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福田氏は顔だけはユーモラスであり、
ピーナッツ(落花生)を連想させる。
さて落花生とは次のような植物だ。
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E8%90%BD%E8%8A%B1%E7%94%9F&dtype=0&dname=0na&stype=1&pagenum=1&index=20030619146800
らっか‐せい〔ラククワ‐〕【落花生】
マメ科の一年草。茎は横にはい、葉は二対の小葉からなる複葉で、互生する。夏から秋、葉の付け根に黄色い蝶形の花をつけ、花後に子房の柄が伸びて地中に入り、実を結ぶ。子房が肥大して網状の凹凸のある莢(さや)となり、中にふつう2個の種子ができる。種子は栄養価が高く、食用、また油をとる。南アメリカの原産。ピーナッツ。南京豆。唐人豆(とうじんまめ)。《季 秋》
福田氏は小泉後に表舞台から消えてしまった。花が落ちた訳である。そして地下にもぐっていた訳である。今回はやっと地中に莢(さや)ができて種子を中に育てようとしているわけだが、
残念ながら種子は大きく育つ事はなく"実らない"であろう。
何故ならすでに土壌が痩せてしまっているからである。
土壌とは自民党の置かれている環境である。小泉改革路線が破綻して国民から見放されてしまっていて尚且つ対米追随を続けようとするのが環境であり土壌なのであるから種子が実る筈は無いではないか。
生のピーナッツを買ってきて煎ったり茹でたりして食べてみると、莢の中に萎んだ種子が入っているものに出くわす事がある。
福田政権は、この萎んだ種子入りの莢で終わるであろう。
小泉政権から 安倍政権 福田政権は
日本の先例で例えれば夫々が
東條政権 小磯政権 鈴木貫太郎政権
となる。
東條の戦争失敗から 小磯が受け継ぎ 鈴木が敗戦処理を引き受けたのである。
同様に
小泉改革路線の国家破綻を 安倍が誤魔化して継承し 切羽詰って福田が処理を任されるという事だ。
これは、対テロ戦争という米国の虚構の戦争に参加した道筋のもたらした「敗戦への道程」である。
先の大戦とよく似た道を歩んでいる。
米国ではブッシュ政権独りが演じていることを日本では三人が演じているわけである。
ブッシュは予定された敗戦に追い込まれて民主党政権に交替するだろう。
既にイラクからの撤退に踏み出した米国は次期政権でそれを本格化させるのである。
政権には"顔"というものを持たせてあるので、本格的な米国の路線転換は次期政権が担うのである。ブッシュはそこに足を踏み入れておくのである。
前政権のクリントン政権では、すでに米国経済は破綻を始めていたので旧ユーゴの紛争に大々的に戦争参加したのであるが、まだ本格的な戦争には至らなかった。クリントン政権の"顔"には戦争が似つかわしくなかったからである。政権に付与されたイメージというものがある。
ブッシュに替えて直ぐに9・11を実行して戦争経済に突入させたのだ。
そうしなければ米国経済は破綻していたのである。
さてやがてブッシュが任期を迎えて同時に敗戦を実質的に迎えることになるのであるが、
日本でも同様に敗戦を迎えることになる。
それに対応するのが「福田政権」と言う事になる。
福田政権が早く倒れれば、次の政権にもその任務が引継がれる事になる。
その政権は例えれば東久邇宮政権ということになるだろう。暗さ半分、明るさ半分の政権になるということだろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%A3%AF%E5%86%85%E9%96%A3
[小磯内閣]
[編集] 概要
政策・軍事指導の両面に行き詰まり、重臣からも盛んに倒閣を暗躍され、しぶしぶ総理の座を降りた東條英機のあとを襲って組閣された。
昭和天皇は小磯の指導力不足を懸念し、内閣は小磯と米内の連立内閣という形式を取らせることになった。米内は現役に復帰し、海相に就任するとともに、副首相格となった。
小磯本人は大命降下当時予備役であったが、現役に復帰した上で陸相を兼ね、強力なイニシアティブを取って軍部を抑えようと目論んだ。しかし、東條自身もまた陸相留任を望んだため交渉は難航し、妥協案として東條の推す杉山元が陸相に就任した。
組閣の時点で、先が見えていた内閣と言える。何をするにも動きが遅く効率が悪いため、「木炭自動車」と揶揄され、米軍の沖縄上陸と、繆斌工作の失敗を機に瓦解した。
在任 : 1944年(昭和19年)7月22日〜1945年(昭和20年)4月7日。 ※総辞職は4月5日。鈴木貫太郎内閣成立までの間、職務を執行。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E8%B2%AB%E5%A4%AA%E9%83%8E%E5%86%85%E9%96%A3
[鈴木貫太郎内閣]
[編集] 概要
小磯内閣の崩壊後、後任首相の人選は難航した。内大臣木戸幸一は陸軍を押さえるためにも引き続き陸軍から内閣総理大臣を選出することを主張し、阿南惟幾陸軍大将を持ち出そうとしていた。重臣の多くは、近衛文麿の意向により枢密院議長であった鈴木を推す。ただ一人、東條英機のみが畑俊六元帥陸軍大将擁立を求めた。これもやはり陸軍統制を考えてのことである。重臣会議の席上、東條は「陸軍軍人でなければ、陸軍はそっぽを向くであろう」と主張し、岡田啓介に「そっぽを向くとは何事か」と詰め寄られ、主張を取り下げた。結局、平沼騏一郎が正式に推薦し、鈴木に大命が降下した。
宮中に参内した鈴木は辞退する旨を繰り返すが、昭和天皇と当時皇太后だった貞明皇后による異例の就任依頼を受け、就任組閣を行う。鈴木はかつて侍従長として天皇の側にあり信任も篤かったため、天皇の本心が終戦にあることを即座に感じ取る。就任演説では「国民よ我が屍を越えて行け」と咆哮する主戦派を演じつつ、背後では終戦工作に奔走した。その一例が阿南の陸相起用である。阿南は強硬論を唱え、本土決戦を盛んに主張していたが、その実、彼は鈴木が侍従長時代に侍従武官としてコンビを組んでいた間柄である。阿南は鈴木の考えを汲み、当時参謀本部総長であった梅津美治郎と二人三脚で、「強硬論を声高に主張して陸軍の過激派中堅幹部を押さえつつ、最高戦争指導会議などでは最終的には首相の言い分を飲む」という腹芸を行った。
ポツダム宣言の受諾と、返信の文面をめぐって阿南と海相米内光政がやりあう一面もあったが、これも言わば見せかけに過ぎず(阿南が辞表を提出した場合、陸軍は後任を推薦してくることは考えられず、内閣不一致で総辞職となることは避けられなかった)、天皇の暗黙の意向通り終戦内閣として8月17日に役目を終えた。
在任 : 1945年(昭和20年)4月7日〜同8月17日。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%B9%85%E9%82%87%E5%AE%AE%E5%86%85%E9%96%A3
[東久邇宮内閣]
[編集] 概要
前代の鈴木貫太郎内閣は発足当初より終戦内閣として組閣されていたが、終戦後の事態収拾までは念頭に置いていなかった。これまで何度か国民及び軍人を強力に統制するために皇族であり現役の軍人であった東久邇宮内閣待望論が持ち出されたが、その度に内大臣木戸幸一に反対されてきた(東條内閣#概要を参照)。
しかし、1945年(昭和20年)8月15日に戦争が終結すると、崩壊した政府秩序と中堅幹部が暴走しかねない軍(特に陸軍)をおさえるには皇族を持ち出すほかはなく、また、戦争にも負けたことだし、これ以上国家の事態が悪化するようなことはなかろうという読みから東久邇宮を推薦することとなった。
東久邇宮は皇族かつ軍人であるゆえに政治に近づくことを禁じられていたこと、政治経験のないことを理由として拒否するが、時局の説明を受け承諾、戦前から親交のあった近衛文麿を相談相手とすることで政治面の補佐を受けることになる。就任後の記者会見で、有名な「一億総懺悔」発言を行う。敗戦の責任を国民全体に転嫁することによって、天皇の責任を曖昧にしようとする意図であったとされるため、批判を受けることもあった。
戦時体制から平時体制復帰への過渡期にあり、憲法改正と国会再編及び総選挙、行政機構の建て直しなど課題は多かったが、当時の連合国は占領体制の意見もまとまっておらず、GHQからの指示も朝令暮改ぎみであり、政府は混乱することはなはだしかった。加えて、皇族であった東久邇宮と摂家であった近衛の浮世離れした政治感覚も、市井の国民の意識から乖離することが多く不評であった。
10月4日にGHQより発令された自由の指令と山崎巌内相をはじめとする内務省関係者の一斉罷免指令に対して反発するかたちで総辞職した。終戦内閣から再建内閣へのつなぎとしての役割しか持たない空疎な内閣であった。しかし、武装解除や軍部の解体などの実績もあり、批評ばかりだったわけではない。
在任; 1945年(昭和20年)8月17日〜同10月9日 ※総辞職は10月5日。幣原内閣発足まで職務を執行した。
注:内閣総理大臣としての正式な表記は宮号を冠さない「内閣総理大臣 稔彦王」であり、官報にもそのように掲載された。
[編集] 省庁再編前
1945年8月17日〜8月26日
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