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(回答先: ◎ベラスコとは(ゾルゲスパイ事件でないもう1つのスパイ事件)◎ 投稿者 忍 日時 2007 年 11 月 02 日 17:13:13)
広島に落とされた原爆は、ドイツ製かもしれない
★戦勝国が隠している物
●先勝国が伏せた物
第二次大戦直後、ナチス製原爆の消息を追い続けた欧州人等が居た。イタリア人とドイツ人の併せて数人の男達が求めたのは、ナチス独逸が終戦以前に「完成済み」の原爆2個の行方だった。しかし未使用の原爆は発見されず、逆に彼等の何人かは消息を断ち、残った者も身の安全から原爆探しを放棄した。そして何故か彼等の調査記録やメモ類は何一つ残らぬ儘「ナチス製原爆存在説」は其の信憑性を信じた一部の人々の寿命と共に永遠の謎として地下に埋没されてしまった。
此の様に挿話を全く知らずに、私は昨年(昭和60年)の或る時期迄の4年間を「広島原爆ナチス製説」の検証に費やしていた。後日此の挿話を知った私には当然の思いがした。確かに此の主題を追う間に或る筋から私にも幾度かの”忠告”が有ったからである。其れは「米国の威信に関わる」からと云う遠慮からだった様である。それに”解禁済み”の米国政府機密公文書の綴の中で冴えも、糊塗原爆に関わった組織、スパイ等の記録は非公開又は削除の対象(如何に誤魔化して、2億人の虐殺を実行したユダヤ共産主義者の悪を無二しようとしているのか。自由主義国は其れを揺るそうとしているのです!忍)に為っている部分が多い事からも頷けた。
無論一般公開済みの第二次大戦時の「機密文書」は膨大にある。史上に残る大作戦、秘密諜報組織の全貌、或いは国家指導者等の回想録(メモワール)や原爆計画・投下の経緯等である。だが其れ等公開済み文書に沿って筋道を立てて追う過程の文書内でさえ「以下は特秘につき削除」の頁が現れたり、一旦公開した文書が後年に再度非公開化されてしまったりで「秘匿範囲」の方が遥かに大きいのである。国家の安全と威信を刺激する要素は”時間を越えて”なお、絶対排除の対象に為り続ける現実を私は4年間見続けた。
しかし其れにしても、何故40年(今現在、55年)も前の旧式核兵器の経緯が、未だに公式上機密範囲内に閉じ込められ未解禁で有り続けるのか。今や世界の政治、軍事体制は固定化して揺るぎ無い。況して兵器開発は日進月歩で、最早旧式原爆等出る幕も無いと云うのに。不名誉な怪説、奇説の揣摩憶測を世間に垂れ流されても尚、原爆の真相を隠し続ける其の価値とは何なのか。
”其れはユダヤだ、ユダヤに聞け”
斯う呟いて慨嘆する人物と私が出会ったのは昭和57(1982)年で、場所はスペイン。ユダヤ人に育てられ、後に枢軸国側で大殊勲を挙げ続けた元大物スパイ、ギレルモ。諜報者番号(コード番号)V312。本名アンヘル・A・ベラスコ氏が其の人物であった。
●知り過ぎた男ベラスコ
成る程彼は「知り過ぎた男」だった。彼は昭和45(1970)年代後半に為っても、英米両国への入国は御法度の儘だった。しかも昭和62(1987)年でさえ、ワシントンの米国立公文書館のベラスコ氏関係の機密資料は一部公開を許可されたものの、其れも氷山の一角に過ぎず肝心の部分は廃棄処分又は非公開扱いに成っていた。氏が先勝国側から煩わしい人物と見做される根拠は、私がワシントン、ロンドン以外の行脚で集めた資料の随所からも窺えた。以後、私は「知り過ぎた男」と「隠し続ける当局」の間で右往左往を繰り返し、迷路に入り込んだ。
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●嘘と云う名の護衛(ボディガード)
原爆の謎解きが、戦争の裏面に蠢いたユダヤの業を明らかにし、先勝国が古証文を隠さざるを得ない事情をも示唆してくれたと私は思う。例えば欧州の戦史研究家、報道記者等が驚嘆するベラスコ氏の生存、詰まり裏を知る厄介な人物が未だに生き続けている、否助けられている摩訶不思議さである。彼はイタリア人でも独逸人でも日本人でも無い。原爆の経緯を公言しても安泰の人で居られるのである。米国も又ベラスコ氏同様の国家と民族の矛盾を抱いた儘存在している。
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間違いなく彼が存命中はワシントンもベラスコ氏のファイルを非公開にし続けるだろう。詰まり戦勝国による「保護」(監視!忍)が続くと云う意味である。今日の社会を築き上げた国家、人物の歴史を私達は学校の教科書から学んで来た。但しユダヤ民族の果たした(為された!忍)役割(悪行!忍)を一体どれ程学んだろうか。其の答は近い将来に為って、私達に学ぶべき事と知らさず置くべき事を決めた人々が存在したのを知る事で得られるだろう。(其の意味で、!忍)世界に君臨する経済大国日本が釈迦為らぬ他民族(悪魔ユダヤ共産主義者!忍)の手の上の存在である現実も早めに学ねばなるまい。其れにしてもチャーチルの言葉
”真実は掛け替え無いもの、だからこそ真実には「嘘」と云う名
の護衛が必要なのだ”
とは、何とも不死身(タフ)な台詞(科白、セリフ)では無かろうか!
歴史読本『特集世界 謎のユダヤ人』より、括弧の中の言葉は「忍」の考えである。
★ドイツの原子爆弾について
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「ナチス原爆の広島投下」、この発言はかってベラスコの口から唐突に飛び出したものだった。途
方もない話だったが、迷路に入りこむ話ではなかった。発言の奥から戦争の素晴らしきものが浮か
んできたからだ。
発言は1983年秋、ベラスコ家の居間でだった。カナリス長官から直接聞いた話だが、詳細は知ら
ないとベラスコ。後年にシューレンベルグからも聞いたという。ベラスコは二人の話を信じていた。
尻切れトンボに終わらせない為に、私は手がかりの追加入手をベラスコに依頼した。
ベラスコからの報告書には、こう書いてあった。
○[ドイツ製原子爆弾に関するノート]
貴殿の参考になる材料は、私がすでに述べて、書き記したこと、以上につけ加えられるべき材料
は実際にはわずかしかない。ドイツの原爆はペーネミュンデ(Penemundeバルト海沿岸の
都市で、Vロケットを開発製造した)で製造を完了したものの、イタリア人1名を含む製造担当者
は、みずからも予想しなかった成果を達成したようだ。
予想しなかった理由のなかでも、とりわけ、のちに日本における爆発というかたちで試されるこ
とになるほどの威力を原子爆弾が有していたことがあげられる。
原爆のエレメント、すなわち爆弾の個々の部分と素材は、チェコのボヘミア地方の原生林に移送
されて組み立てられ、1942年4月21日に段階的実験を大成功させた。この実験グループの統
括責任者はハベルムール(Habermuhl)氏で、彼は当時最も革新的な兵器の開発研究者ら
で構成されたグループの統括責任者だった。
ペーネミュンデ市で2個の原爆は最終的完成にいたり、その後ベルギーのリエハ(Lieja)
付近に移送保管され、ゾンデルブーロー第13号(Sonder Buro Number 13
注参照)と称される極秘の爆撃機でロンドン、リバプールの上空で投下する予定だったが至らな
かった。未投下の理由は、ヒトラーが「死体はもうご免だ」を中止を命じたためだった。
ベルギーにおいてアプヴェールとロンメル(Ronmmel)関係の消息筋の情報を把握してい
たヴェールマハト(Werhmacht)の職員を通じて得た情報によれば、二個の原爆は194
4年11月にアイゼンハワーに渡されたとのことだった。シューレンベルグ指揮下のV1−C−1
3のエージェントがこの裏切りをキャッチし、その事実は総統に伝えられ、「砂漠の狐」(ロンメ
ル)を処置するよう総統から命令が下った。しかし時はすでに遅く、対応策は得られなかった。そ
して3ヶ月後、米国側で関連調査研究が終わり、原爆はその後日本投下に使用されたと推測する。
戦後、ドイツ原爆のいきさつを知る何人かのドイツ人が2個完成までの責任者の証言や、ベルギー
移送後の極秘の事実を記録すべく調査に着手したものの、CIAはそれらを迅速な方法で妨害し、
秘密は消滅したと見られている。不幸なことに、統括責任者ハベルムール氏はソビエト軍によって
ブレスラウのミテ工場に留置されたのち、モスクワに移送され消息不明になっている。
[注]ゾンデルブーローのウラヌス(Uranus)の暗号名はルフトワッヘ(ドイツ空軍)の極
秘任務(サービス)だった。米国のNASAのモデルになったサービスで、年月をこえてなお現在
もNASAに属している。」
此の「原爆ノート」はいわばイメージの一つでしかない。しかし高橋五郎氏にはこれで充分だっ
た。
まず目に付いたのは、三月という時期。と云うのは、1944年の11月に米軍に渡されたとす
る原爆が、その三ヶ月後に米国内で点検調査を終えたという文面から見ても、その時期は1945
年の2、3月に該当する。
それに加えて、ベラスコがベルリンの地下官邸に呼込まれたのも同じ1945年の三月である。
更に偶然が重なる。ベラスコが地下官邸に入ったその数日後に、ヒトラーはベラスコを執務室に
呼んで、米国から入電したばかりの原爆情報発信人の信用度を尋ねている。その電文には、米国が
即使用可能な原爆を用意したとあったのである。ヒトラーはその原爆情報の確認に異様な意欲を示
して、即座に真偽を確かめようとした。そして、戦意も欠けて緊急調査を躊躇うベラスコにヒトラ
ーは罵倒した。
だが、気を取直したヒトラーは、そこで「米国の友人達に聞いてみよう」という意味不明の言葉
を口にして諦めの表情を見せた。それらの時期が3月で一致しているではないか。
では、その三月頃の米国原爆開発状況はどうだったのか。
公式発表では、最初の原爆実験日は1945年7月16日の「トリニティ」実験とされている。
その7月を目指した2、3月頃の様子は、牧草地帯の道路を爆弾用の純度をもつウラン235を積
んだトラックが漸く走り始めたとする記録から窺う他ない。テネシー州オークリッジから西海岸の
ニューメキシコ州ロス・アラモスへの部品類の長距離運搬が始っている。それらの部品が完全な爆
弾となって爆発実験を得ない限りは、使用型爆弾は得られない。従って、三月は米国が自らの原爆
をもってはいなかった時期といえる。従って、1945年三月に米国からベルリンのヒトラーに入
電した原爆情報は誤認と云う事になる。 では、ナチの情報員が伝えてきた「即使用可能な米国の
原爆」とは一体何なのか。
(そのアメリカ原爆作成が、国際連合の地下に埋め込んだと思います。そうすれば、ナチス製の原
爆は日本に落とされ、広島に落としたという原爆は、国際連合の地下に埋め込んだと考える事がで
きる!忍)
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「ナチス原爆完成説」は、ベラスコがアプヴェール(独逸国防軍情報部)長官のカナリスとSS情
報部(RSHA)長官のシューレンベルグから直接耳打ちされた情報だった。その情報によれば、
ナチス原爆はロンメル将軍麾下のシュバイデル参謀長が保管し、後に、秘密工作員の手で米国側
(アイゼンハワー)に渡されたという。ベラスコはその情報を根拠に、米国原爆の完成日と日本投
下日までの微妙なズレをとらえて、日本投下原爆はナチス製だった疑いがあると私に語っていた。
ならばそれをなぜ使わなかったのだろうか(それは、当時ナチスが原爆を作ったのを、昭和天皇陛
下に流れ、それを基に日本でも作ろうと考えたが、昭和天皇陛下が、原爆により戦争が勝ってもそ
れは日本国にとって為に良くない。沢山の死人はうれしくないという趣旨で原爆を作らなかった。
それが独逸参謀本部に流れたと思う。それによりヒトラも原爆を落とす事を同じ趣旨で中止した思
う。しかしその原爆が、広島に落とされたならば、歴史の皮肉であり、日本国家の意義が全世界に
通じない一つの現象だと思う!忍)
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●ドイツ原子爆弾の存在は、ベルリンの枢軸国外交官は知っていた
ヒトラーは原爆を持っていたーーペラスコのこんな突飛な発言を裏付ける人物と出会った。その
中国人亡命者とマドリードで会ったのは、ベラスコの発言から7年も後の1991年の事だった。汪
(仮名)と名乗るその人物は、脳溢血で倒れて麻痺した半身をいたわりながら、身寄りもなく一人
で暮らしていた。アパートを訪ねてドアの呼び鈴を鳴らすと、がっしりして精悍な目付きの女性が
現れた。
歩行が難しいので代わって彼女にドアを開けてもらった、と汪は詫びながら、自分は元北京政府
の駐ベルリン代表だと自己紹介した。汪の舌は相当に麻痺しており、言葉が聞き取りにくかった。
それを察したのか、汪はフランス語で話してもよいと気を配った。中国人特有の甲高い声質だった。
汪は玄関に出た女性は、通いのメイドだと紹介した。
汪は、不自由な身体を杖で支えながら、別室からアルバムを抱えてきて、自分の過去を見せてく
れた。幼少期から第二次世界大戦中までの写真が混じっていた。
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一族は親日家だったが故に、毛沢東の共産軍に全員処刑されたといった。汪は父親が北京政府の
重要な人物で、自分は少年時代からフランスに疎開させられ、そこで教育を受けて終戦まで殆ど欧
州に住み続け、欧州に居た為に、こうして生き延びた。終戦まで北京政府の駐ベルリン総領事を勤
めたといった。
ベルリン駐在日本大使の大島浩とも駐スペイン須磨公使とも親しくしていたと言いながら、汪は
アルバムの中の二人の写真を探し始めた。
兄は駐スペイン大使のまま終戦を迎えたが、マドリッドの路上でフィリピン人青年に殺害された。
それで最後の身内を失ったのだ、と言った。
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その用談が終わってから、ふとナチス原爆を思い出して、汪は問い掛けて見た。汪はあっさりと
原爆の存在を肯定した。
ベルリン陥落直前にヒトラーがナチス原爆を所持していたという噂があるが?
「スィー、スィー」
汪は表情も変えずに質問を認めた。
ならば、その原爆を独逸はなぜ使わなかったのだろうか。
「当時のベルリンの空気は暗黒で、誰もが浮き足立っていて、それ所ではなかった
のだろう」
と言った。
それは、ヒトラーが原爆使用を云々する状態ではなかったという意味か。
「その通りだと思う」、と汪。
では、あなたは誰からナチス製原爆の存在を聞いたのか。
「ベルリンの枢軸国外交官なら誰でも知っていたのではなかろうか」
汪は当然のように、そう答えた。
●ドイツ原爆管理者シュバイデルが初代NATO事務総長
「原爆ノート」に拠れば、ベルギーに保管中の原爆の管理責任者はロンメル将軍で、彼がア
イゼンハワー連合軍最高司令長官に原爆を渡した、とある。その裏切り行為が発覚してロンメ
ルは処罰されたという。これまで歴史家が伝えるロンメル自殺の原因は、ヒトラー暗殺未遂事
件の過度でとされているが、ナチス原爆横流しの罪だったとはされていない。スパイの「ノー
ト」が歴史学者に無視される典型の例である。が、その分だけ真実も又扉の外に残る。
ここで、人間の意思が働いた幾つかの事例を確かめてみよう。
原爆保管責任者はロンメルの忠実な部下のシュバイデル参謀長だったろう。ロンメルが直接原爆
を管理する事はありえないからである。管理者について、実は摩訶不思議な事がある。
大戦終了後に設立されたNATO(北大西洋条約機講)の初代事務総長が、何と敗戦国ドイツ
の西部方面司令官ロンメルの参謀長シュバイデルなのである。元ナチス原爆の管理担当者が、戦
争終了直後に、それまでの敵軍つまり連合軍側の形を変えた総合責任者になれたのは何故だろう。
シュバイデルは連合軍にどんな貢献をしたのだろうか。
ノーベル賞もそうだが、ユダヤ国際資本家らは報償行為が事の他好みのようである。
例えば大戦後、米国政府はドイツ高等弁務官の肩書をユダヤ系資本家グループの弁護士に与え
ている。その男ジョン・マックロイ(ケネディ政権時、軍縮局長)は、クラヴァス&ヘンダーソ
ン商会やユダヤ系銀行のクーン-ロエブ商会等の為に献身的に働いて来た人物である。しかもマッ
クロイを補佐する高等弁務官捕のブッテンワイザーなる人物は、クーン-ロエブ商会の商売仲間。
参考までいうと、日本が日露戦争の戦費を調達した相手がクーン-ロエブ商会だったのはよく知ら
れている。
例の紙幣の図柄にも見られる様に、クーン-ロエブ商会に象徴される当時のユダヤ系国際金融家
組織の実力は桁外れなのであった。
報償の対象者は民間人に限らない。軍人の「天下り先」もちゃんと用意されている。ドイツ占領
を指揮したクレイ将軍は、ユダヤ系銀行のリーマン・コーポレーションの大幹部の地位に就いた。
その他にも事例は山ほどあって、ユダヤの報償人事は枚挙に暇がない。
ナチス原爆の管理人シュバイデルの天下り先NATOを創設支援したのはドイツ・マーシャル財
団、この財団の現在のメンバー組織は、ローマクラブ、チェース・マンハッタン銀行、マニュファ
クチャーズ・ハノーバー財団、フォード財団、社会主義インターナショナル、KGB、全米自動車
労働組合、世界野生生物基金、CBSテレビ、アスペン研究所、カーネギー財団、MIT等で、こ
れらの組織リーダーや幹部が参加し運営されている。NATOは創設以来、この様な錚々たる世界
組織(これを見れば判る様に、ソ連のKGBが繋がっている事を忘れてはならない。要するに、自
国民を強制収容所を入れて、虐待を考えているグループでもある!忍)と人物らが連なって事業を
遂行している。
NATOの創設者はヨセフ・レッツィンガーなるイエズス会聖職者でフリーメーソンの第33階
級の人物である。この人物と関係して支援する人々と組織のほぼ全てが、世界のユダヤ系資本家達
なのである。
繰り返すが、国際ビジネスマン組織から「報償と庇護」を受けたナチス原爆最後の管理者シュバ
イデルは、戦争中に一体どんな手柄を立てたというのだろうか。
又又余談になるが、最近奇妙な話題が新聞で紹介された。それはロンメル将軍の偉大なイメージ
は作り物で真っ赤な嘘だった事を、欧米の作家が発見したとする小さな記事だった。記事の内容が
事実とすれば、この50年間、ロンメル美談を実しやかに伝えてきた人間か、或いはロンメルに関
する隠し事が不要になった組織の何れかが、方針を変更したのかもしれない。
例えばの話だが、シュバイデルは原爆をどうやってアイゼンハワーに渡したのだろうか。ベラス
コの「ノート」にはなかった別情報によれば、2個の原爆はイスラエル独立運動家が仲介して英国
へ持ち出した可能性があるという。そしてこのイスラエル独立運動家を支援したのが、英国特殊部
隊(SOE)だったという。
大戦中に民間人と軍人が共同で作戦を実行した例は山ほどある。例えば、1944年のノルウ
ェー人の抵抗運動家らと共同で作戦を成功させた。この話はドイツが原爆開発の夢を断たれた作戦
として、戦後、本や映画でよく知られている。
ナチス原爆の英国への極秘搬入作戦が事実とすれば、チャーチルをして神に祈らせた事だろう。
というのは、チャーチルはヒトラーを最初、「ヨーロッパのジョージ・ワシントン」と呼んで絶賛
した男だった。なのに、ニューヨークで自動車事故にあってからは、回れ右をしてヒトラー罵倒を
始めた、つまり「賢くなった」男でもある。従って、戦争終結間際にヒトラーの原爆を極秘に運び
出す為に、イスラエル独立運動家に自国の特殊部隊員を協力させる動機は充分にあった。つまり、
シュバイデルとアイデンハワーの間にはプロとアマの「仲介人」がいたとしても不思議ではない。
以上
「超スパイベラスコーー今世紀最大の”生証人”が歴史の常識を覆す」 高橋五郎 徳間書店
より
http://www.k3.dion.ne.jp/~syouhou/hirosima_gennbaku1.htm
広島に落とされた原爆の意味
米国の原爆最初投下目標
1943年5月5日、原爆投下目標地点を決定する米国政府の暫定委員会は、自国の原爆が未だ未完成でしかもヒトラー・ドイツと戦っているにも関わらず、なぜか早々と最初の原爆投下目標地点を決定した。戦後になってその投下目標地点名を記入した議事録が、米国国立公文書館で戦史公開資料として一般公開された。
それによると、最初の原爆投下目標地点は太平洋のトラック諸島、つまり日本軍と記されていた。
奇妙な決定である。この決定に、当時の原爆開発者から怒りの声が上がるという経緯火があった。
なぜ日本軍に対して原爆を使うのか?というわけである。
独逸から命がけで米国に駆けつけて原爆開発に粉骨砕身したのは、ヒトラーのナチズムを潰して、1日も早く祖国欧州の危機を救う為だった。なのにこの決定は何事か。原爆開発に専念してきた物理学者らは、政府に断固抗議した。だが政府は、抗議を無視した。
戦後、米国政府はこの投下目標地点決定議事録を一般公開した。戦史研究家らはその公開資料から、原爆の最初の投下目標先をトラック諸島の日本軍に設定していた事実と学者らの非難事実をあわせて知った。
奇妙な出来事は更に続く。
何と米国政府は、一旦公開したその資料を回収し、再び非公開にしてしまったのである。無論現在もその状態が続いている。これはどうしたわけか?
「回収は当然だ」
ベラスコの感想はただそれだけだった。
広島に落とした原爆搭載機「エノーラ・ゲイ」は「天皇を抹殺せよ」と意味である
日本の原爆投下は、1944年9月18日、ルーズベルト大統領の私邸でルーズベルトとチャーチルの間で決定されている。チャーチルが反対したかどうかはつまびらかではないが、兎に角ルーズベルトが最終決断している。戦後しばしば日本への原爆投下について、これはソ連の進出に対する牽制であるといった理由付けが行われているが、これは全くの嘘である。
その証拠を示そう。広島へ原爆を投下したB29の腹に書かれてあった書かれてあった余り見慣れぬ二語がある。Enola Gayがそれである。
この意味は殆ど日本では知られていないようである。それはイディッシュ語である。イディッシュ語とは中東欧のユダヤ人が使っていた言葉で、現在はニューヨークのユダヤ人の間で多少使われている程度であるが、第2次世界大戦前までは中東欧で非常によく使われていた言語で、ヘブライ語、ロシア語、ドイツ語の混血語といえよう。
さて「Enola Gay」の意味であるが、「天皇を屠れ」がそれである。ユダヤ勢力が君主制を国家破壊の為非常に重要な第1段階と考えている事は再三触れたが、日本の「天皇制」は第1次大戦でロシア、独逸、オーストリー・ハンガリーの三大王冠を射落した後残るのは日本の「天皇制」であった事も触れたが、いよいよ最期の目的を達しようとするわけである。
戦局の行方は問題ではなかった。君主制廃止への最後の攻撃である。但し、これは天皇直接宮城攻撃によって抹殺するという意味では勿論ないが、いずれにせよ、これがユダヤ勢力の筋書通り運ばれたという事実はこれで証明される。
「原爆投下を反省すべきはアメリカ(国際連合!忍)だ」(ガサリー元外相)
1952年(昭和27年)11月、広島を訪れた国連国際法委員会委員で、元東京裁判判事のラダビノッド・パール博士はこの文面を眼にして、
「ここに祭ってあるのは原爆犠牲者の霊であり、原爆を落としたのは日本人
でない事は明白である。落とした物の手は未だ清められていない。原爆投下
者にこそ罪悪を知らすべきだ」
と批判し、その直後の世界連邦亜細亜会議で次の様に述べた。
「広島 長崎に原爆を投下した時、どのような口実がなされたか。日本として
投下される何の理由があったか。当時既に日本はソ連を通じて降伏の用意をし
ていた。連合軍は日本の敗北を知っていた。それにも関わらず、この残虐な兵
器を日本に投下した。しかも実験として広島と長崎に投下したのである(これ
は表向きの理由で、本当は日本を完璧に潰す事を目的した!忍)。この惨劇に
ついていろいろ考えなければならないが、しかし彼らの口から懺悔の言葉を聞
いた事はない(公式の発表ではむしろ誇りを持って話をしている!忍)。彼ら
は口実として、もし広島に原爆を投下せねば多数の連合軍の兵隊が死ぬ事を強
調した。原爆投下は日本の男女の別、戦闘員、非戦闘員の区別なく無差別に殺
す事である。一体、白人の兵隊の生命を助ける為に数十万の非戦闘員が虐殺さ
れる事はどういう事なのか。彼らが尤らしい口実を作るのは、このような説明
で満足する人々があるからである。」(加藤典洋「アメリカの影」p323)
このパール発言に対して、同年11月10日、原爆慰霊碑碑文を作った雑駕忠義広島大学教授は、次のような抗議文(?)を出した。
「広島市民であると共に世界市民である我々が過ち(この過ちの理由が分か
らない。そもそも大東亜戦争の原因を作ったのは左翼が行っている世界市民運
動を通じて革命を起そうとしたからである。その自衛の為に戦争を行ったので
ある!忍)を繰り返さないと霊前に誓う(左翼の世界市民運動の過ちを繰り返
さない為になら意味が通じる!忍)ーーこれは全人類の過去、現在、未来に通
じる広島市民の感情であり、良心の叫びである。”広島市民が過ちを繰り返さ
ぬといっても外国人から落とされた爆弾ではないか。だから繰り返さぬではな
く、繰り返させぬであり、広島市民の過ちではない”とは世界市民に通じない
言葉だ。そんなせせこましい立場に立つ時は過ちは繰り返さぬ事は不可能にな
り霊前でものをいう資格はない」(『ヒロシマの記録ー年表・資料編』/『ア
メリカの影』p323)
この碑文作成者は、日本人としての立場から連合国の戦争責任を追及するよりも、連合国=国連=国際社会=世界市民という「立場」に立つ事で、結果的に「過ちを犯した日本が悪かったから原爆も投下されたのだ」という連合国=東京裁判の「論理」を受け入れる事を選択したわけである。
しかし、パール判事のような「亜細亜」の立場から見れば、連合国=国連=国際社会=世界市民という「立場」はあくまで亜細亜・アフリカへの侵略を正当化してきた欧米諸国の「立場」に過ぎない。「日本が過ちを犯したから原爆を投下されたのだ」という「アメリカの口実」を繰り返し、自らを責めるだけの「反戦平和運動」こそ、亜細亜にとっては「せせこましい」ものと映ったに違いない。
東南アジア諸国連合(ASEAN)を結成し、アジアの平和確立に寄与した功績で国連ハマーショルド賞を受賞したマレーシアのタンスリー・ガザリー・シャフェー元外務大臣も平成5年(1993)11月に来日した際、この原爆慰霊碑について次のように語っている。
「以前、広島を訪れた時、小学校の先生が原爆慰霊碑の前で子供達に『日本は昔
悪い事をした。これはその記念碑だ』と教えていたのを見ました。それで広島市
長に『原爆慰霊碑と原爆資料館は日本人が見るべきではありません。ワシントン
に持っていき、アメリカ人に見せて、アメリカ人に反省させるべきではないでし
ょうか。原爆資料館がここにあるのは不適切だと思います』と言った所、広島市
長達は真っ青になってしまったが、やがて彼らも私の意見に賛同してくれました。
それにしても日本人はなぜアメリカに対して異様なほど怯えているのか。敗戦
国心理から早く脱却するべきではないだろうか」(『祖国と青年』平成6年1月号)
まず何よりも原爆を投下したアメリカの責任を追及すべきであった戦後の我が国の平和運動は、日本人としての立場も、パール博士やガザリー元外相のような「アジアの視点」も見失ったまま、連合国側が東京裁判で掲げた「正義」に擦り寄ってしまった。「世界市民と自称しつつも、アメリカに対して今なお異様に怯えている敗戦国民」という日本人の哀れな姿は、こうして生み出された。
そして、今なお我が国の反戦平和運動家やマスコミ、社民党(旧社会党)らは自国の戦争責任ばかりを執拗に追及する事で、東京裁判の背景にある「再び日本を米国の脅威たらしめない事」という占領政策の究極目的の達成を補完し続けているのである。
広島に投下された原爆はナチス製だった?
http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/20050407/
ここに紹介された「iNRI」も古代ユダヤ・フリーメーソンの名前である事を忘れないで欲しい
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