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先日TVで、ミャンマー軍の銃弾に倒れた長井健二さんが生前に撮影していた映像を見ました。それは2004年の中越地震でボランティア活動をしていたアハマディア・ムスリム協会の方々を撮影していたもので、長井さんは日本は欧米からの情報だけでイスラムの本当の姿がなかなか伝わらない、ぜひ知らせるべきだと献身的な彼らの姿を寝食をともにしながらビデオで撮影していました。
その映像を見て関岡英之氏の著書『なんじ自身のために泣け』の一節を思い出しました。
「墓に行くまでそのままか」
これはコーランの一節だそうです。この著書は関岡さんがアジア・中東を旅したときの所感が書かれたものです。そういえば佐藤優氏が関岡氏のことを「アジア主義」と言っていたそうですが、その一片がわかる一冊です。
その一部分を引用させていただきます。
『なんじ自身のために泣け』 (引用開始)
p151
とはいえ、イスラームが現代において、かくも多くの人々を惹きつけていることの根本的な理由は、依然として推し量り難い。イスラームの信仰の唯一の拠り所、それはコーラン(原語はクルアーン)という千年以上前に書かれた一冊の書物である。いったいどんなことが書かれているのか。
私は岩波文庫の井筒俊彦訳『コーラン』をひもといてみた。しかしこれがまたきわめて不可思議な書物なのだ。まず構成からして私の理解を超えている。何らかのストーリーが展開されるわけではなく、アッラーがムハンマドを通じて語ったアフォリズムが断片的に羅列されているだけなのである。それが時系列順とかカテゴリー別とか何らかの論理的必然に従って配列されているのならまだわかるのだが、この書物は違う。一章あたりの行数が長いものからだんだん短いものへと、物理的分量の順に並べられているのである。従って、章と章の間には論理的脈絡はない。そのうえ内容的にはかなり重複や繰り返しが多い。
通読するには誠に骨が折れるが、全体を通じて繰り返し強調されているテーマは、一神教の徹底的強調と、最後の審判への警告、という二点に尽きる。そこには現世利益の甘い言葉は一言もない。コーランは、全体の構成こそわかりにくいが、主義主張は誠にシンプル、といえるかもしれない。
しかるに。アッラーはムハンマドに対し二十二年間にわたって言葉を与え続けたが、最も初期の頃の予言には、「そもなんぞやとはなんで知る」という独特の表現が繰り返し出てくる。
「定めの夜とはそもなんぞやとなんで知る」
「絶対とはなんぞやとはなんで知る」
という具合に。井筒俊彦の訳注によれば、「その意味は深遠で、とうていお前にはわかるまい」という意味だそうである。
イスラームとは、そもなんぞやとなんで知る。
『メッカへの道』の著書レオポルド・ワイスは、当初イスラームに改宗するつもりはまったくなかったという。知的な訓練を受けた人間として、既成宗教に単純に帰依することに対する抵抗感を、なかなか捨てきれなかったのだ。
しかしアラビアから帰国後、とあるベルリンの地下鉄に乗っていて、乗り合わせた多くの乗客たちの不幸な顔に突然気づく。「今日は昨日より、明日は今日より、もっと、もっと、より多く、より高く……」という、声なき叫びを聴く。
ワイスはコーランの中に次なる章句を見つけたとき、ついにイスラームへの改宗を決意する。コーランにはこう書かれていた。
「徒な張り合いごとにうつつをぬかすお前たち、
墓に行くまでそのままか」(井筒俊彦訳)
(引用ここまで)
「大和ごころ。ときどきその他なり」
http://ameblo.jp/shionos/entry-10052836182.html
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