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http://www.amnesty.or.jp/uploads/DPQA.pdf
なぜアムネスティは死刑に反対するのでしょうか?
アムネスティは犯罪の内容、加害者の性格、あるいは国家がどのような方法で受刑者を殺害しようとも、あらゆる事例で、例外なく死刑に反対します。死刑は究極の人権侵害だからです。死刑は正義の名の下で国家が行うあらかじめ計画された冷血な殺害なのです。死刑は世界人権宣言にある、生きる権利を侵害します。死刑は残虐、非人道的かつ品位を傷つける究極の刑罰です。
拷問や虐待を正当化することは決してできません。拷問と同じように、死刑執行は個人に対する極限の肉体的、精神的攻撃です。人間を殺害する行為によってもたらされる身体的苦痛を定量化することはできませんし、国家による殺害の事前予告による精神的苦しみを定量化することもできません。
死刑は差別的なものであり、貧しい者、少数者、そして人種的、民族的、宗教的なコミュニティに属する者に対して偏って行使されることが多いのです。死刑は恣意的に科せられ、遂行されます。
毎年、何千件もの殺人の中から「最悪の中でも最悪の」犯罪と犯罪者を選ぶ国家の行為は、必然的に矛盾に満ち、過ちがあるもので、これらは差別、検察官の職権乱用、不適切な法的代理人によりさらに悪化する不可避の欠陥です。人間による正義が誤りを犯しがちである限り、罪のない人を処刑する危険性は決して排除することはできません。アムネスティは地球規模の死刑廃止を無条件に求めます。
死刑制度に終止符を打つには、広く支持されている価値観と矛盾する、破壊的で意見の対立をもたらす公共政策であると死刑を認識することです。死刑は取り返しのつかない誤りを犯す危険性があるばかりでなく、社会的、心理的にも、国庫にも負担をかけます。死刑に特別な抑止効果があることは証明されていません。死刑は更生と和解の可能性を否定します。死刑は人間関係の複雑な問題に対して単純な対応を促し、有効な対策を与える弁明を追求しません。死刑は殺害された犠牲者の遺族の苦しみを長引かせ、その苦しみを有罪となった受刑者の愛する家族にも拡大します。死刑は暴力犯罪に取り組み、暴力犯罪で被害を受けた人びとを支援するために効率的に使用されるべき資源とエネルギーを分散させてしまいます。死刑は暴力文化の象徴であり、解決策にはなりません。死刑は人間の尊厳を侮辱します。死刑は廃止されるべきです。
死刑に反対するアムネスティは暴力犯罪の犠牲者とその関係者を尊重していないのではないでしょうか?
死刑に反対しているからといって、アムネスティは死刑判決を受けた人びとが有罪となった犯罪を軽視し、容認することを求めていません。もしそうならば、死刑を廃止した世界の過半数を占める国ぐには暴力犯罪の擁護者となり、無意味です。人権侵害の犠牲者に深い懸念を表してきた団体として、アムネスティは殺害された被害者遺族の苦しみを軽視せず、最大限の同情を寄せています。しかし、死刑に内在する完結性と残虐性は、今日の文明社会における規範と矛盾します。死刑は暴力犯罪に対して不適切で受け入れがたい対応です。
死刑は反対意見を弾圧するために政府が利用しますか?
死刑は政治的弾圧の道具として、政敵を永久に沈黙させたり、政治的に「厄介な」個人を抹殺する手段とされてきました。そのような場合、ほとんどの事例で犠牲者は不公正な裁判を受けた後、死刑を宣告されています。弾圧の道具として死刑が魅力的なのはまさに死刑の取り返しがつかない本質にあるのです。ある政府が数千人を処刑しましたが、政権交代後に彼らは無実の犠牲者であったと判明したことがありました。死刑が合法的な刑罰であるとして容認されている限り、政治的に悪用される危険性があります。このような政治的悪用をなくすためには死刑を廃止するしかありません。
国際法は死刑の適用についてどのように述べているでしょうか?
世界人権宣言は、第二次世界大戦中に国家が犯した信じがたいほどの残虐性と恐怖を再発させないように1948年12月に国連総会で採択されましたが、個人の生きる権利(第3条)を認め、「何人も、拷問又は残虐な、非人道的な若しくは品位をおとしめるような取扱若しくは刑罰を受けることはない」(第5条)と明確に述べています。アムネスティは死刑がこれらの権利を侵害していると考えています。
次のような死刑廃止を求める国際条約と地域条約により法的根拠は明確にされています。
・自由権規約第2選択議定書は、死刑廃止を目的として、1989年に国連総会で採択され、死刑の完全廃止を求めていますが、締約国が議定書の署名時または批准時にその効果に対し留保すれば、戦時における死刑の存置を認めています。
・人権及び基本的自由の保護のための欧州条約(欧州人権条約)第6議定書は、死刑廃止に関するもので、1982年に評議会で採択され、平和時の死刑廃止を規定しています。締約国は「戦時または急迫した戦争の脅威がある時」の犯罪に対し死刑を存置してよいことになっています。
・死刑廃止に関する米州人権条約追加議定書は、1990年に米州機構総会で採択され、死刑の完全廃止を定めています。しかし、締約国が議定書の批准時または署名時にその効果に対し留保すれば、戦時における死刑の存置が可能です。
・人権及び基本的自由の保護のための欧州条約(欧州人権条約)第13議定書は2002年に欧州評議会で採択され、戦時や差し迫った戦争の脅威がある時を含め、あらゆる状況下における死刑廃止を定めています。欧州人権条約の締約国はどの国でもこの議定書に加盟できます。
[現時点での死刑に関する上記条約を批准した国のリストはwww.amnesty.org/にあるアムネスティのウエブサイトの死刑のページで見ることができます]
さらに、1998年に採択された国際刑事裁判所設置規程では、大量虐殺を含む人道に反する犯罪や武力紛争法違反のようなきわめて重大な犯罪の裁判であっても、この裁判所が科すことが認められた刑罰から死刑は除外されています。
同様に、1993年旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷、1994年ルワンダ国際戦犯法廷でも、国連安全保障理事会は刑罰に死刑を除外しました。また、シエラレオネ特別法廷、東ティモール・ディリ特別法廷、カンボジア特別法廷設置法でも死刑は刑罰から除外されています。
しかし、国家が生命を奪うこと以外に選択の余地がない時もあるはずでは?
国家公務員による殺人は、自己防衛として正当化されるケースがあります。たとえば、国が戦争状態(戦争や内戦)にある時、または法執行官が自分や他の人の生命を守るために即座に対応しなければならない時などです。このような状況下でも、致命傷を与える武器の使用は濫用を防止する国際的に認められている法的予防措置により抑制されています。武力の行使は他者が使用した武器による直接的な損傷に対抗することが目的です。しかし死刑は、差し迫った生命の危険に対する自己防衛行動ではありません。それゆえ死刑は、死刑ほど厳しくない手段で処遇し得る受刑者を、計画的に殺害することなのです。
死刑は国家が犯罪と戦うための重要な手段であるという議論をどう思いますか?
数人あるいは数百人もの囚人を処刑することにより、差し迫った社会的または政治的な問題を解決できると多くの政府が信じています。多くの国の多くの市民が、死刑は保護ではなく残忍さをもたらすということにまだ気がついていません。
科学的な研究でも、死刑が他の刑罰よりさらに効果的に犯罪を抑止するという確実な証拠がみつかったことは一度もありません。死刑と殺人発生率の関係に関する研究が1988年に国連からの委託で実施され、1996年と2002年に再調査されていますが、最新の調査では以下のような結果が出ています:「死刑が終身刑よりも大きな抑止力を持つことを科学的に裏付ける研究はない。そのような裏付けが近々得られる可能性はない。抑止力仮説を積極的に支持する証拠は見つかっていない。」
死刑廃止国における犯罪に関する最近の統計を見ても、死刑を廃止すれば悪影響があるとはいえません。例えばカナダでは、人口10万人あたりの殺人発生率は、死刑廃止の前年である1975年の最高値の3.09から、1980年には2.41に減少し、以後さらに低下しています。廃止の27年後にあたる2003年には、殺人発生率は人口10万人あたり1.73で、1975年より44パーセント減少しており、30年間で最も低くなっています。2005年に2.0に増加しましたが、死刑廃止時の数値を3分の1以上も下回っています。
殺人のような重大な犯罪を犯す人は理性的に結果を予測した上で犯罪を犯すと仮定するのはまちがいです。多くの場合、感情が理性に勝った時、または麻薬やアルコールを摂取した状態で殺人は起きます。凶悪犯罪者の中には、情緒不安定だったり、精神病だったりする人びとがいます。1977年以来米国で処刑された死刑囚の10人中少なくとも1人は、自分に対する死刑判決、その理由、その意味を理性的に把握できないほど深刻な精神障害があることがアムネスティの調べで分かっています。このようなケースでは、死刑への恐怖が抑止力になるとは考えられません。さらに、重大な犯罪を計画的に犯す人たちは、危険があるにもかかわらず、自分たちは捕まらないだろうと信じて犯行におよぶ可能性があります。このような犯罪を抑止する鍵は、犯罪認知、逮捕、有罪判決の可能性を高めることです。
死刑に特別な抑止効果があることを示す明らかな証拠がないということは、死刑という公共政策を維持するために抑止力仮説を拠り所とすることが無益で危険であるということです。死刑は厳しい刑罰ですが、犯罪に対する効果はその厳しさに見合いません。
再犯を防止するために、特定の囚人を処刑することは必要ではありませんか?
再犯防止の方法としての死刑は、効果がある方法とはいえません。死刑とは、すでに投獄され、社会から排除されている囚人にのみ執行されるものです。もはや社会に対して暴力行為をはたらくことはできないのですから、社会を守る手段として死刑は不必要です。
拘禁刑とは違い、死刑における誤判は取り返しがつきません。無実の囚人が処刑されるという危険性は常にあります。死刑は、そもそも犯していない犯罪の再犯を防止することはできません。
有罪判決を受けた犯罪を、処刑された人びとが再び犯す可能性があったかどうかを断定することもできません。死刑執行は、その多くは犯さないであろう将来の犯罪を防ぐために囚人の生命を奪うことです。犯罪者の更正という原則も否定します。
拘禁刑だけでは、釈放後の再犯を防止できないと主張する人たちがいます。これに対する答えは、再犯防止という観点から仮釈放手続きを見直すことで、死刑執行数を増やすことではもちろんありません。
凶悪犯罪者、または殺人者は死ぬべきではないでしょうか?
殺人を非難するために死刑を利用してはいけません。国家によるそのような行為は、犯罪者が犠牲者に身体的暴力を加えようとすることと表裏一体です。それに、どんな刑事司法制度でも差別や誤りを避けられません。誰が生き、誰が死ぬべきであるかを公正に、矛盾なく、絶対に間違えずに決めることが出来る制度はありえません。逮捕から土壇場での減刑に至るまで、ご都合主義、任意の判断、世論が訴訟手続きに影響を及ぼす可能性があります。
人権の核心は、不可侵であるということ、身分、民族、宗教、出自に関係なくすべての人に等しく認められているということです。人権は、犯した犯罪にかかわらず、誰からも奪ってはいけません。もっとも良い人びとのみならず、もっとも悪い人びとにも人権はあります。だからこそ、私たち全員が守られるのです。人権は、私たち自身を守っているのです。
さらに、死刑が用いられる時にはいつでも、誰かが処刑される一方で、同じような、またはそれよりももっとひどい犯罪を犯した他の人たちが、見逃されます。処刑される人びとは、必ずしも最悪の犯罪を犯した人ではなく、貧しいために有能な弁護士を雇えない人びとや、より厳格な検察官か裁判官に担当された人びとです。
死刑は、テロ行為や政治的暴力を阻止するために必要ではありませんか?
テロや政治犯罪と戦っている担当者は、死刑執行はそのような行為を抑止すると同程度に増加させる可能性があると繰り返し指摘してきました。死刑は殉教者を生み、その思い出が組織を再集結させることがあります。例えば自爆テロ犯のような、自分たちの信条のために自分の命を犠牲にする覚悟が出来ている人にとっては、死刑執行の可能性により思いとどまることはなく、きっかけを与える可能性すらあります。 国家による死刑の適用は、武装反政府勢力が報復の正当化するために利用され、暴力の連鎖が続くのです。
死刑にするより長期間または死ぬまで囚人を収監する方が残酷ではないでしょうか?
囚人は生きている限り、更正したり、後に無実が判明した場合には、疑いを晴らすことを期待できます。死刑執行されれば、裁判官の過失への償いや犯罪者の更正の可能性が奪われます。 死刑執行そのものの残虐性、死刑執行を意識しながら、死刑囚監房で時には長期間にわたって待たされる残虐性から、死刑は懲役刑にはない条件を持つ独特の刑罰です。
地球規模の死刑執行停止の呼びかけは、「西側の文化的な価値の押しつけ」と主張する国についてはどう考えますか?
アムネスティは、異なる文化や宗教に根ざす人権の多様な対話を歓迎し、異なる考え方が人権の理解に貢献すると考えます。同時に、アムネスティは、人権が普遍的であり、不可分であり、相互に依存していると考えます。西洋の文脈の中で人権は発展してきたといえますが、本質は西洋的ではなく、多くの異なった伝統に由来し、国連のすべての加盟国が遵守に同意している基準として認識されています。
死刑を廃止した多くの国ぐには異なる地域や文化圏にあることに注目すべきです。従って、死刑の廃止は国際社会の一部が支持しているものだと主張することはできません。
死刑に反対することにより、死刑を容認する世界の主要な宗教をアムネスティは非難していませんか?
世界の主な宗教は、教義の中で、慈悲、思いやり、許しを力説しています。アムネスティのあらゆる死刑執行を中止せよとの呼びかけはこれらの教義と矛盾しません。
世界のさまざまな地域で、死刑の執行を続けている国に、すべての主要な宗教は存在します。同様に法律上または事実上死刑を廃止している国も世界中にあります。死刑はどこか特定の地域に限ったものではありません。したがって、アムネスティの死刑廃止キャンペーンを特定の宗教への攻撃と解釈することは間違っていると言えます。アムネスティは、民族的・文化的に多様であり、国際的な人権に活動の基礎を置いている非政治団体です。会員は世界中に存在し、多様な宗教的背景を持っています。
世論の多数が死刑に賛成の場合、どうすれば国は死刑を廃止できるのでしょう?
世論が死刑を強く支持しているように思われる場合というのは、実は複雑です。事実関係について、情報が不足している部分もあります。もしも一般の人びとが死刑に関する現実や、どのようにして適用されるかを十分に知らされれば、おそらくもっと多くの人びとが死刑廃止を受け入れるでしょう。
世論調査では死刑支持が圧倒的であるように見えるということがしばしばありますが、それは、世論、その国の犯罪情勢が適切に理解されているかどうか、そのような犯罪情勢となっている原因は何か、犯罪防止のためにどのような方策があるのか、といった様ざまな事象の複雑性を、あえて単純化しようとするものです。
死刑に対する世論の支持は、死刑が犯罪抑止に有効な方策である、という誤った信念に基づくことが多いです。一般社会の圧倒的多数が欲しいのは、犯罪を減らすことのできる有効な方策なのです。政治家が死刑を犯罪抑止の手段であると主張すれば、世論は問題の解決になると信じて死刑を求めます。政府の責任は、犯罪問題に効果的に対応することであって、死刑によって人権侵害を引き起こすことではありません。
十分に情報を得た上での世論は、教育や道徳的な指導力がなければできません。各国政府は、人権と刑事政策の問題について、率先して世論を導く必要があります。死刑の廃止を決めるのは、政府と立法府でなければなりません。たとえ世論の多数が死刑を望んでいたとしても、死刑廃止を決定することはできるのです。実際、歴史的にはほとんどの場合がそうでした。そして、一度死刑が廃止されると、一般社会の人びとが激しい怒りを表すことはなく、死刑は廃止されたままになることが多いです。
どこの国も、一般社会の多数がそれを望むからといって、悪名高い受刑者を拷問したり、評判が悪い民族的少数者を迫害したりすることを、正当化することはできません。奴隷制は、かつては合法的なもので広く受け入れられていました。それが廃止されたのは、それが道徳的に許されないことであるとして反対した人びとの長年にわたる努力の結果です。
死刑廃止の闘いが勝利に向かっているという兆候はどのようなものでしょうか?
20世紀に入ったばかりの頃、あらゆる犯罪に対し死刑を恒久的に廃止した国は3ヵ国にすぎませんでした。21世紀に入った現在、世界中の3分の2の国ぐにが、死刑を法律上または事実上廃止しています。実際、ここ十年間は、平均で毎年3ヵ国の割合で、死刑を法律上廃止したり、一般犯罪について死刑を廃止したり、さらにすべての犯罪で死刑を廃止しています。さらに重要なことは、一旦廃止して、再度死刑を導入した国はほとんどありません。 9
そのほかの動きとしては....
欧州は、事実上、死刑のない地域となっています。これは、世界的に廃止を実現しようという同地域での動きが高まったからです。アフリカ大陸は、ほぼ死刑のない地域となりましたが、53カ国中6カ国のみが2006年に死刑を執行しました。米国は徐々に死刑に反対する方向に動き始めています。多くの州で2006年は死刑執行が実質的に保留となりました。これは、薬物注射による死刑執行に対して、法的な疑義が提起され、関心を呼んだからです。死刑執行の一時停止に対する支持が強いのはノースカロライナ州で、約40の地方自治体、そして4万人以上の人びとが死刑執行停止の署名活動に参加しました。
ニューヨークでは、2004年、州最高裁が死刑を定めた法律は違憲であるという判断を示しました。2007年初頭までに、同法は改正されていません。ニュージャージーでは、2006年、死刑執行停止法が実施され、死刑のあらゆる側面に関する調査委員会を州内に設置しました。委員会の最終報告書は2007年1月に発表され、委員会は死刑の廃止を勧告しました。
死刑廃止団体の間の連絡、協力関係はこの間強化されています。特に、世界死刑廃止連盟が設立され、死刑廃止世界大会が3度開催されました。また、アジアでも、各国の死刑廃止団体が連携する「死刑反対アジアネットワーク」(ADPAN)が発足しました。
死刑廃止諸条約の数やその批准国の増加など、死刑廃止に向けた国際基準、国連の諸機関による活動、国際的な裁判所や条約機関での決定や勧告などが急増しました。
このような傾向は、死刑のように正義の名の下に国家があらかじめ計画的に冷たく人間を殺害したりしなくても、それ以外の効果的な刑罰があるという認識が広まってきたことを反映しています。
薬物注射は痛みが最も少なく、人道的な人の殺し方ですか?
薬物注射の使用について、問題が持ち上がりました。グアテマラで初めて薬物注射による処刑が1998年2月10日にありましたが、マヌエル・マルティネス・コロナド死刑囚の死刑執行を担当した係官は、緊張のあまり(また、死刑囚の妻と子どもたちがすすり泣く声に心を痛めたためとも言われるが)、死刑囚の腕に薬物を注入するための管を挿入するのに長い時間がかかりました。さらに、死刑執行中に電気が切れ、薬物が注入されなくなったため、死刑囚は死亡するまで18分もかかりました。この模様の一切が、国営テレビで中継で放映されました。米国では、薬物注射による処刑でいくつかの失敗例がありました。たとえば、死刑囚が薬物常用者だったような場合は、静脈が弱いといった問題があります。
プエルトリコ出身のエンジェル・ニーヴス・ディアスは1979年に犯した殺人事件で死刑の判決を受けましたが、2006年12月13日の薬物注射による死刑執行に際して、死亡するまで34分かかりました。頭巾を被って身元が分からないようにした医師が、二度目の投薬を指示し、ディアスの死亡を確認しました。この死刑執行は、彼の事件の検察側の重要な証人が裁判段階でのエンジェル・ディアスに不利な証言を撤回し、最終的に彼の無実を主張していた中で行われました。死刑が執行されるわずか1時間ほど前、上記の事実を指摘しフロリダ州の薬物注射手続の違憲性を争う、エンジェル・ディアス側の最終の申立てを最高裁は却下しました。
2006年12月15日、フロリダ州のジェブ・ブッシュ州知事は、死刑執行を停止し、フロリダ州の薬物注射方法が、残虐で異常な刑罰を禁止するフロリダ州法に反するかどうかを検討する委員会を任命しました。委員会は2007年3月に報告書を出すことになっており、それまではあらゆる死刑の執行命令書に署名されていません。他の州も薬物注射の規定を同様に検討し、この一見すると「人道的」とも見えてしまう死刑執行方法が他の執行方法と変わりなく残虐で拷問にあたるとの議論が再燃しています。
米国は約30年前に薬物注射による死刑執行を導入し、1982年に最初の執行が行われました。それ以降、米国ではおよそ900人近い死刑囚がこの方法で処刑されました。そして、米国で行われていた他の処刑方法、すなわち電気椅子、絞首刑、ガス処刑、銃殺から薬物注射となりました。米国の法律に初めてこの方法が導入されてから20年後、中国、グアテマラ、フィリピン(ただし、2006年6月に死刑は廃止された)、台湾、タイなどの諸国でこの処刑方法が採用されました。薬物注射は、他の処刑方法が持つ不愉快な効果の多くを避けることができます。身体欠損、首を切ることによる出血、電気処刑の際に身体が焦げる匂い、ガス室処刑や絞首刑などでの嫌な光景や音、強制的な脱糞や排尿の問題などです。このため、死刑を実際に執行する人びとにとっては、ましかもしれない、とされました。しかし、薬物注射は、医療関係者が国家による処刑に関わる可能性を増大させました。これは、長らく保持されてきた医療倫理に違反する行為です。
いかなる方法による死刑執行も非人道的であす。すでにある方法は、痛みを伴い、それぞれ好ましからぬ側面を持っています。しかしさらに心にとめておかなくてはならないのは、単に死刑囚が房から出され殺される数十分の間の問題だけではないということです。死刑囚は、刑を宣告されたその瞬間からその死の刑罰を首にかけられ、実際に意識を失い死ぬまでの間ずっとそれとともに生きるのです。 11
人を殺すのに「人道的な」方法を捜し求めようという試みは、まさに、死刑を執行する人びとにとって、人道的であるように見せようとする国家にとって、その名の下に執行を行っている一般大衆にとって、より快適な処刑方法を捜し求めることに他ならないといえます。
この問題に関するより詳細な資料は、http://www.amnesty.org/を参照してください。
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