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「沖縄『集団自決』取材レポート」 (フォトジャーナリスト・森住卓)
http://www.asyura2.com/07/senkyo42/msg/1164.html
投稿者 ヤマボウシ 日時 2007 年 10 月 13 日 02:42:53: WlgZY.vL1Urv.
 

(以下、転載文)
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写真家の森住です。

先日まで沖縄で「集団自決(強制集団死)」の取材をしていました。
その時出会った人々のことを記しておきます。

「集団自決」の舞台となった渡嘉敷村と座間味村は沖縄本島南部の西、慶良間諸
島にあります。(集団自決はここだけではありません)
周辺の海は世界有数の透明度を誇っています。戦争体験のない若者たちで那覇か
らの高速船は一杯でした。
渡嘉敷には35分前後、座間味には1時間前後で到着しました。


太平洋戦争末期、渡嘉敷村、座間味村で「集団自決(強制集団死)」を体験した
証言者は62年間ずっと苦しみを背負って生きてきました。
自分たちの体験が歴史教科書の中で歪曲されてしまうことに、身を震わせて怒っ
ていました。自分の体験が歪曲されて後世に伝えらてしまったなら、同じ過ちを
繰り返すと。
身内を殺し、死のうと思っても死にきれず生き残ってしまった人々の苦悩は想像
を絶するものがあります。インタビューを受けてくれた生き残った人々は「体験
していない者には本当のところを理解できないですよ」と言いました。
私の聞いた、その体験は世界の戦争被害の歴史の中でこれほど残酷な体験は亡かっ
たのではないでしょうか?


1945年3月末、米軍が上陸した後、「追い詰められた人々は、愛する故に愛する
我が子を、妻を殺さなければならな」かったのです。「天皇陛下バンザイ」を叫
んで。
米軍上陸の1週間ほど前に住民に手榴弾が配られたのです。「一発は米軍に投げ、
一発は自決用に」と。
「生きて虜囚の辱めを受けず」「天皇のために、お国のために死になさい」と教
育された住民に残された選択はひとつ。「自決」しかありませんでした。しかも、
軍から手渡された手榴弾は操作の不慣れや不良品で、多くが爆発しませんでした。
手榴弾を持たない住民は鎌や棒きれ、石、カミソリ、縄や紐で、そして幼子を燃
えさかる炎の中に。最後に残された父親も死のうと燃えさかる炎の中に飛び込む
のですが、死にきれず気が狂ってしまったのです。
16と18才の兄弟は大人達がどうやって殺すのか、その殺し方をじっと見ていまし
た。
二人はやがて母と妹、弟を石で殴り殺したのです。

座間味国民学校の校長先生は妻と2人の女教師や住民と壕に隠れていました。米
軍が迫っ
てきたことを知った校長先生は静かに「皆さん、こちらに集まってください」と
住民をひとかたまりに集まらせたのです。そして「天皇陛下バンザイ」と叫んだ
直後、手榴弾が爆発しました。2人の女教師は瀕死の重傷を負いました。
校長先生と妻は死にきれませんでした。やがて校長先生は妻を抱き寄せ、鞄から
とり出したカミソリで妻のクビを切り始めました。暗闇の中では妻のどこに刃が
当たっているのかもわからず、何度も何度もクビに切り込みを入れてゆきました
。妻は「まだですよ、まだですよ」と言いながらやがて大量の出血で意識を失っ
て行きました。
押し黙っていた校長はやがて自分のクビに刃を当て一気にカミソリを引きました。
「プシュー」と言う鈍い音ともに鮮血が噴き出し周りを血の海にしました。
狭い壕の中、校長先生の向かい合わせに座っていた9才の少年が全てを目撃して
いました。
飛び散った校長先生の血が少年のシャツを真っ赤に染めました。その時の少年は
「血が生暖かかった」ことを今も鮮明に覚えています。

「鬼畜米英」の思想は米軍に遭遇したときに米軍を憎しみ殺すという思想。
しかし、武力を持たない、逃げまどう住民は戦場で圧倒的な火力をもつ米軍に遭
遇すると、憎しみが恐怖に変わり、米軍に向ける刃を愛情をもつ家族に向けたの
です。
「殺意無き殺人、愛するが故の殺人」天皇制がいかに残酷で、残虐であるかを最
も劇的な形で現れた事件でした。

さて、文科省が高校歴史教科書の書き換えの理由にした裁判で座間味の元部隊長
・梅澤裕少佐は「軍命ではなかった」と名誉回復を求めています。
しかし、彼は米軍上陸後、次ぎつぎと突撃命令を出し、多くの将兵を死に追いや
り住民をスパイとして虐殺し、自決へと追い込んだ張本人。
梅澤は、朝鮮人慰安婦をはべらせ壕を転々と逃げ回り4月10日に各隊に独自行動
を命令。部隊の事実上の解散宣言をしてしました。
本人は自決もせず生き延びました。米軍に捕まったときには朝鮮人慰安婦と一緒
で、住民から石を投げられ、米軍に保護されながらトラックに乗せられ連行され
ました。
その梅澤が1980年に密かに座間味を訪れました。目的は「軍命はなかった。住民
は自発的に集団自決した」という証言をとるためでした。
元村収入役謙兵事主任の弟に合い、「一筆書いて欲しい」と頼んだのです。
しかし、元助役の弟は拒み続けました。元助役の弟は戦時中、徴兵され福岡県の
部隊に配属されており、座間味にはいませんでした。
元助役の弟はお酒が大好きでした。そこに目をつけた梅澤は早朝から酒をすすめ
酔わせたのです。酔った元助役の弟はそれでも「嘘の証言を書くこと」を拒み続
けました。
梅澤は「お袋が住民自決を命令した息子を持って肩身が狭いよといっている。こ
のままではお袋がかわいそうだから、自決命令は出さなかったという証人になっ
てくれ。この文書に署名してくれ。この文書はお袋に見せるだけで他に使わない」
と約束し事前に用意してきた文書に元村長の弟の印鑑をつかせました。

その5年後神戸新聞に「座間味の集団自決に梅澤氏の命令はなかった」との記事
が掲載されました。そしてこの文書は裁判の証拠として提出されているのです。
梅澤は元助役の弟を2重3重に貶めたのです。

深い傷を心に秘めた人々から証言を聞き出すことは、かさぶたをはがして、血の
にじみ出た所から傷口に入り込むような残酷さがあります。
しかし、この作業なしに歴史を後世に正しく残せません。
渡嘉敷島で証言してくた98才になる老婆は自決現場近くに案内してくれたのです
が身体が震えて現場までたどり着けませんでした。インタビューが終わると1時
間も泣き続けていたと、あとで長男から聞きました。

証言をしていただいた方々の心の奥にしまい込んでいた深い傷を思うとき、一度
や二度の取材でこの人々の痛みを本当に理解できるのか?
これまで、これほど真剣に取材対象と向き合ったことはありませんでした。
(今までは真剣ではなかったと言うことではないのですが)
この取材はある意味、命がけ。中途半端は許されない、心してかからねばならい
と思っています。(転載ここまで)

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=586570269&owner_id=2356176

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