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(回答先: やれやれ、またTORA退治か:加藤清正 投稿者 竹中半兵衛 日時 2007 年 10 月 10 日 17:50:19)
南京事件−日中戦争 小さな資料集−−−−HPに所収
URL:http://www.geocities.jp/yu77799/
田中隆吉「裁かれる歴史」より
http://www.geocities.jp/yu77799/tanakaryukiti.html
田中隆吉少将は、「極東軍事裁判」で検察側の証人として検事に「協力」したことで知られています。ただしその動機は、「少数者に責任を負わせ」て「天皇を助ける」ためだった、と言われていますが・・・(児島襄「東京裁判」(上)P207、P208)。
その田中氏の回想録「裁かれる歴史―敗戦秘話」(新風社、1948年)の中に、長勇参謀の「捕虜虐殺命令」に触れた箇所があります。長参謀の発言内容自体は田中氏も懸念するように一部「大言壮語」のきらいがあり、「三十万人の捕虜の虐殺」など事実と認定しがたい記述も見られますが、長参謀のメンタリティを知る一助として、参考のためここに紹介します。
南京と通州の悲劇
昭和十三年四月の初めであつた。
当時私は朝鮮羅南の山砲二五の連隊長をして居た。ある日三月の異動で、成興の歩兵七四の連隊長となった長勇大佐が私を訪ねてきた。師団司令部で行われる恒例の団隊長会議に列席するために羅南に来たからである。
長氏は嘗て参謀本部で同一の課に勤務したことがある、熟知の間柄である。氏は三月事件や十月事件の事実上中心人物であり、無類の乱暴者だとの異名が高かつた。その性格は外面の豪放なるに似ず、世上の毀誉に極めて敏感な頗る功名心の強い反面があつた。その最大の欠点は正邪を問はず苟くも自己が是と信じたことは如何なる悪辣なる手段を以てするも貫き通そうとする反省なき実行家であつた。
氏は私に対しては一歩を譲って居た。それは氏が若き日に女色に溺れ私に救はれたことがあつたのと、私が腕力に於てはるかに氏に勝って居たことがその主なる理由である。故に氏は私に対してはあまり氏独得の大言壮語は敢てしなかつた。
団隊長会議は三日間に亙って行はれた。此間氏は私の官舎に宿泊し、私は彼と起居を共にした。私はこの間驚くべき事実を彼の口から聞いたのである。それは世界を驚倒せしめた南京附近に於ける中国人大量虐殺の真相である。
彼は或る日私に語った。曰く
「南京攻略のときには自分は朝香宮の指揮する兵団の情報主任参謀であつた。上海附近の戦闘で悪戦苦闘の末に漸く勝利を得て進撃に移り、鎮江附近に進出すると、抗洲湾に上陸した柳川兵団の神速な進出に依って退路を絶たれた約三十万の中国兵が武器を捨てて我軍に投じた。この多数の捕虜を如何に取り扱ふべきやは食糧の関係で、一番重大な問題となつた。
自分は事変当初通州に於て行はれた日本人虐殺に対する報復の時機が来たと喜んだ。直ちに何人にも無断で隷下の各部隊に対し、これ等の捕虜をみな殺しにすべしとの命令を発した。自分はこの命令を軍司令官の名を利用して無線電信に依り伝達した。
命令の原文は直ちに焼却した。
この命令の結果、大量の虐殺が行はれた。然し中には逃亡するものもあってみな殺しと言ふ訳にはいかなかつた。
自分は之に依って通州の残虐に報復し得たのみならず、犠牲となつた無辜の霊を慰め得たと信ずる」
と。私は始め自分の耳を疑つた。そしてこの長氏の言葉を長氏一流の大言壮語と見てこれを信じないことにした。
終戦後私は種々な関係から、南京周辺に於ける日本軍の残虐行為の全貌を知ることを得た。そして如何にしてかかる大量の虐殺が行はれたかを検討して見た。その結論として私は嘗て朝鮮羅南に於ける長氏の言の真実なることを肯定せざるを得なかつた。何んとなればかかる大量の虐殺は軍隊の統制ある集団的行為を以てするにあらざれば絶対に不可能であるのみならず、この軍隊の統制ある集団行為は上司の命令に依ってのみ始めて実行に移すことが出来るからである。この外に長氏の言の真実性を裏書きするものは隣接の柳川平助中将の兵団に何等の残虐行為がなかつたことである。
長氏は昭和六年の三月事件の中心人物であり、翌年の夏上海に私を尋ねてきた。私は当時公使附武官であった。氏は私に対して得々と事件の内容を物語り、同時に氏は自らフランス革命に於けるマラー、ダントンを以て任じて居た。私をして言はしむれば氏は極端に芝居気の多い人であった。その反面多分の残虐性を持って居た。故にマラー、ダントン等の性格と一脈相通ずるものがあつたことは事実である。
鎮江附近の捕虜の前後処置は、縦令それが大量であつても若し冷静に判断して対処するならば極めて単純である。それは武器を押収したる後釈放して故郷に還すことである。戦場は中国の領土であるから、その実行は極めて容易である。然るに長氏の残忍性は、通州の報復を名とするこの大量の虐殺を生んだ。一度び血を味つた者は人を殺すことを日常茶飯事としか思はぬ猛獣と類似の人間となるのが常である。鎮江附近に於て大量の血を啜ったこれ等の将兵は南京入城と共に、その兇暴性を増した。当時に在って世界を驚倒せしめた南京の残虐事件は詮じ来れば長氏一人の独断が生んだ惨劇であつた。
長氏が報復を叫んだ通州事件とは如何なる内容のものであらうか。それは昭和十二年七月三十日冀東政府の首都通州に於て冀東保安隊の手に依つて行はれた二百数十名の日本居留民の虐殺事件である。
この事件の発端は、当時承徳に在つた日本軍の軽爆撃隊の誤爆からである。通州には元来冀東保安隊二ケ大隊と宋哲元氏の二十九軍麾下の一ケ大隊と、日本軍の歩兵一ケ大隊が駐屯して居た。この日本軍の歩兵一ケ大隊は二十九日夜南苑の攻撃に参加するため北平方面に出発した。三十日朝からこの冀東の保安隊の二ケ大隊は南苑を攻撃する日本に軍策応して、通州の西南端兵営に蟠居して居た二十九軍の一ケ大隊に対して攻撃を開始した。この攻撃を援助するため承徳から中富少将の指揮する軽爆隊が出動した。この軽爆隊は軽率にも、二十九軍の一大隊を友軍と誤り、友軍である冀東保安隊を敵と見て痛烈なる爆撃を浴びせた。冀東保安隊は激怒した。そして攻撃を中止して二十九軍と合流し叛乱を起した。殊にこの叛乱に拍車を掛けたものは日本軍が南苑に於て大敗を喫したとの宣伝であつた。
叛乱軍は直ちに冀東政府の首席殷汝耕氏以下の主なる官吏を逮捕すると共に細木特務機関長以下の日本居留民の殆んど全部を虐殺した。これが通州事件の全貌である。
南京周辺の残虐行為は通州事件に非すればその規模に於て亦深刻さに於て正に雲壌万里の差がある。然し何れも日華事変の過程に於て日華両民族の間に生じた拭ふべからざる歴史上の汚点であることは間違いはない。
長氏は昭和二十年の春沖縄に於て戦死した。殷氏も南京に於て断頭台の露と消えた。我等は今日一切を恩讐の彼方に没し去り、将来断じてかかる愚昧にして野蛮極まる行為を繰り返してはならぬ。
(「裁かれる歴史 敗戦秘話」P44〜P48)
ゆう注 旧字は新字に改めました。送り仮名は原文に従いました(「行はれた」「あつた」等)。「独得」など明らかな誤字もありますが、そのまま掲載しました。
なお、「三十万の中国兵」が「鎮江付近」で捕虜となった史実は存在しませんが、秦郁彦氏は、これを「山田支隊の捕虜問題」(いわゆる「幕府山事件」のことであろう、との解釈を示しています。(「南京事件」P144)
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