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前の回、小選挙区制は二大政党制(二党制)をもたらすものであることを書いた。
http://luxemburg.blog112.fc2.com/blog-entry-23.html
政治的な意思決定なんて二者択一になんてできるわけがないのに、無理矢理自民党、民主党のどちらかに決めるか、さもなければ死票という選択を迫られる不合理、さらにその二大政党がどちらの総花的なことしかいわなくなり、次第に似通ってくるため、ますます国民の意思が反映されない狭められる。
それでも、二大政党制がよいかのようにいわれるのは、どうしてなのか。
学者たちのレベルでは、二つ理由があるようで、一つは、私もよくブログに書くインクリメンタリズムである。政治的な意思決定というのは多数の選択肢が存在するように見えて、実際には多くの場合二者択一の中から行われるし、極端にいうと事実上二者択一にならない限り効率よく意思決定が行われないとするものである。さらに、この二者択一は、現状維持か変更かという問いになって現れることがほとんどであり、二大政党制に即していうと、現状維持か政権交代か、という問いになる。確かに明快であり、しかも小選挙区制によって得られた二大政党制の場合、結構はっきりした議席の差になることから、与党の責任がはっきりしているから、国民は明快に与党にNoを突きつける。
これがわかっているから、与党もまたいくら議席が多くとも無茶はできない。即座に政権交代が待っているからである。
ちなみに、先日の社会保険庁を巡る混乱の中で小選挙区制から絶対多数の議席を有する与党が失政について野党や労働組合の責任になすりつけようとしたが、結果反発を招いたのは当然ということになる。
また、もともと大した票の差がないのに、圧倒的な支持でもあると勘違いしたのか、強行採決を連発したのは、小選挙区制に対する最低限の理解すらないレベルの与党指導者ということになろう。
話を元に戻すと、この二者択一は、前の回で書いたとおり、伊勢丹でなければ高島屋という程度のものであって、似通った政党の間を政権が行き来して目先が変わるだけのことである。国民が何らかの価値判断をすることによって政治が変わる可能性は限定されることになる。それに、ある集団が意思を決定する場合にこれがいえたとしても、選挙制度が二大政党制である必要は全くない。
もう一つの理由は、一党制は独裁、多党制は混乱、という妙な図式があるかららしい。一党制は独裁というのは一応わかるけれども、多党制が常に混乱なのかどうかはよくわからない。第一次世界大戦後のワイマール共和国において比例代表制に伴う多党制がナチスの台頭を招いた、とする総括は確かにあるが、ナチスの台頭が選挙制度、政党のあり方のせいというのはあまりに皮相的な分析で、ほとんど論外だろう。たとえば現在のドイツも多党制と言っていいが、ナチスの台頭を思わせるような兆候は見られない。
ナチスが全権委任法を成立させたといっても実際には、比例代表制のおかげで国会内では過半数すらとれていなかった。だから、たとえば共産党の議員を逮捕して議会に出席できなくするなどの手段によって独裁を完成させたのであり、決して民主的な方法によったわけではない。もし小選挙区制だったら、とっくに政権を掌握し、本当に国民の意思でナチスを選んだという汚名をドイツ国民は着せられていただろう。財界にとって使いやすい保守に大政党制を導くためにこんな悪質な議論までするのである。
学者の議論を別にして、国民のレベルでいうと、私たちにとって二大政党制というと、結構「先進国の制度」というイメージがないだろうか。確かにイギリスやアメリカでは見かけ上政権交代が生じて、民主的で、健全な議会制度が運営されているようなイメージがある。しかし、実際にはアメリカ、イギリスといえば地球上最悪の侵略国家である。我々がもっとも見習ってはならない国々といえる。イギリスなどでもイラク戦争に対する反対は強いというが、国内政策はある程度労働党に対する支持も高く、結局前に書いたとおり、二者択一となれば仕方がないものとして、どちらかの政党が支持されたことになってしまう。ほかに選択肢がなくなるのである。公共のインフラは破壊され、犯罪とテロの国になりつつある両国の国民も哀れな存在である。
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