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2007年09月16日
優しい世代
12日の毎日新聞「発信箱」で、礒崎由美という記者が、「優しい世代」というタイトルのコラムを書いて一つの問題提起をしていた。東京でこの夏に行なわれた20歳―30歳の若者のトークライブにおける激論を聞いた後の所感であるという。
会社や組織を嫌い、わが道を行くタイプは昔からいた。しかし最近の若者の労働観はどこか違うというのだ。
「お金がなくても人間らしく暮らせればいいじゃないか」、「人をけ落としてまで生きたくない」、「社長だけ高い給料をもらうなんてオレには無理。一緒に働く人からどう見られるか考えたら、耐えられないもの」などと言う若者の言葉を聞きながら、その心象風景に当てはまる言葉を探せば、少し違和感はあるが「優しさ」ということではないか、と磯崎記者は次のように書いているのだ。
「・・・ニートや引きこもり、うつ病。利益優先の経済活動に適応できない若者は増えている。団塊世代の親たちのように、組織の歯車となり、マイホームや老後のために働く生き方には魅力を感じない・・・自分に向き合い、仲間と支え合い、無意味な競争にさらされない。そんな仕事を追い求める・・・それを『甘い』と責めるのは簡単だが、もはやその優しさは社会システムに組み込まれている」のではないか、と言うのである。
おそらく礒崎記者はバリバリ仕事をする有能な記者であろう。自分は決してそのような生き方をしない。人をけ落とさないまでも、すくなくとも自分は競争社会に勝ち抜いて成功しようとする上昇志向の人であろう。だからこの若者のトークに少し「違和感」を持つのだ。私自身がそうであるから磯崎記者の心が読める。
しかし、彼女がこのような記事を書いたの、低賃金に甘んじても自分の好きな生き方をしたい、それが少しでも人にためになればそれだけで満足だ、という若者たちの生き方に、ひょっとしてそれも正しい生き方なのではないか、感じ始めたのではないか。もっと言えば、重労働低賃金に耐える青年から「お年寄りの笑顔を見るとつらい事も忘れるんです」と聞くと、自分の生き方よりも立派なのではないか、自分が果たしてそのような生き方ができるか、と、彼らの生き方に敬意すら抱き始めたのではないか。その思いが、彼女を「複雑な気持ち」にさせているに違いない。それもまた今の私の心境である。
もう三年ほど前の話だが、私は講演で北海道の片田舎を訪れたことがあった。その時出会った若者の言葉を思い出す。可愛い奥さんと二人で東京から最近移り住んだというその若者は、土地を借りて乳牛の放牧で生計を立てていた。年収約300百万円と聞いて、「牛の数を増やせばもっと収入が増えるのに」とたずねた私に、「それはその通りです。しかし今は食べるものは自給自足だし、ここは物価も安いし・・・300万円あれば十分です」という答えが返ってきた。私は自らの愚問に恥じ入ったものだ。
思えば私の人生は、他の多くの同世代の人々と同じように、学歴社会、終身雇用制度の下に競争社会を生き抜き、勝ち抜いてきた。その生き方に悔いはない。しかしすべてが終わった今その人生を振り返る時、もっと自由な生き方もあったと思う。
そしてここから書くことが今日のブログの言いたい事である。うまく表現できないが私が言いたい事はこういう事である。
経済的安定や社会的見栄と引き換えに、人をけ落としてまで出世競争に一生を終わる人生。それを放棄して、自分に忠実な、自由な人生を送ろうと決断する時、何が一番の障害になるか。
それは自尊心でも、社会的見栄でもない。最後の決め手は経済的な不安である。たとえば若者が早い段階で最低限の家を確保でき、食費、光熱費などの物価が安くなり、病気になった時の国の保障が完備していれば、その若者の生き方の選択は無限大に広がることだろう。
富豪や、贅沢三昧の生活に憧れる人はいるだろう。権力や地位を求めてしゃにむに働く人生を選ぶ人がいてもいい。しかしそのような人生に積極的な価値を見出さない人たちが、堂々と自分の好きな人生を選べるような社会こそ理想ではないのか。そんな社会を実現する事こそ政治の責任ではないのか。ところが現実はどうだ。生きていくだけであまりにもカネがかかる。少ない収入でももっと豊かな生活ができないのか。
このような厳しい現状でも「優しい世代」が育ちつつあることは一つの救いである。その世代が増えていくような経済、社会環境をを整える事こそ政治の責任であると思う。誰が自民党の総裁になろうとも、誰がこの国の総理になろうとも、まず政治家は真剣な政治を行う事が先決だ。
http://www.amakiblog.com/archives/2007/09/16/
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