★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK41 > 114.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
[原理主義の罠]もう一つのイタリア美術都市、パルマから見えた「美しい国」の欺瞞性
<注記>お手お数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070822
[画像の解説]
【画像1】コレッジョ『聖母被昇天』(Parma Duomo)
[f:id:toxandoria:20070822205824j:image]
Correggio(Antonio Allegri/ca1494-1534)「Assumption of the Virgin」 1526-30 Fresco 1093 x 1195 cmDuomo 、 Parma
パルマのドウオーモ(Duomo Parma)
[f:id:toxandoria:20070822205951j:image]http://www.aboutromania.com/parma18.htmlより
左がドウオーモで、右は洗礼堂です。ドウオーモ(Duomo)といえば普通はフィレンツェの「花の聖母教会」のようなクーポラ(円蓋)を思い出しますが、元々Duomoとは司教座が置かれた聖堂の呼び名です。このパルマのドウオーモは12世紀末ごろに完成した、司教座が置かれたロマネスク様式の教会建築です。従って、クーポラがなくてもドウオーモと呼ばれる訳です。
コレッジョ(パルマ近郊のコレッジオ生まれ)は、特にレオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci/1452-1519)の影響を受けたパルマ派を代表する画家で、バロック絵画の創始者の一人と看做されています。そして、忘れてならないのはヨーロッパ伝統の天井画の完成者でもあるということです。コレッジョの最初の天井画はパルマにあるサン・パウロ修道院の「聖パオロの間(Camera di S.Paolo)」のクーポラに描かれたもの(1519)です。これは16本のリブが放射状に開いた天井にギリシア・ローマ神話の神々を装飾的に描いた作品で、そこでは未だ立体的な空間が表現されていません。
二番目の作品は、サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ聖堂(S.Giovannni Evangelista)の天井に描かれた「聖ヨハネの彼岸への旅立ち」(Passing away of St John、1520-21)です。コレッジョは、この天井画で、キリストを中心に置く群像の短縮表現と頂点から放射する光の明暗だけで自然光が入らない天井に立体的な空間(天空)を表現することに成功しています。
三番目の作品が、パルマのドウオモの天井に描かれた【画像1】の『聖母被昇天』(1526-30)です。ここでは、八角形に仕切られた縁の上に半球形の空間がありますが、コレッジョはここに一層複雑な構図を完成しました。八角形に仕切られた縁の内側には八個の丸窓があり、そこから入る自然光が複雑な陰影を天蓋空間につくります。コレッジョは、これらの複雑な効果を組み合わせて見事な「上昇のイリュージョン」を創造しました。それは絵画による比類ないダイナミズムの完成であり、これこそがキリスト教建築分野における天井画の新しい伝統の完成です。
【画像2】コレッジョ『幼児キリストを礼拝する聖母』
[f:id:toxandoria:20070822210110j:image]
Correggio「The Adoration of the Child」 ca1525-26 Oil on canvas 81 x 67 cm Galleria degli Uffizi 、 Florence
この『幼児キリストを礼拝する聖母』は、バロック絵画の先駆者としてのコレッジョを決定づけた作品です。これは、レオナルド・ダ・ヴィンチの明暗法やヴェネチア派の色彩(ティツィアーノら)を学びつつも、その単なる継承であることを超えています。いわば、この絵画は、ドラマチックな明暗と豊麗で官能的な色彩、そして繊細なデッサン力を駆使しつつコレッジョ特有の深みがある、聖なる光に満ちた優美の空間を実現しています。
【画像3】パルミジャニーノ『長い首の聖母』
[f:id:toxandoria:20070822210329j:image]
Parmigianino(Francesco Mazzola/1503-1540)「Madonna dal Collo Lungo (Madonna with Long Neck)」 1534-40 Oil on panel 216 x 132 cm
Galleria degli Uffizi 、 Florence <注> この【画像3】は当展覧会で展示されていない。
パルマ生まれのパルミジャニーノは、ラファエロ(Raffaello Santi/1483-1520)とコレッジオから感化を受けましたが、特にコレッジオから大きな影響を受けています。一般には、宗教画より肖像画が優れていると看做されていますが、著しく細長い人体の描写が特徴となっています。また、パルミジャニーノは、イタリアで初めて銅版画を手がけた画家とされています。
この聖母像は、小さすぎる頭部から始まる身体の線が足の先へ向かってうねるように、それは、まるでアラベスクのように流れています。が、このように細長い人体の表現はイタリア・ルネサンスの一つの到達点であり、それは<美しいマニエラ(理想の様式)>と呼ばれていました。なお、この絵の主題は難解なことで有名であり、一説では“聖母マリアの無原罪”を意味するとされています。
やがて、この細長い流麗な身体の線のマニエラは、「宗教改革←→対抗宗教改革」の怒涛のなかで、いささか苦悩と退廃の空気を帯び始めます。それがマニエリスムス(独Manierismus/ドイツ美学で創られた様式概念/およそ1530-1600年ころの盛期ルネサンス〜初期バロックの間に適用)の誕生です。やがて、このコトバは時代の流れとともにマンネリズム(mannnerism/新鮮味がない同じ趣向の繰り返し)へ変容してゆきます。
・・・・・
[感 想]
期せずして『パルマ−イタリア美術、もう一つの都』(国立西洋美術館/5/29〜8/26、http://parma2007.jp/)を訪ねる機会があり、“パルマ派”の絵画を堪能したので、思うところを纏めておきます。
同展のリーフレットには次のような案内が書いてあります。・・・世界的にもきわめて貴重な機会となる本展は、コレッジョやパルミジャニーノといった優れた芸術家が活躍したルネサンス期から、独自の文化がファルネーゼ家の庇護のもと栄えた16世紀後半から17世紀バロック期までを視野に入れながら、パルマの芸術文化を広く紹介しようとするものです。コレッジョやパルミジャニーノが登場する背景と、その後、コレッジョが到着した「優美」な世界がバロック絵画に与えた影響を、数多くの作品により展開します。近代の美術のみならず、19世紀の文学や音楽を含めた芸術全般にわたって多くの芸術家を魅了し続けたパルマ。本展は、その魅力を日本ではじめて紹介するものです。・・・
パルマ(Parma)はイタリア北部(エミリア・ロマーニャ州同名県の県都/ミラノから直線距離で南東へ約130km)にある人口が約17万人の小さな地方都市です。その歴史を辿れば古くはエトルリア、ケルトまで遡りますが、都市の形を決めたのはBC2世紀のローマ人による植民都市で、パルマの名(丸い盾の意味)はその都市が「丸い盾」の形をしていたことに由来します。その後、5〜6世紀には東ゴートとビザンチン(東ローマ帝国)が進入し、次いで8世紀にはランゴバルド人の支配を受けます。
その後はフランク人が侵入し、小ピピンを継いだカール大帝(Karl der Grosse/Charlemagne/742-814、位768-814)の時には司教伯が置かれます。その後は神聖ローマ帝国とローマ教会の狭間にありながらも、12世紀半ばころからコムーネ(Comune/共同体的な自治都市)の体制が見られるようになりますが、皇帝派(Ghibellini)と教皇派(Guelfi)の抗争の隙を突いた形で14〜15世紀はミランのヴィスコンティ家(Visconti)とスフォルツア家(Sforza)の支配を受け、ミラノの衛星都市としての性格が生まれます。
15世紀末にはミラノ公国がフランス・ヴァロワ家に占領され、パルマもフランスの支配下に入りますが、16世紀前半にはフランス・ヴァロワ家がハプスブルク勢力(ドイツ、ネーデルラント、スペイン)に取り囲まれる形となります。これにカトリックとプロテスタントの対立が絡み、激しく入り乱れた戦乱の時代に入りますが、その過程で神聖ローマ皇帝カール5世軍(ドイツ軍)による「ローマ略奪(Sacco di Roma/1527年5月/この時、ドイツ軍には新教徒が多かったとされる)」が起こります。
しかし、1545年にファルネーゼ家(Farnese/傭兵隊長出のローマ貴族)出身の教皇パウルス3世(Paulus 3/1468-1549)は、神聖ローマ皇帝カール5世(Karl 5/位1519-1556)と和解して、息子のピエール・ルイージ・ファルネーゼ(Pier Luigi Farnese/1503-1547)をパルマ公として強引に送り込みます。これが、ファルネーゼ家によるパルマ公国の始まりです。
1730年にファルネーゼ家の男系が絶えたため、ファルネーゼとブルボン家のフェリペ5世(スペイン王/スペイン・ブルボン朝で最初の国王で仏ルイ14世の孫/位1700-1746)の子であるカルロス1世がパルマ公国を継いだため、この頃からフランスの影響を大きく受けるようになります。
19世紀初めにはブルボン家とオーストリア・ハプスブルク家が婚姻関係によって接近し、ウイーン会議(1815)によってパルマ公国の主権はナポレオン1世(Napoleon Bonaparte/位1804-1814、1815)の妻(オーストリア皇帝フランツ1世の娘)パルマ公マリー・ルイーズ(Maria Luisa/1791-1847)に委(ゆだ)ねられ、やがて1860年にはサヴォイ王国に併合されます。
現在のパルマは、歴史・宗教・美術都市であるだけでなく、音楽・食文化(パルメザンチーズ、豚肉加工食品等)、文学(スタンダール『パルムの僧院』(名優ジェラール・フィリップ主演のフランス映画が懐かしい!)の舞台等)、洗練されたフランス的都市景観など、非常に個性的な文化的魅力が溢れています。
このように周辺の歴史を概観すると、北イタリアの小さな地方都市にすぎないパルマは、強大な政治権力の入れ替わり立ち代りの交代によって翻弄され続けてきたことが分かります。そして、特にコレッジョ、パルミジャニーノらパルマ派の重要な画家たちが活躍した時代は、フランス・ヴァロワ家、ハプスブルク家(神聖ローマ帝国)、ローマ教皇の三つ巴の激しい抗争に加えて「宗教改革の嵐」が重なった怒涛のような時代であったようです。
やがて、16世紀後半〜17世紀前半ころ(ほぼオランダ独立戦争(1568-1609)の時代に重なる)になると、コレッジョ、パルミジャニーノらパルマ派の重要な画家たちの成果はボローニャ(Bologna)を中心に活躍したカラッチ一族(Carracci Family)によって引き継がれ、イタリア・バロック絵画が確立することになります。
それにしても、このような地方の小都市パルマで、しかも激しい動乱が続く一つの時代において、コレッジョがヨーロッパにおける新しい天井画の技法を完成させるとともにバロック絵画の伝統に先鞭をつけ、パルミジャニーノがイタリア・ルネサンスの一つの到達点である<美しいマニエラ(理想の様式)>を完成させるとともに、イタリアで初めての銅版画に着手したという真に目覚しい実績を創ったことは驚きです。
しかも、歴史の概観から分かるように、北イタリアの小都市パルマは、決して怒髪天を抜くような勢いの政治権力、経済力、軍事力などの中心地ではなく、それどころか、敢えて日本流の何でも人口規模で比べる価値観に照らすならば、それは地方の二・三流都市であるに過ぎません。しかしながら、パルマのような“地方の二・三流都市”ながらも、ヨーロッパのみならず世界中に大きな影響力を及ぼすような「強力な文化力の創造」を見せてくれる都市は、現在のイタリアには数多く存在します。例えば、それはペルージャ、ラヴェンナ、ピサ、シエーナ、マントヴァ、フェッラーラ、ボローニャなどです。
実は、このような事情はイタリアに限ることではなくヨーロッパ各国に共通することのようです。しかし、その中でも、特に近代国家としての統一が遅れたと看做されるイタリア・ドイツの両国には珠玉のような地方の歴史的な中・小都市が今でも生きいきと存在しています。しかも、その魅力の光源は、絵画・造形美術・音楽だけに限らず、出版文化、食文化、服飾文化、教育活動など実に多様な伝統・生産活動・地域文化・観光資源などに及んでいます。
これらの煌くような文化の種、つまりそれぞれの個性的な都市の小さな交流拠点では個性的な各都市の歴史を生かした限りない創造的活動が行われています。そして、これらイタリアあるいはドイツ中に散らばる数多の中小都市は、多様な人的・文化的・政治的・経済的ネットワークで結びつき多様なクラスターを生成しており、あたかも、そのグローバルな交流全体の姿には、優美なタペスリーを織り上げるような、あるいは華麗なシンフォニーを演奏するようなイメージがあります。
このような観点から眺めると、アメリカ型グローバリズムと市場原理主義による弊害が大きく立ちはだかる絶望的時代になったとはいいながらも、これらヨーロッパの国々には未だまだ希望への手がかり(=地方中小都市の輝きと煌き)が健在であるようです。翻って、わが国で今行われているのは、新自由主義思想にかぶれて一極集中を更に加速し、うわべだけの自己責任論で経済社会における過酷な弱肉強食と生存競争を煽り続け、古典的な“劣等処遇の原則”の観点から格差拡大を囃し立てることです。
地方と地域の文化・経済の崩壊を敢えて促す一方で、世界でトップクラスの「軍需(事)大国」化(現在、日本の軍事予算規模は米国・中国・ロシアに次いで世界第四位)による“トリクルダウン幻想”をふりまく一方で「中間層の没落傾向」は放置されており、統計的には、今や四世帯の中で一世帯はゼロ貯蓄化しており、アメリカ型サブプライムローン社会の実現も指呼の間となっています。
その上、ホンネであるアナクロでカルト的な「外見的立憲君主制と軍事国体論への回帰願望」を誤魔化すため、姑息にも、「靖国神社参拝は適切に判断する」あるいは「戦後レジームからの脱却」という意味不明の看板を掲げて一般国民を誑(たぶら)かしてきた<イカサマ師的な小泉劇場>から<安倍の美しい国>への一般国民を舐めきった馴れ合い政治の流れは、まさに浅薄な“偽装右翼的カルト思想”(万世一系型・軍事国体原理主義 ← 正統保守主義からは程遠い狂信の精神環境)による国民への折伏行為であり、日本国民の子々孫々へ向けての弊害はあまりにも大き過ぎます。
・・・・・以下は、[2007-08-18付toxandoriaの日記/美しい国が煽る「死のバブルの増殖」と国民主権の後退、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070818]へのコメント&レスの転載です・・・・・
pfaelzerwein 『ひたすら「理念的平和論」を説いても一般国民の耳になかなか入りにくいという厳しい現実がある以上は、些かでも平和の実現について理想を持ち、かつ冷静で理性的な精神環境と・・・中略・・・一般国民に対して、もっと熱心に分かりやすく説明すべきだと思います。―
全く同感なのですが、これをしてマスメディアとジャーナリズムが欠けるものとして、いつものように嘆くしかないのでしょうか?ここに国民を主権とする、基礎教育の重要さがあって、議論の中で自己判断が出来るようになる教育が義務教育であるべきなのでしょう。決して、教育勅語やご真影を掲げることではないことは誰もが知っているにも係わらず、昨今のような直に再修正しなければいけない教育基本法の改悪などの動きがあるのか、大変理解に苦しむところです。「民度の低さ」へと導く教育とある種の国民の同一性が問題の基盤にあることを考えると、教わることよりも学ぶことの重要性を説いていく必要があるのかもしれません。』 (2007/08/19 16:34)
toxandoria 『pfaelzerweinさま、コメントありがとうございます。
“強引な教育基本法の改悪”がある一方で、“自衛隊の海外派遣恒久法案の凍結”が報じられています。結局は政権与党といえども、確たる信念というよりも目先の利害を最優先するというか、無定見な日和見の姿勢がみえみえです。また、国民一般も“ものごとの根本”について自ら考え、学び取ろうとする姿勢に欠けており、むしろ、お仕着せに甘んじる傾向が強いようです。
見方しだいですが、これは「中庸」または「寛容」を貫く“強さのようなもの”が身についていないからではないかと思います。このため、「日和見、カルト的原理主義、群れやすさ、飽きっぽさ、キレ易さ」のような、別に言えば「独特の軽薄さ」に流され、際限なくブレ続けているのだと思います。
例えば、「美しい国」を支える知識人の多くが“フランクフルト学派=アカの巣窟”と看做す一種の「カルト的陰謀史観」に嵌ったり、かなり裕福な親たちも含めた大人たちが「学校給食費不払い」を主張したりするような動きが際限なく現われるのだと思います。結局は、教育の根本的なあり方の問題ではないかと思います。』 (2007/08/20 08:00)
▲このページのTOPへ HOME > 政治・選挙・NHK41掲示板
フォローアップ: