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東京は、本当に晩夏からいきなり晩秋になったようである。自動販売機にタバコを買いに出かけた。長袖のワイシャツだけで上着を羽織らなかったので、ぶるっとするような肌寒い朝であった。しかし、これはちょっとした異変のようであり、間もなく秋らしい快適な季節になると気象情報は伝えている。だから心配ない。困ったのは国会である。
「ねじれ国会」という言葉を私たちは目にしたり、耳にする。与野党の議席が衆議院と参議院で大きく異なっている現在の状態を表現する言葉である。衆議院と参議院の選挙の仕組みが異なるので、同時に選挙をしても与野党の議席比がまったく同じになるとは限らない。だから私は衆参ダブル選挙を好ましいことと考えていない。やむを得ず衆参ダブル選挙になることは激動の政治の中では時にはあるが、少なくとも企んでやるべきことではない。1980年(昭和55年)の衆参ダブル選挙は前者であり、1986年 (昭和61年)のそれは中曽根首相が謀りに謀って行ったものである。
憲法は衆議院と参議院で示される意思(議決) を国民の意思としている。本来ならばひとつしかない国民の意思が異なってしまうのは、選挙の仕組みと時期が違うために起こることである。従って、衆議院と参議院の意思とは、その選挙が行われた時期における国民の意思ということになる。現在の衆議院の意思は、2005年(平成17年)の秋に行われた選挙で示された国民の意思である。参議院の意思は、2004年(平成16年)と今年の夏に行われた参議院選挙で示された国民の意思である。私たちの考えが時期によって異なるように、国民の意思も時期によって異なるのはあり得ることなのである。
憲法は衆議院の議席によって示される意思と参議院の議席によって示される意思を同等のものとしている。どちらが正しいなどといっていない。ただ衆議院の議決と参議院の議決が異なった場合、国政の運営上現実問題として困ることもあるので、予算と条約の締結の承認は衆議院の議決が国会の議決となるようにしている(憲法60、61条)。首相指名選挙も同じである(憲法67条)。憲法59条の参議院で否決された法律案の再議決は、これと同じ趣旨ではない。「衆議院で可決し、参議院でこれと異なった議決をした法律案は、衆議院で出席議員の3分の2以上の多数で再び可決したとき、法律となる」ということであり、衆議院の議決の要件が通常と異なるのである。国会の議決は、過半数で決せられる。
現在の国会でいろいろな案件について議決をすれば、衆議院と参議院では異なることになる。もっとも直近の国民の意思を反映しているのは、参議院の議決である。参議院は、2004年と今年の選挙で示された国民の意思を反映している。一方、衆議院選挙は2005年9月の郵政選挙で示された国民の意思を反映している。私がたびたび指摘してきたように郵政解散は、非常に問題の多い総選挙であった。衆議院の3分の2を超える議席などは、小泉首相の詐術的手法で獲得したものである。
「衆議院の、しかもその3分の2を超える議席に基づく意思だ」と自公“合体”政権がいくら強弁しても、それが現在の国民の意思を反映したものだという根拠にはならない。現在の現実の問題は、現在の国民の意思に基づいて解決するのが民主政治というものである。現在の国民の意思を正しく反映しているのは参議院なのである。現在政権を担当している福田内閣としては、参議院の意思を尊重しなければならないのは当然のことなのである。低姿勢とか協調性とか人柄などという問題ではない。
国民の意見はいろいろあるが、国民の意思は国会の議決のよって表されるとすれば、それをひとつのものとして捉えることはできる。ひとつのものとして捉えることができるとしても国民の意思がいつも同じであることにはならない。その“ときどき”の時期によって違うことはあり得ることである。私たちの意思を決定する主体が同じであっても、その“ときどき”に異なった判断をすることがあると同じである。しかし、民主政治とは国民の意思に基づいて政治を行うことに変わりはない。
「ねじる」とは、「棒状・糸状のものの両端をつかんで、互いに逆の方向にまわす。一部をつかんで無理のいくほどまわす」ことと広辞苑にはある。ねじれ国会の“ねじれ”は、前者の意味で使われている。国民の意思が別にねじれているのではない。そのときどきの選挙では正しい判断をしたのである。しかし、その判断が時期によって異なっただけのことなのである。国民の根性がねじれている訳でもなんでもない。どのような問題にもまったく同じ判断をする人は、信念の人かもしれないが死んでいる人なのかもしれない (笑)。
“ねじれ国会”といわれると国会のどちらかの議院がねじれているような印象を受ける。わが国の政治は、長い間自民党が多数派であった。また衆議院にはいくつかの優先する議決が認められている。だから、“ねじれ国会”というと、本来ならば衆議院で多数をもっている自民党や公明党の判断に従わず、これと違った議決をする参議院が“ねじれている”という印象を受ける。インド洋における給油活動は「憲法違反である」といっている小沢民主党代表の根性がねじれているような感じさえ与えかねない。
日米同盟を錦の御旗とし、アメリカのいうことにはなんでも結構ですという自公“合体”政権の方が“ねじれた根性”をしている。“平和と福祉”の党と標榜してきた公明党が政治の安定を錦の御旗に、自民党に追随してきたことの方がはるかに“ねじれた根性”をしている。憲法や戦後民主主義という現実の歴史に対して反感をもち、これを否定しようという右翼的な“正論派言論人”が権力に対してはきわめて迎合的であることの方が、はるかに“ねじれた根性”をしている。所詮は、欲得に従っているだけのことなのである。
私は公明党や“正論派言論人”との付き合いはあまりないが、自民党の国会議員とは選挙や政局というギリギリの局面で付き合ってきた。彼らの行動を決した卑しい根性を嫌というほど見せられてきた。「政権党の役員だ、大臣だ、国会議員だ」などとエラそうなことをいっているが、彼らの顔をじっと見ていると卑屈な表情が窺える。根性がねじれているから、正しい理念や信念に基づく者だけがもつ堂々とした気迫に満ちた表情がないのである。顔の表情は、げに心を映し出す鏡である。国会の論戦のひとつの見どころである。
それでは、また明日。
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