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http://blog.goo.ne.jp/longicorn/e/4383dcb61f614e321e79cd72aef2c14f から転載。
「無党派」は保守だった−高村薫の見立て
2007-12-06 18:00:06 / 本棚
高村薫さんの『作家的時評集2000−2007』に、「『無党派』は保守だった」(*1)という一文が掲載されている。
氏が言及しているのは2005年の総選挙である。小泉自民党の圧勝だった、あの選挙。
冒頭、こんな調子ではじまっている。
昨夜、私はぽかんとして開票結果を見ていた。そして初めて気づいた。今まで投票に行かなかった「無党派層」は保守だったんだと。おそらく世間はこれまで、無党派層はリベラルだとみなしていたのではないか。それが大いなる勘違いだということが証明された。
この見立てはあながち的外れだとはいえまい。無党派を自認する人のなかには、これに立腹される方もおられるかもしれない。けれど、私は高村氏を支持する。
もともと無党派層の定義など最終的にできないと私は思っているが、それは措くとして、それをリベラルだと見る立場よりも保守だとしてこそ筋がとおるというものだ。
この小泉圧勝の選挙から、ほぼ2年後の今年の参院選では、民主党が大勝した。高村氏の文脈で考えると、この結果も理解しやすい。もともと民主党がリベラルだという意見には大いに疑問を持つ立場からすると、2年前と今回とは基本線で同じということになる。
そして、ここ数回の選挙で得票率という数字上で、自民、民主の累計が概ね一定していることはこの高村氏の見立てを支持するだろう。
むろん自民・民主以外を支持していた人が民主党に投票したり、自民党に投票した結果も含めた得票率の推移なのだけれど、自民、民主のいずれかに投票するという行動が繰り返されていると推測されるわけだ。
現に投票の対象となる自民、民主の両党がここにきて大連立を一度は協議したという事実は、選ばれる側が、選ぶ側の実態、つまり保守というくくりで纏められることをも見抜いている結果ともいえなくはない。別の言葉でいえば、高村氏が他から切り分ける保守という選ぶ側は、自民でも民主でもどちらでもよいのだ。
あいかわらず硬質な筆致の高村氏が最後にこう書いている。
少なくとも新聞は、投票日直前まで「一歩立ち止まり冷静に考えよう」とよびかけていた。だが、言論は無力だった。一部政治家とテレビが作り出すムード無党派層が乗るという21世紀の政治のかたちを分かりやすく提示したという意味で、「9・11選挙」は文字通り歴史的だった。
9・11選挙後、この無力さを反省するメディア関係者、言論人の発言をいくつか目にしたことがある。私の理解では、今さらに言論は力をなくしているようにみえてならない。ダイナミクスを読者に提示できなくなっている。
言論が力をなくすとき、人の眼は極端な場合、英雄やカリスマを求め、フィクサーや「悪の親分」の動向に関心を集中・特化させるという具合に。
たとえば、大連合ではナベツネが動いたといわれ、頭にのって当の本人が(党首会談の)内幕をあとで書くみたいなことをしゃべり、メディアがまた動く。
重要なのは、ナベツネの動向の一々ではなく、ナベツネをそのように動かす、あるいは動かざるをえない背後の構造に着目することだろう。その構造とは60年余つづく自民党政治という、保守政治を支えてきたそれであり、それが今、社会の変動のなかで従来と同じ形では立ち行かなくなっているということではないか。保守政治を保持するためにしかけられたのが小選挙区制であり、二大政党制のプロパガンダと推進であった。
このゆきづまりから変化を求めるかどうか、それは近々予想されている総選挙で一つは試されるということだろう。高村氏のいう「多くは無意識に保守」の日本人もまた、この意味で変化を迫られている。
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