたちが“小沢氏をつぶすために”彼の純な“国民思い”の心情を逆手にとって、まるで彼を手玉にとった感じだ。二カ月前と言えば、安倍前首相の突然の辞任後、自民党の総裁選が戦われた。その後、「背水の陣」内閣と自称した福田内閣が船出したばかりで、福田氏はそれこそ“藁をもつかむ”思いだったことだろう。その福田氏の窮地を見かねて、二人の御老体が“悪知恵”を出し合ったと考えられる。まさに板垣英憲氏(政治評論家)の説く“老害”である。渡辺氏や中曽根氏が真に日本国を思い、国民のために尽くしたいと思うなら、ただ一言お薦めしたい。即刻、隠居して、国事の一切を現在の政治家諸氏に任せることだ。非常に傲慢かつ自意識過剰の老人たちがしゃしゃり出て国政を乱すなど、もっての外だと思う。すでに過去の近代史でも、晩年の東郷平八郎や山縣有朋の悪行で立証済のことではないか。そんな愚を再び繰り返す必要などないと思うのだ。それに第一、渡辺氏と中曽根氏の共通項は、CIA(アメリカ中央情報局)である。渡辺氏は彼の導き手の正力松太郎との絡みでそうだし、中曽根氏はヘンリー・キッシンジャーとの盟友関係で、両者とも、CIAの“操り人形”と言えよう。そんな二人が日本の国政に手を出すこと自体、国辱的、かつ売国的なことだと言えよう。

 それにしても今回のことで露呈したのは、小沢氏の一本気(悪く言えばナイーブさ、つまり人を信じ込む“甘さ”)と、対する福田氏の老獪さである。就任したての福田氏にはどこか不安気な頼りなさがあったが、最近は、たいへん自信に満ちた感じだ。それに、彼の語る言葉はソツがない。だが反面、耳には届いても心には響かない。かつて森喜朗氏が総理だったとき、私は明らかな“嫌悪感”を感じたが、同様に福田氏に対しても、私は真の「総理」という感じがしない。その根底にあるのは、先の山口氏の論述にあった「福田政権は国民の負託を欠いた、正統性なき政権」だからであろう。たしかに、ワンポイント・リリーフの投手は、どんなに有力でも決してチームのエースではないのだ。ところで、小沢氏についてだが、たしかに人を信頼し信じ抜くことは、人間として立派なことだし、大事なことだと思う。また、小沢氏が「原理・原則」を重んじ、論理を大切にするのも、よくわかる。だが、同氏は勢い、論理や言葉のみに囚われすぎるのではあるまいか。それに、「理」に勝ちすぎる反面、あまりにも人の情に弱すぎるような気がする。そんな点で、彼は人一倍他者を信じ、その信用した人々に裏切られてきた。その意味で彼は、人並み以上に“傷ついてきた”政治家とも言えよう。だが、このたびのことでひとつ思い出すことがある。それは、今春、小沢氏が民主党代表選挙で述べた最後の言葉だ。彼は次のように述べていた。「まず、私自身が変わらなけれなりません。そして、皆様に支えていただきながら、民主党を改革し、さらに日本を改革しようではありませんか」、と。今回の小沢氏も、議員懇談会のしめくくりにあえてこの時の言葉を持ち出して、「あの約束を改めてかみしめ、死にもの狂いで頑張ります」と結んだ。たしかに今春の言葉どおり、小沢氏は今夏の参院選で変わった。また、このたび“恥をしのんで”党代表に復帰したなかに彼の変化が窺えよう。人間は本来、変われるものだと思う。「政権交代」という大前提は変えてほしくないが、小沢氏には、人間的にはますます深く、かつ広い人間性を持つ政治指導者に変身してほしい。過日、福田氏は自政権を「背水の陣内閣」と呼んだが、今回、小沢氏こそが背水の陣を敷いたと思うのだ。福田氏の言葉は、実にソツのない、一種の“官僚言葉”だが、小沢氏の言葉の“剛毅木訥さ”は「仁に近い」と考えたい。先日の両院議員懇談会で、小沢氏は涙さえ浮かべ、腹蔵なく自分の所信や反省の弁を述べた。だが今後は、小沢氏は、もっと強く鳩山氏はじめ民主党の同志を信じてほしい。また同時に、いやそれ以上に、小沢氏自身が真に国民や同志から信頼され、支援される指導者になってほしいと思う。それゆえ、私は、次のように訴えたいと思うのだ。「今こそ、民主党頑張れ!」と。【つづく】


第6回(2007年11月9日)
今こそ、民主党頑張れ!
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渡邉良明●現代日本政治論・バックナンバー
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MORITA RESEARCH INSTITUTE CO.,LTD
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