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2007年10月06日
政治と文学
昨日は一日中テレビの国会中継を見ていた。今に始まった事ではないが、そのあまりの不毛さに深いため息が出た。代表質問などというものは八百長だ。質問するほうも答える方も、こんなやり取りで生産的なものは何も生まれない事を知っている。質問を事前に知らせ、その答えを官僚が書いて総理や大臣が読み上げる。そこからは何一つ新しいものは生まれてこない。こんな国会審議がこれからも続けられていくのだ。それにもかかわらず、連日のメディアでは政治ニュースが真顔で取り上げる。政治番組が花盛りである。やれ解散・総選挙だ、やれ年金問題だ、テロ特措法問題だ、などと、あたかもそれがすべてであるかのように報道される。
これは私の勝手な意見であるが、政治が我々の生活にあまりにも身近になり過ぎたために、私たちの生活にロマンがなくなってしまったのではないかと思う。人々が小説を読まなくなったかわりに実用書やノウハウ物ばかり読むようになった。その事と誰もが政治の話をするようになった事とは、おそらく相関関係があると思う。
ついこの間までは、政治は政治家たちが独占して行う非日常的なものであった。権力欲にまみれたおやじたちが、タバコをくゆらし、料亭政治や派閥政治を繰り返して、我々国民の手の届かないところでこの国のあり方を決めていく、そういう時代が確かにあった。
そんな政治には勿論弊害はあっただろう。しかし政治家は偉い人たちであり、利権まみれの悪も行うが、同時に国家大計も考える。そういう政治家を信用し、政治を任せる、一般市民は与えられた人生を、政治とは無関係なところで一生懸命生きる、そういう時代があったと思う。
そんな政治や我々の暮らしを小泉元総理が一変させた。一国会議員にとどまっているような政治家が総理になってしまった。そこから日本の政治が変わった。難しい政策については何も語らず、政治家がタレントよろしくパフォーマンスに明け暮れるようになった。国民はそれを喜び、政治が身近になったと勘違いした。政治を語ることが何か高尚な事のように錯覚するようになった。テレビはこぞって政治番組を増やし、タレントや若い女子アナが老練の政治家に平然と議論を挑むようになった。
政治が身近になったのはいい。政治家が世論の動向を恐れ、国民が主役になったのはいい。しかし同時に我々は人生における重要なものを失いつつあるのではないか。
9月30日の日経新聞文化欄に詩人の荒川洋治という人が、「すぐれた文学作品は想像と思考の力を授けてくれる。人の心をつくる。人間の現実に、働きかける・・・」と書いていた。そして、「今は文学をだいじにしなくなった。本らしい本を読む人も少ない。人があつまると、何人かは文学談義をしたものだが、今は見かけない・・・」と続けていた。私が考えていた事と気脈を通じる文章であると思って読んだ。
文学と言えば、10月6日の朝日新聞土曜紙面(BE ON SATURDAY)に、泉鏡花と芸者桃太郎の「恩師に背いた恋の成り行き」の話が載っていた。鏡花の師である尾崎紅葉は、一番弟子の泉鏡花に名家から妻を迎えさせようと考えていたらしい。ところが鏡花は神楽坂の芸者であった桃太郎に入れあげ、紅葉を激怒させる。その事を、朝日新聞の穴吹史士記者はこう書いていた。
「・・・女関係に奔放で、自らも神楽坂の芸者を愛人にしていた紅葉が、鏡花と桃太郎の仲を血相変えてまで裂こうとした真意は、よくわからない。遊びと実生活、恋愛と結婚の区別をつけられず、打算を捨てて芸者ふぜいに打ち込む弟子の姿に、危うさを見たのかもしれない・・・桃太郎は、お座敷でも隅の方にひっそり座って、目立たない芸者だったという。父が早く死ぬ。母は芸者に出て(やがて)商人の囲われ者になった。その商人が破産。桃太郎は芸者屋に売られ、母は行方不明に。5歳の時だった。
自分に数倍する不幸な境遇に、鏡花は激しく同情し、けなげに生きる姿に共感した。師にどう責められようと、この女を見捨てるわけにはいかないと決めたらしい。結婚を世俗的な利益の道具にもしかねない尾崎紅葉の生き方への、最初で最後の反抗であった・・・その後二人は仲むつまじく暮らし、桃太郎は鏡花の死を見取って、戦後まで生き、享年68歳で没した」
「高野聖」、「婦系図」の世界である。政治の話などどうでもいいように思えてくる。
http://www.amakiblog.com/archives/2007/10/06/#000559
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