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2007年12月08日
「国家はいらない」という本
たとえばこの一年に限ってみてもいい。政府は国民の生活のために一体どんな施策を講じてくれたと言うのか。政権を放り出した安倍前首相が再び議員復活を宣言したという。防衛疑惑は何も明らかにされないまま終わりそうだ。テロ特措法をめぐる大騒動はいつまでたっても進展しない。膨大な時間の無駄だ。本来なら終盤国会の緊張した時期である。それにもかかわらず用もないのに明らかな政争目的で大挙して訪中する民主党の暴挙を誰もおかしいと声をあげない。あれほど改革、改革と叫んでいたのに、行革を進めようとする渡辺行革大臣が孤立している。自民党はおろか、世論もマスコミも渡辺大臣を頑張れと応援する風でもない。
たまたま本屋で目にした「国家はいらない」(洋泉社)という本を買い求めて読了した。そしてこれは今の日本国民にとって必読の書であると思った。日本の混迷の原因は、実は国家の機能不全、あるいは、不適切、不必要な干渉の結果もたらされたものである事がわかるのだ。
著者の蔵研也という40過ぎの学者について私は何も知らない。しかしそこに書かれている内容は、常日頃から私が考えている事を見事に表現してくれている。国家なんかいらないと言う事である。いや、より正確に言えば国家権力を掌握している政府、官僚、与党政治家は不要であるという事である。彼らは国民の労働の上に巣食った不労所得者であるという認識である。
「国家はいらない」と言うと、無政府主義者(アナキスト)のごとく聞こえるかもしれない。しかしそれは違う。蔵研也の言いたい事は、我々一人一人が責任をもって自らの生活を営む、その邪魔をしないでくれ、しかも我々の働いた税金を無駄に使って我々の自由な営みの足を引っ張るな、ということであるのだ。これを究極のリバタリアンと言うらしい。その意味で私はリバタリアンである。
勿論、弱者救済のための政策の必要性は認める。それこそが国のなすべき唯一の責任である。それ以外の事で国がなすべき事はほとんどない、蔵氏の主張はここにある。
彼は面白いエピソードを引用しながら、「公益」という名に借りた国家の無駄遣いと、その国家の無駄遣いに巣食ったおびただしい行政機関、公益法人、独立行政法人の職員たちの無駄を糾弾している。
すなわちこういう事である。街で見かける募金活動の多くは許可を取ることなく活動してその募金を私物化している。いわゆる詐欺である。それにもかかわらず、募金をする人々は多い。この事が示しているのは、人々の心には他人の事を思いやる、あるいは社会全体のために何かをしたい、しなければならないという意識があるのだ。「公益」への希求が誰の心の中にもそれなりにあるのだ。その心があるからこそ、「公益性がある」と言われれば仕方がないと思って協力し、我慢をするのだ。
しかしこの「公益性」という言葉ほど曖昧なものはないと蔵氏は言う。そしてあまりにも多くの既得権益者が自分の都合の良いようにこの「公益」という言葉を持ち出し、結果として既得権も組織も何もない一般国民の生活を搾取する事になっていると蔵氏はいう。その典型が政治家や官僚やそれにつながる多くの公益法人、公益事業、公益法人とそこに働く既得権益者なのである。
この事を更につきつめていけば、お国の為、日本国民の為、という言葉で押しつけられるあらゆる要求が、決して「公益」ではなく、その実は支配者や既得権益者の私益であり、既得権益者による一般国民の搾取であるかもしれないというのだ。
世界有数の公共料金の高さも、地価の高さも、農産物の保護も、税制のゆがみも、すべては「公益」の名の下に行われる政府の不必要な介入の結果もたらされたものであり、結果として一般市民の生活を困窮させている。だから「国家はいらない」と言うのだ。
我々はあまりにも今の日本の仕組みを知らされていない。現実に何が行われているか、それを詳しく、正確に、知れば知るほどこの主張の正しさに気づく、そういう本である。
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