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2007年08月30日
外務省が公表した外交文書
30日付で外務省が外交文書を公表した。20回目だと言う。最初に公開したのは76年だが、やはり何と言っても情報公開法(行政機関の保有する情報の公開に関する法律)が施行された2001年から、外交文書の公開が外務省にとって俄然重要な問題となった。
今日のブログはこの問題について書く。もっともその内容は、今回公表された外交文書の持つ歴史的意味ではない。それについては今後多くの識者が読み解いていくことであろう。30日の各紙にもいくつかの興味ある解説記事が載っている。しかし所詮外務省が公表する外交文書であるから、ろくなものはない。
私がこのブログで書きたい事は、外務省による情報公開の迷走振りである。外務省の内部からそれを見てきた者としてあらためてそう思う。当時の状況を体験的に振り返ってみたい。それがこのブログの目的だ。
情報公開法が出来るという1990年代末の外務省の狼狽振りは相当なものであった。どうやって外交文書の公開に対応するかが連日議論されていた。そのために特別の部局が作られ、担当官までも選定された。
問題はこの外交文書の情報公開という重要かつ困難な問題に取り組む態勢が弱体であったということだ。外交文書のすべてに目を通し、どこまでを公開するかの判断は、極めて高度な作業である。それを出来る者は最も外交を熟知し、どこまで公表すればよいかギリギリの判断をする優秀な職員でなければならない。極端に言えば、外務省の叡智を結集して取り組まなければならない一大作業なのである。
ところが実際がそれを担当する部局も、担当させられる職員も、三流であったということである。外務省の愚かなところは、本来重視しなければならない総務的なところに三流職員を配置し、偉くなりたい一心の自称エリートが、われ先に脚光を浴びる外交の最先端に群がるということである。そもそもそのような外交の第一線の仕事は、誰がやっても大差はない。今日の外交に個人的スタンドプレーは必要ではないし、むしろ有害なのだ。
重要な事は、目立たないが、的確な判断を必要とする内部の仕事なのである。情報公開法の施行に際して、外務省としてどう対応すべきかという問題こそまさにそのような重要問題であった。
ところがそれが軽視された。公開さるべき情報の判断をする立場のポストに、判断のできない人間が配置された。面倒くさいからすべて非公開にしろとなる。あるいは判断できなければすべて焼却しろという事になる。まさにこの事が行われてきたのだ。情報公開法ができたら面倒な事になるから少なくともファイルのシステムを整えろと、金をかけて新しいファイルを導入したり、機密度のランキングを、極秘、秘、取り扱い注意、などと詳細に定めたり、保存期間を5年、10年、永久保存などとマニュアルを作って見たりしたが、肝心の判断を誰もしなかった。今から思えば驚くべき迷走振りである。
その迷走ぶりは今もまったく変わっていない。改善する気も、能力もないのだから、改善されるはずがない。今回公表された文書が、米国や韓国などの関連諸国の情報公開にくらべてあまりにも内容が乏しいといって報道機関にねじ込まれ、一ヵ月後に再度追加公表する事になったという。一ヶ月間関係職員は大変な作業を強いられることだろう。しかもそれをやらされるのは三流職員だ。一流職員は安倍政権の浮上の為に外交を捏造することにおおわらわだ。外務省がまともな外交が出来ない最大の理由がそこにある。
http://www.amakiblog.com/archives/2007/08/30/#000503
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