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http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20070719/130222/?P=1
新しい教育基本法が及ぼすであろう影響を推察すると、私は今も、教育基本法は改正すべきではなかった、と考えています。こんなふうに言うと、守旧派や抵抗勢力のように誤解されやすいんですが、そうではないんです。私に言わせれば、今回の改正教育基本法のほうが時代遅れなんです。
教育基本法の改正、学校教育法(いわゆる教育三法の一つ)の改正、教育再生会議での議論などに共通して流れている道徳主義や愛国主義の考え方が、これからの時代にとって、決してプラスではないと考えています。ここでは、2つの点を論じたいと思います。
日本の今と未来に重大な影響
ひとつは、道徳や規範を過度に強調する教育への転換が、これからの時代の私たちの社会にとって本当に必要な、多様な公共性の可能性を封じ込めてしまうのではないか、という点です。その意味で時代の変化にそぐわないのではないかと思うのです。
もう少し説明が必要です。道徳や規範を強調する論者は、「わがまま勝手な個人が増えてきた」といった時代認識を打ち出します。道徳や規範を身につけない個人が増えてきたせいで、社会がバラバラになっている、といった像です。
「バラバラな個人の不安定さ・危なっかしさを考えるなら、『愛国心や道徳』をきちっと教え込むほうがましではないか」という議論は、一見すると説得力がありそうです。
しかしながら、私に言わせると、この議論は重要なところで間違えています。
「社会総がかり」「親学」のうさんくささ
「バラバラな個人」か、それとも「愛国心や道徳」か、という二分法的な議論の仕方がそもそも間違いだ、と思うんですよ。「バラバラな個人」に対置されるべきものが、「愛国心や道徳」だ、というのが短絡だと思うんです。
「バラバラな個人」か「愛国心や道徳」か、という二分法ではなくて、「自分のことしか考え(られ)ないこと」と、「社会や他人について、ものを考えること」という二分法に置き換えてみる必要があると思います。「自分のことしか考え(られ)ない」ような個人であふれた社会は、私も大いに問題だと思います。だから、もっとみんなが「社会や他人について、ものを考える」ようになればよい、と思います。この点には、ほとんどの人が合意できるはずです。
ここで重要な点は、「社会や他人について、ものを考えること」と「愛国心や道徳」とは、イコールの関係ではない、ということです。愛国心や道徳・規範の強調は、「社会や他人についてものを考える」際のひとつの在り方ではありますが、きわめて特殊なタイプであると言えます。そこでは、「誰もが納得する『正しさ』があらかじめ存在している」という、きわめて特殊な前提が置かれているからです。
今、「教育を通して愛国心や道徳を教えろ」と叫ぶ人たちは、自分たちが「正しい」と思っている価値や態度が万人にとっても「正しい」、と思い込んでいます。教育再生会議で「社会総がかり」とか「親学」などと言っている人たちは、そういう人たちです。「ワシが『正しい』と思っているものは、社会全体にとっても正しいはずだ」と決めつけるような感じです。「望ましい価値や規範」について、決め打ちしちゃっていると思うんです。
「バラバラな個人」への対処は道徳主義だけじゃない
かつてのムラのような狭い共同体ならば、「何が正しいかはあらかじめ決まっている」と平気で言うことができました。しかし、今や、わたしたちの社会は、多様な価値観や理念によって構成されています。いろんな人がいろんな価値観や理念を持って生きている。その多様な人たちが相互に関わりを意識し、関係を取り結ぶ。――それが21世紀に必要な社会への態度だと私は思います。
つまり、「バラバラな個人」に対置されるものを考えようとする時、一元的な価値や道徳的基準を考えるか、それとも、多元的な価値や道徳的基準の複数性を考えるかという、大きくいって2つの方向性があります。
しかも、価値の多元性や基準の複数性を認める後者の立場においては、「公共性」を紡ぎ出していくやり方に、たくさんのバリエーションが考えられます。人によって「正しさ」の基準が異なっているとすると、社会全体でどう折り合いをつけていくか、どういう手続きで、何に優先順位を与えるかについて、さまざまなやり方が考えられるからです。
その意味で、教育基本法改正に反対していたいわゆる左翼の人たちの語り口は、私に言わせると、不十分さが目につきました。「公によって私がおびやかされるぞ」という論点ばかりが強調されていたように思うからです。
多様化に向かう社会に逆行
むしろ、強調されなければならなかったのは、多様な価値観を前提にした公共空間の創出の可能性が、狭量な道徳主義によって封殺されてしまいかねないという危険性です。ただ1種類の「正しさ」しか認めない社会は、度量の小さい、硬直した公共空間しか育っていきません。これからの私たちは、多様な公共性の可能性を模索することこそが必要なのではないでしょうか。
現代社会においては、西洋でも日本でも、「個人化」や「私化」が進展してきていることは、多くの論者が指摘してきていることで、私もその点は同じ認識を持っています。「社会や他人について、ものを考えること」をもっと教育の中に組み入れていく必要があります。だからといって、それを一元的な価値や道徳的基準でやっていこうというのは、あまりに古くさい、短絡的な処方箋だと思うわけです。
改正教育基本法は20年前の国家像を引きずっている
そしてもうひとつの問題は、日本と世界との関わりについてです。端的に言えば、改正教育基本法が前提としている、道徳主義や愛国主義を強調する国家像があまりにも古くさい、ということです。
ご承知の通り、経済のグローバル化は不可逆的に進んでいます。大きな話になりますが、これからの日本は東アジア諸国と緊密な関係を結んでいかなくてはなりません。
実際、ここ数年を見ると、政府や財界から「東アジア共同体」「東アジア自由経済圏」といった構想が出てきており、地理的な近隣諸国との連携は日本の今後にとって大きな課題になっています。EU(欧州連合)のような共同体になるまでには時間がかかるでしょうが、脱国民国家のほうへ舵を切る時代に向かっている現実があります。
あまり指摘する人がいませんが、新しい教育基本法はそうした時代とズレてしまっていると思います。
教育基本法改正の答申が出たのは2003年3月ですが、それまでの議論の過程を追うと、新しい教育基本法がめざす国家像は、1980年代までの、1国単位での政治的・経済的サバイバルという枠組みが下敷きになっている、ということがわかります。じつに20年以上も前の国家像がそのまま新しい教育基本法に踏襲されているのです。
このままでは東アジア諸国の「嫌われ者」に…
1980年代当時は、「東アジア共同体」というような動きはまだ見えていませんでした。ですから、一国単位で国際社会の経済競争を勝ち抜くべし、という国家像があり、それを実現するための教育はどういうものか、と考えていました。
「経済のグローバル化」という言葉すらまだメディアに出てこなかった時代ですから、当時の国家像や時代認識を責めようとは思いません。しかし、時代は急速に変化しています。教育基本法という教育の憲法に当たるものを改正するのであれば、21世紀のダイナミックな世界の変動をにらんだ、未来の「国のかたち」までを視野に入れて議論をするのが当然ではなかったでしょうか。
北朝鮮問題と台湾問題とが何らかの形で決着した時、東アジアでの政治秩序の大きな変動が急速に進むはずです。「愛国心と妙なプライドで凝り固まった変な国」として、日本だけが孤立してしまわないかと心配しています。東アジア諸国の中での「嫌われ者」の国ですね。
30年後・50年後のアジアの姿に対応できるか
今年1月に出た、日本経団連の『希望の国、日本』、いわゆる御手洗ヴィジョンも、アジア諸国との経済連携の強化や外国人労働力の受け入れなんかはうたっているんだけれど、経済的なパワーを背景に域内のリーダーシップを握っていこうとする、覇権主義的な雰囲気が強く感じられます。
教育に対するヴィジョンを見ても、世界のグローバル化に対応した価値の多元性や脱国民国家への方向性にはまったく触れず、愛国心や公徳心の涵養を説くばかり。いまや日本にも多くの外国人が住んでいるのに、彼らとの共生という視点はまったく入ってません。
ゲームには他のプレーヤーもいるわけですから、そうそう自分たちの思惑だけが実現するとは思われない。他のプレーヤーたちが別種の結びつきを強めていって、日本だけが総スカンを食うようなことにならねばよいが、と心配します。
教育の成果は、30年後・50年後に大きな意味を持つことになります。今回の改正は、せいぜい10年先ぐらいまでしか見ていない近視眼的な国家像に立っている。30年後・50年後のアジアの姿をきちんとにらんで改正されたとは、私には思えません。
教育は未来を決める力を持っている
そろそろ話をまとめましょう。改正教育基本法に強く出ているのは、時代遅れの、一国主義で内向きな国家像を前提にした教育の枠組みです。
教育を国家100年の計の礎と考えるなら、もっとトランスナショナルな価値に立脚したものへ向けて、早く再改正したほうがよい。偏狭な愛国者を作り出してしまうような教育は、長期的に国益(国民益)に反していると私は思います。
EU統合への動きの足を引っ張っているのは、視野の狭いナショナリスティックな世論だったりします。いずれ日本でも、政治家や財界人が「狭い国益を超えて、東アジアとの包括的な連携を目指すぞ」と言い出さざるを得ない事態が来るでしょう。そのときに、ナショナルなものに固執した世論によって拒絶されたり、跳ね上がり右翼のテロを受けたりする、というようなことが起きなければよいが、と心配になるんです。
教育のニュースというと、ついつい目先の問題だけを取り上げがちですが、教育基本法の改正は、未来社会の選択にかかわる話です。「教育がこれからどうなるか」は、われわれ自身の選択にかかっている部分も大きく、国民の賢明さが問われているんだと思います。
広田照幸(ひろた・てるゆき)
1959年、広島県生まれ。東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。東京大学大学院教育学研究科教授を経て、2006年10月より日本大学文理学部教授。教育社会学、社会史専攻。実証にもとづいた切れ味鋭い議論が持ち味。著書に『日本人のしつけは衰退したか』(講談社現代新書)、『教育に何ができないか』(春秋社)、『教育 思考のフロンティア』(岩波書店)、『教育不信と教育依存の時代』(紀伊国屋書店)、『《愛国心》のゆくえ』(世織書房)など多数。
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