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http://mainichi.jp/select/seiji/iwami/news/20071208ddm003070063000c.html
近聞遠見:連立工作、昔といまと=岩見隆夫
大連立騒動の余震が続いている。舞台になった党首会談の詳細が不明なのも疑心を招いているが、福田康夫首相は4日の参院外交防衛委員会で、それを問われ、
「中身がわからないというが、思ったようにいかなかったのだから、言わないほうがいい。一つの過程、一段階だから」
と答えた。進行形、というふうに聞こえる。
連立政権時代に入ってからすでに14年、さきの参院選の自民惨敗は、その連立に急変をもたらした。現状の自民・公明による2党連立では政治が転がっていかない。
背景に時代潮流の変化と国の危機、それに敏感に反応する民意がある。最近は聞かれなくなったが、明治維新、敗戦に続く<第3の開国>、つまり、平成の転機が迫っているとみるべきだろう。
60年余前の敗戦時といまでは、内外の情勢がまるで違うが、日本という国が深刻にあえいでいる点ではよく似ている。そして、政党リーダーは同じように政権の連立問題で苦しんだ。参考になる−−。
戦後初の衆院選が行われたのが1946年4月、結果は自由140、進歩94、社会92、協同14、共産5、諸派38、無所属81となった。
翌5月、自由党総裁の吉田茂を首相に、第1次吉田内閣が成立、自由・進歩の2党連立だった。辛うじて過半数を保っていたが、安定していない。
しかも、飢餓と荒廃のなか、当然、労働団体の攻勢が激しく、社会党と結んで、国会の内外で吉田打倒の運動がまき起こる。革命前夜のような政局不安をしのぐのに、吉田は腐心した。まもなく、社会党の西尾末広書記長のもとに、
「秘密にぜひ会いたい」
と吉田から連絡が入る。温厚な片山哲委員長は政略向きでなく、社会党は西尾が仕切っていた。
最初の吉田・西尾極秘会談がもたれたのは、国会わきの旧ヒルトンホテルの近く、路地の奥にある元海軍関係の寮だった。ここで年末までに3回密談を重ねた。2回までは酒と雑談だけの腹の探り合い、3度目に吉田がはじめて、
「あなたに商工大臣で入閣してほしい。近く労働省と建設省を新設するので、そこにも社会党から閣僚を」
と切り出した。西尾は、
「こういう裏面工作だけでなく、正面玄関から連立の申し込みをやってほしい」
と言って物別れ。年が明けても会談は続いたがまとまらず、第1次連立工作は不発。
その後も工作は3次に及び、すべて失敗する。47年4月の衆院選で社会党は第1党に躍進し、吉田は退陣、片山連立内閣に交代したが、8カ月の短命だった。
西尾は回顧録(「西尾末広の政治覚書」毎日新聞社・68年刊)のなかで、
<一連の連立工作の失敗は、吉田という人の貴族的なワンマンぶりが、結局、社会党の体質と合わなかったからだ。吉田氏は相手の話に耳を傾けない>
と批判した。吉田のほうは、
<政党には根強い伝統の流れがあり、それが表面に出てきて協調、融和を妨げる>(「回想十年」新潮社・57年刊)
と政党論で片づけている。
福田・小沢(一郎・民主党代表)の組み合わせは吉田・西尾と個人の性格も政党も違うが、必要に迫られた点は同じだ。西尾はやはり回顧録で、勝海舟の語録<勢いを見て機を察すべし>を引き合いに、
<勢いが熟していても、機をつかむに敏でなければ、ものごとは成功しない>
とも記した。含蓄がある。(敬称略)=毎週土曜日に掲載
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岩見隆夫のホームページはhttp://mainichi.jp/select/seiji/iwami/
毎日新聞 2007年12月8日 東京朝刊
[新世紀人コメント]
昭和21年から22年にかけての吉田茂首相の社会党に対する連立工作は、結局は失敗しているのだ。
これは、今回の渡辺と中曽根が橋渡し役をしての福田自民党からの小沢民主党に対する連立工作に似てはいる。
しかし、吉田と福田が置かれた立場には共通性がみられるので、今回の連立工作も「連立」と言う形では実現しないのではないか。
弱者に強者が無条件で協力する事は有り得ない。
僅かな利益提供では強者はなびいてはくれない。
弱者は喰われる覚悟をしなければ強者の協力を得る事は出来ない。
小沢民主党は政権を取ったならば、片山社会党のように簡単に倒れることはないだろう。
政党は分裂し再編されてその上で「連立」が行われる可能性が高い。
西尾が引き合いに出した勝海舟の語録は、今の各党の政治家達が向き合わなければならない言葉になっている。
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