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http://www.asahi.com/politics/update/0925/TKY200709240200.html
2007年09月25日03時07分
安倍内閣は25日、総辞職して1年間の幕を閉じる。小泉純一郎前首相によって自民党幹事長や官房長官に抜擢(ばってき)され、事実上の後継指名を受けて首相の座についた安倍晋三氏。強烈な個性で世論の喝采をうけ、構造改革を掲げて官邸主導を確立した小泉氏と比べれば、期待された「選挙の顔」にもなれず、独自色を出し切ることもできず、「小泉改革」の負の遺産に押しつぶされた。
安倍氏は「小泉改革の継承者」との立場を、最後まで崩さなかった。辞意を表明する2日前の所信表明演説でも「改革を止めてはならない。この一心で続投を決意した」と強調したほどだ。
ただ、安倍氏と小泉氏にはもともと政策の優先順位や路線に大きな違いがあった。
小泉氏は郵政民営化に象徴される構造改革を長年唱え続け、「小さな政府」の実現など新自由主義的な政策に重きを置いた。これに対し、安倍氏は伝統や文化、国家の役割を重んじる「保守主義者」を自認。構造改革より、憲法改正や教育改革といった理念系の政策実現にこだわりがあった。
安倍氏は二つの路線のどちらに軸足を置くかに、終始悩まされた。
郵政民営化に反対した議員の自民党復党は、その典型だった。
「小泉後継」だったはずの安倍氏が、小泉氏が切り捨てた反対議員の復党を容認する――。この構図に世論は戸惑い、内閣支持率は大幅に下がった。つまずきの始まりだった。
逆に、構造改革路線の象徴のひとつである道路特定財源問題では、小泉氏が進めた一般財源化を強く主張し、与党から強い反発を受けた。
通常国会では、憲法改正の手続きを定める国民投票法を成立させるなど「安倍カラー」が強く出た時期もあった。支持率も持ち直しの兆しを見せた。一方、構造改革にも絡む国家公務員法改正に強くこだわった結果、中央省庁は反発し、与党との足並みも乱れることになった。
7月の参院選では、小泉改革の「負の遺産」と言われた格差問題に有効な手を打てず、地方の1人区を中心に惨敗。内閣改造では、小泉改革を推進した「中川秀直幹事長―塩崎恭久官房長官」から、「麻生太郎幹事長―与謝野馨官房長官」のラインに変え、路線転換を図ったが、時すでに遅かった。
安倍氏の路線をめぐる迷走は、特に小泉政権を支えた若い世代の離反を招いた。政権発足当初の20代の支持率は67%。世代別で最も高かったが、参院選後の8月には25%まで落ち込んでいた。
■官邸主導も挫折
先輩を立てて、義理がたく、仲間を大切にする――。自民党議員の共通した「安倍評」だ。孤独や摩擦を恐れない小泉氏より、むしろ融和を大切にする「調整型」の森喜朗元首相にタイプが近い。安倍氏自身、小泉氏を「副作用を伴う劇薬」、自分を「漢方薬」と説明したことがある。
この違いは、そのまま首相としての政治手法の差となって表れた。小泉氏が成功した「官邸主導」は、強烈な個性と世論の支持に裏打ちされたものだった。安倍氏は個性ではなく新たな組織づくりによって「官邸主導」を目指したが、結果的に挫折した。
安倍氏が試みたのは、米ホワイトハウスを参考にした官邸機能の強化だった。塩崎恭久前官房長官ら親しい仲間を官邸に集め、首相補佐官を規定いっぱいの5人に増やして「チーム安倍」と言われる体制を作った。自らかかわる形で、安全保障や教育再生などの会議をいくつも立ち上げた。
ところが、官邸の補佐官や各種会議と、霞が関の省庁との間で、役割分担の線引きがうまくいかずにあつれきが起きた。「チーム安倍」のメンバー内でもしばしば主導権争いが起こり、「お友達内閣」「少年官邸団」などと批判を浴びた。
一方、小泉流にならおうとして失敗した点もある。
小泉氏は組閣時に派閥に一切相談せず、「サプライズ人事」を繰り出すことで求心力を高めた。歴代首相になかったスタイルを安倍氏もまねたものの、小泉官邸が厳しく行った「身体検査」を徹底できず、「政治とカネ」の問題を巡る閣僚の辞任が相次ぎ、「任命責任」の批判を一身に浴びることになった。
8月末の内閣改造で、塩崎氏ら「チーム安倍」の大半を交代させ、補佐官も5人から2人に減らした。安倍流の「官邸主導」の失敗を印象づけた人事からわずか16日後、安倍氏は辞意を表明し、表舞台を去った。
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