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http://mainichi.jp/select/wadai/news/20071102dde012040007000c.html
特集ワイド:この国はどこへ行こうとしているのか 田英夫さん
<おちおち死んではいられない>
◇戦争、語り継がねば−−前参院議員・84歳・田英夫さん
◇軍隊を持っていれば特攻隊に行くんだよ。議員も分かってない
愛犬が駆けずり回る自宅居間のテーブルに、1日3回分の薬が小分けしてある。つえをついて奥の寝室から右足を引きずりながらゆっくり現れた。05年3月に患った脳内出血の後遺症だ。過去に腎臓病を患い週3回、人工透析を行っている。
「体調が悪くてね、あまり長時間は……」。だが、銀縁眼鏡の奥の目尻が下がった、優しく、きりっとしたまなざし、前を向いた大きな耳。かなりやせたが、表情は現役時代のままだ。
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新聞記者、テレビキャスターを経て6期34年務めた参院議員の間、一貫して「護憲」「反戦平和」を唱え続けた。その原点は旧海軍の特攻隊に所属していたことにある。
1943(昭和18)年12月、大学在学中にいわゆる学徒出陣し、海軍に入った。軍艦の航海士になるため神奈川県横須賀市の航海学校に入学。約3カ月後、少尉に昇進して間もなく、ベニヤ板製のモーターボートに爆弾を積んで自爆攻撃する「震洋(しんよう)特攻隊」に配属された。
戦況が劣勢になった太平洋戦争の終盤、海軍は特殊潜航艇や人間魚雷など、航空機以外の自爆攻撃法を次々と導入し、死を覚悟した若者を最前線へと送り出した。田さんは米軍の本土上陸を阻止する出撃のため、宮崎県で敵艦に体当たりする訓練に励んでいた。先に沖縄に行った仲間は、ほぼ全員が死んだ。
「自分が死ぬその時期がいつ来るのかと苦しかったよ。本土に来れば一番先に出ただろう。『しょうがないから死ぬか』という、変な言い方だけど、それが正直なところだったね」。しかし、出撃することなく8月15日に玉音放送を聴いた。それだけに「戦争放棄」をうたった新しい憲法の条文は衝撃だった。
「特攻隊にいた事実は今の考えと矛盾するんだ。『即、死ぬ』ことだし、戦争に賛成したわけだから。だけど、あのわずかな終戦直後の時間に我々は『この国は二度と戦争をしない』という新憲法を作った。これによって、僕は態度を変えたんだ」
戦後、共同通信社に入社して社会部記者となり、帝銀事件や下山事件などを取材した。一方で、入社3年目には労組書記長となり、組合運動に傾注した。
そのころ東西冷戦の激化で連合国軍総司令部(GHQ)は「共産党員やそのシンパ」とみなしたものを公職から追放する「レッドパージ」を開始。朝鮮戦争ぼっ発直後の50年7月には報道機関に対しても勧告し、田さんはその反対運動に参加したとして左遷された。その後、社会部長などを経て62年、同社に在籍したままTBSのニュースキャスターに抜てき。2年後、TBSに転籍した。
キャスター時代にも反戦にこだわった。ベトナム戦争が激化した67年、米国が進める北爆を北ベトナム側から取材。米国が劣勢の状況を伝えた番組「ハノイ−−田英夫の証言」を放送し、米国に批判的な報道をした。
著書「チャレンジ」(毎日新聞社、79年)などによると、その直後に故田中角栄氏ら当時の自民党郵政族議員数人がTBS社長ら幹部に接触し、故橋本登美三郎氏が「どうして田君をハノイにやったのか、あんな番組をやったら困るじゃないか」と抗議したという。幹部は突っぱねたが、その後の米原子力空母佐世保入港反対運動、成田空港反対闘争などの報道でも圧力が強まり、当時の故福田赳夫自民党幹事長は電波法の再免許申請不許可をちらつかせたという。田さんは当時の社長に「これ以上頑張るとTBSが危ない。残念だが今日で番組を降りてくれ」と告げられた。
「そのころから日々、自民党の圧力との戦いだったね」。今でも悔しそうに振り返る。
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TBSを辞めようかと迷っている時、当時の社会党から立候補の誘いがあり、参院全国区から出馬。71年6月、「ジャーナリストとして政治に参加する」と訴え、トップ当選した。
だが、党改革を進めようとして、マルクス・レーニン主義に縛られた党内の最大派閥、社会主義協会と対立。77年9月には楢崎弥之助氏らとともに離党し、翌年には「社会民主連合」を結成した。すでに冷戦崩壊を予想し、既成のイデオロギーにとらわれない市民が参加できるリベラルな政治の実現を目指した。
「55年体制の資本主義と社会主義の対立では、もはや平和やエネルギー、環境問題は解決できない。新しい政治哲学を作る必要があった」と語る。
しかし、その社民連も志半ばで消え、97年には弱体化した社民党へと移った。
小泉純一郎内閣が発足した直後、01年5月の参院外交防衛委員会。田さんは質疑の代わりに自らを「戦争の語り部」と称して特攻隊の体験を延々と語った。国会議員の大半が戦後世代になり、戦争体験者がいなくなったためだ。国民はもとより、国会議員に対してさえ「戦争」の意味を語り継がなければならない時代になってしまっていた。
さらに、直後の参院選では初めて落選(2年後に繰り上げで復活)。その秋には、世界は9・11同時多発テロという、新しい脅威を迎えた。日本もまた「テロとの戦い」の名の下、米国に同調してイラクにも自衛隊を派遣。時代は反戦とは異なる方向へと進んでいった。
ここ数年の政治情勢も憲法改正に傾いた。改憲反対を唱えるのは、今では少数野党となった社民党と共産党だけ。7選への挑戦も検討した今年7月の選挙だったが、高齢と病気のために引退せざるをえなかった。透析を続けないと動かなくなったわが身が、もどかしい。何もかもが、田さんの志と逆行してゆく。
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今、国会では新テロ対策特別措置法をめぐって、自民党と民主党との攻防が続くが、自衛隊の存在そのものを見直そうという議論は、まったくない。
「さぞ、忸怩(じくじ)たる思いがあるのでは」。そう尋ねると、深く座った椅子からか細い身を乗り出した。
「与党も野党も、大半の人たちには戦争のイメージがわかないんだよ。時代とともに人が変化したんだ。だけど、軍隊を持っていれば、実際に戦争に行きたくなる。どんなに理屈をつけても『国を守る』ことは『死ぬ』ことなんだ。憲法をどう解釈しようと、軍隊を持ってしまうと、みんな最後は特攻隊に行くんだよ。それが戦後世代の国会議員は分かっていない」
田さんは、どこかあきらめたようにそう言って、静かに椅子に体を沈めた。【田中義宏】
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■人物略歴
◇でん・ひでお
1923年、東京生まれ。47年、東大卒後、共同通信社に入社。第1次南極観測隊にも同行。社会部長などを経て62年からTBSキャスター。71年、社会党公認で参院旧全国区で初当選。離党後の78年、社民連を結成。97年社民党に入党し、今年7月、引退した。
毎日新聞 2007年11月2日 東京夕刊
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