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原爆しょうがない発言の元祖は昭和天皇と米内光政だ
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http://pds.exblog.jp/pds/1/200708/15/98/d0033598_1203351.jpg
アルルの男・ヒロシです。以下に書くのは自分に向けての覚え書きである。
9日の長崎での原爆平和式典に前の防衛大臣の久間章生・衆議院議員は結局出席しなかった。前もこのニュースを取り上げたときに、久間大臣の肩を持つような形で私はコメントしたが、もっと大きい視点で見ると、「原爆しょうがない発言」の元祖はあの昭和天皇の訪米直前の記者会見だと私は他の人同様に指摘しておいた。保守系(という区分けももはや馬鹿馬鹿しいが)かからみると、“一介の大臣”でしかない久間氏が発言するよりも、保守系のヒーローである昭和天皇が、同様の趣旨の発言をしたという事実の方が衝撃的なのに、保守系言論人はこの事について触れようとしない。産経新聞で宮崎哲弥氏が触れていたと、天木直人氏が指摘したが、その程度である。
なぜ、昭和天皇は、米国訪問後に、そのような発言をしたのだろう。私の頭の中では、大体回答が出来上がっているが、それを裏付ける資料はない。おそらく、この問題は、いわゆる「A級戦犯」の合祀問題をめぐっての昭和天皇の発言を記録したという「富田メモ」の問題とも関わってくる。
当時の厚生省は確かリストをいったんは提出したにも拘わらず、途中で取り下げており、戦犯とされた人の遺族の間でも合祀を拒む例(例:広田弘毅の孫の元会社役員、弘太郎氏(67)が朝日新聞の取材に応じ、「広田家として合祀に合意した覚えはないと考えている」と、元首相の靖国合祀に反対の立場であることを明らかにした)もあった。未だに、天皇の言葉ではないとか、徳川侍従長のコメントではないかという声も、岡崎久彦氏などを中心に絶えない。しかし、私の見方では、これはいわゆる文春系の半藤・秦・保阪の三氏らが主張する「天皇は偉かった論」とは別の意味で、昭和天皇は自分の身のために、戦犯合祀を嫌ったのではないかと見ている。これも証拠はない。
さて、まず昭和天皇の原爆しょうがない発言について、当時の新聞にもしっかりと縮刷版に載っていたのだが、ここではそれを「ママオコシ」で文字おこしした内容を示す。これは、現在発売中の鬼塚英昭氏の『日本のいちばん醜い日』に引用された、松浦総三という作家の『松浦総三の仕事』という本からの引用である。この記者会見の模様はユーチューブに動画も何個か落ちている。(松浦氏は、晩聲社という左翼系出版社から文春批判本などを出している編集者らしい)
鬼塚氏の本は、前回の「天皇のロザリオ」と同様刺激的で、時には主観的なコメントも散見されるが、終盤に掛けて一気に加速度を増し、主流派メディアの共同通信が報じた皇室のスイスの預金口座の記事が登場する当たりで白眉を迎える。
この会見の場で、「エ・・・・エ・・・・エ・・・・投下された、ことに対しては、エ・・・・・、エ・・・・こういう戦争中で、あることですから、どうも、エー、広島・・・・市民に対しては、気の毒で、あるが、やむをえないことと私は思っています」と昭和天皇はコメントし、いきなり話題を変えて、「テレビは観ておりますが、放送会社の競争が激しく・・・」という意味不明のコメントを発して、原爆コメントを吹っ飛ばしている。これは動画で観られるとおりである。この動画を観て、「なんだ、昭和天皇はこの程度だったのか」とガッカリした覚えがある。いわゆる「現代史家」が神格化している昭和天皇は偶像であると私自身が気が付いてしまったのだ。
鬼塚氏は、昭和天皇と同じカテゴリに、いわゆる「吉田反戦グループ」(ヨハンセン・グループ)や海軍大臣の米内光政を入れて、宮中グループとヨハンセン・グループとして理解する。米内は、原爆投下を「天佑」だとはっきり述べている。「しょうがない」という思いは、昭和天皇が1975年に発する前に、そして、思想的に複雑骨折を経ている戦後の久間大臣が誤解される形で、宮中グループとは別の意味で「しょうがない」と発言したよりも遙か前、戦争終結直前に米内によって表明されていた。
米内と昭和天皇は、保守派の文春文化人にとってヒーローである。陸軍はたたくが、海軍は批判しないというプレスコードが未だに残っている。
このグループが、皇室の財産保全のために、日本赤十字や、スイス銀行を使った資金の移し替えを行っている傍ら、終戦工作に乗り出していた、と鬼塚氏は指摘する。
これを裏付ける、ポール・マニングという作家の記述や、共同通信が二〇〇一年と二〇〇二年八月一三日が載せた記事もある。だからあながち否定できない。
さらに、このヨハンセンはグルーやスティムソン陸軍長官から、何らかの形で広島に原爆を投下するという情報を察知していたとするのだ。この根拠として、広島には陸軍の元帥・畑俊六がおり、畑元帥は原爆投下時に「松本俊一(外務次官)父君の別荘」にいて、司令部には出勤していなかったために、難を逃れた不自然さを挙げている。私は、東京裁判に立ったこの畑元帥の八月六日の行動について、この鬼塚書で初めて知ったので、これ以上コメントできない。(松本俊一は、いわゆる「シゲちゃん」こと松本重治とは関係ないようだが・・・)
ここで、鬼塚氏の主張を私なりに咀嚼すると、広島に原爆を落としたのは、抗戦派の陸軍の第二総軍を壊滅状態に置くという狙いがあったという。また、同じく第一総軍は、本部を東京に持ち、この指揮官の中に第一二方面軍の田中静壱大将がいる。鬼塚氏は、田中大将の45年8月24日の「自決」の時刻が、「森大尉が斬られた同じ時刻」である「午後11時すぎ」という、蓮沼侍従武官長の死の直前の回想記を根拠に、半藤本が書く「森大尉殺害」の時刻は実際よりも2時間も遅れていた、つまり半藤は嘘をついていると書いたのである。
そもそも鬼塚氏は、この本の前半では違うテーマで書いていて、後半と前半で全く手法を変えているのだ。つまり、この本のタイトルが示すように、本の目的は、半藤一利の「日本のいちばん長い日」(文春文庫、大宅壮一との共著が本当だろう)の嘘を暴くということにあった。だから、本の三分の二は、半藤本や、秦郁彦本の矛盾点を、下村湖南(終戦時の情報局総帥)の終戦記録(「終戦秘史」)や、外国のレスター・ブルークスの「終戦秘話」、バーガミニの「天皇の陰謀」などの本を使って明かしていく。文春などの週刊誌の回顧録の類も多用している。バーガミニはどの程度信頼できるか疑問だが、彼の主張のきっかけになったと理解すればいいのではないか。
要するに、鬼塚氏は、この本の中で、半藤一利が大宅壮一と共作した、「日本のいちばん長い日」というのは小説であり、皇室の関与を殆ど書いていない、というのだ。この半藤著では、クライマックスというか、話の中心に、八月一五日の終戦を回避し徹底抗戦を天皇に向かって要望する、青年将校の畑中少佐(陸軍省軍事課員)や椎崎中佐(陸軍省軍事課員) などの「小物」をけしかけた黒幕がいると語っており、これを「某中佐」というバーガミニ本の記述をきっかけに検証するという仕掛けになっている。
結論を言えば、この中佐とは、鬼塚氏は、塚本誠(戦後、広告代理店の「電通」に就職した)のことであり、この人物(情報将校)が終戦直前に台湾から呼び戻され、反乱の機運盛んな陸軍の青年将校たちをたきつけて、「宮城事件」というクーデターを起こさせたのだという。この事件は、皇居に籠城して、「君側の奸」を排除し、天皇を目覚めさせて抗戦を要求することを目的にし、途中で天皇の「玉音放送音盤」を放送させないように奪い取るという「トレジャー・ハンティング」のイベントが加わったということになっている。ところが、この録音盤捜索というのは「創作」である可能性すらあるらしく、宮内庁に入り込んだ数十名の将校の目的は、御璽(天皇の決済印)ないしは木戸内大臣を捜すことにあったというのだが・・・。確かに、森大尉殺害と録音盤捜索のシーンは、映画プロデューサーでも関わったかのように、「嘘くさいくらいにリアルな描写」を半藤氏は行っている、と鬼塚著を読む前に急いで半藤本を読んだときに感じた。要は半藤本のは後の時代の「お化粧」であるというのが鬼塚氏の説である。確かに日本刀で森大尉(近衛師団長)を斬り殺す描写は「映画」的というしかない。
このクーデターを支援するように、阿南陸軍大臣に直訴した青年将校は、「軍事課長荒尾興功大佐、同課員稲葉正夫中佐、同課員井田正孝中佐、軍務課員竹下正彦中佐、同課員椎崎二郎中佐、同課員畑中健二少佐」。が、この中の井田大佐は、畑中、椎崎の二人と違って、自害もせずに生き残り、岩田と改名して、なんと「電通」に入社したという。
鬼塚氏が細部にわたって論証しているのは、少々うんざりもした。半藤氏の向こうを張って、自分なりの時系列でのドキュメントを書いたの地に、解説編で資料分析をやった方が良かったのではないかとも思った。
が、いろいろの記述を読んだ結果、要点として、鬼塚氏は、「半藤本には、塚本中佐の話や、阿南陸軍大臣が終戦の前日の14日から15日の間断続的に、皇族の一人である三笠宮と個人的に会って激しい議論をしていたことが書かれていない」、ということが言いたいのだと理解した。
そして、下級将校にすぎない畑中、椎崎らがなぜ自由に皇居に入り込めたのかという本質的な問題点を指摘する。確かに。これは鬼塚氏は、「皇族レベルの手引きがなければ出来ない話だ」というのである。
鬼塚説では、三笠宮は昭和天皇の名代である。要するに、跳ねっ返りの青年将校による「偽装クーデター」(むろん、青年将校たちは真剣であるが)を演出するのは、皇室サイドをクーデターの被害者として演出し、効果的に陸軍抗戦派の志気をそぐという目的があったということである。この構図は、『神々の軍隊』で浜田政彦氏が示した、「2・26事件」における青年将校の一人芝居ぶりと似ている。皇族はあくまでリアリスティックに自分たちと財産の存続を計るために、国際金融資本と交渉していたにも拘わらず、熱心な天皇崇拝者の青年将校が、勝手に理想の皇室像をプロパガンダによって描いてそれを信じていた。エリック・ホッファーのいうTrue Believerになっていたという、あの視点である。
文春や岩波系の文化人もこの等しく結局「天皇教」の呪縛から逃れられない、と鬼塚氏は前の「天ロザ」に引き続いて書く。
私(アルル)も、元来この天皇教信者だったようだが、「原爆しょうがない発言」でようやく、脱洗脳をしたと思っている。天皇は、あくまで普通の戦争指導者だったんだろうなあ、とこう思わないわけにいかない。そして、やはり昭和天皇は、戦争の責任によって退位するべきが当然で、それをさせなかったアメリカは問題をこじらせたから悪い、ということになる。日本は総括させてもらえなかったということになる。これが今の戦争責任問題をめぐる不毛な「勝った、負けた」の論破合戦になっていると思うのである。
要するに天皇の身の保全はアメリカの戦争指導部によって保証されたわけだ。グルー大使とスティムソン陸軍長官が保証した、というのでいいだろう。マッカーサーが天皇の姿に感動したというのは、たぶんとってつけた話だろう。「身を守ってくれたアメリカの実行した東京裁判も、原爆もこれは容認せざるを得ない。下手に突くと、やぶ蛇が出る」と昭和天皇は考えたのではないか。だから、富田メモのような靖国宮司批判をやったのではないか、というのが今の私の勝手な考え。
ただ、鬼塚さんたちに言いたいのは、この宮中グループというか、ヨハンセンの功績というのもある、というところ。
グローバリストのヨハンセン・グループは、吉田茂を初めとして、国際金融資本グループの「実力」を明確に理解していた。だから、憲法九条によって、戦争に巻き込まれることを避ける、という決断をした。グローバルに「奴ら」の恐ろしさを本当に分かっていたからこそ、戦争放棄というウルトラCの憲法を逆用して、少なくとも軍事的には国際秩序に積極的にコミットしていくことを封じるとという「妙手」を可能にしたのだろう。経済的にはむしられているけれども。
この当たりがヨハンセンのギリギリの遺産だったのだろうと思うのである。というのは甘い見方か?
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ところで、問題のシーグレイブについては鬼塚氏も真偽に判断をあぐねているようだ。これは私も同感である。鬼塚氏は、幾つかの資料を駆使し、昭和天皇の直接の父親が西園寺公の養子であり、大正天皇と同年代だった、西園寺八郎であると断定している。これを裏付ける証言として、犬養毅元首相が「これは親父と息子の方角を違えたのかな、フウム」という当時の東京朝日に掲載された談話を証拠としているほか、八郎が東宮職御用掛を初めとして、幼少の頃から付き従っていることをあげる。実の息子の公一(きんかず)よりも、皇室を気に掛けることがおかしいというのである。
もとより病弱の大正天皇が何人も子供を授かったという話こそ、確かに信じがたく、昭和天皇の父親は誰か、西園寺公かはたまた・・・という議論があったことは私も知ってはいた。だから、これを読むと真偽のほどは分からないが、「ありそうな話」という判断が出来る。なお、大正天皇の后であった九条節子(貞明皇后)は、鬼塚氏が引用している『昭和の劇 映画脚本家・笠原和夫』によれば、「宮中某重大事件」(昭和天皇の后を決める際に山縣有朋が介入した件)において、山縣と画策して(アルル:この辺は疑問)、自分のかわいがっている秩父宮を皇位に付けるべく画策した、という。(アルル:この話は反山縣の皇室内クエーカー勢力だったはずの貞明皇后とするシーグレイブと違うし、皇后は他の宮中のグループと一緒に婚約破棄に反対したはず・・・)皇室のいわゆる「秘め事」の話は仲々難しい。
この部分はともかく、二子である秩父宮が、二/二六事件の首謀者の安藤大尉に担ぎ出されて、直接、弘前にまで出向いた昭和天皇に説得されて、クーデター組に参加しないことを決めた、という記述も『笠原和夫』には出てくる。これは正しいのではないかと思う。秩父宮が結核の療養として富士に行くのも「追放」だとする意見も、なるほどと思った。しかし、秩父宮が『共和制・大統領制」を指向していたという笠原のコメントについては判断しようがない。そんな人物をなぜ皇道派のクーデター将校が担ぎ上げるのだろうか。ただ、昭和天皇、三笠宮と秩父宮で勢力構図が分かれていたのではないか?とする鬼塚説は折に触れて参照したいと思った。
共同通信の報じた、皇室の隠し財産の記事、これは重要であるから、「佐賀新聞」のデータベースを使って調べて保存しておかなくては為らない。
結局、鬼塚氏もまた、中央銀行ネットワークであるBIS(国際決済銀行)に行き着いた。このBISは、戦時中も敵味方となく資金決済をしていた。だからこそ、アメリカのロックフェラー・スタンダードやロスチャイルドのシェルが、パナマ船籍という抜け道を使って、日本やナチスドイツに石油を輸出し続けた、という話になる。あるいは、赤十字の船という抜け道をつかったらしい。
私は、このBISの実態について、戦後の時代を取り扱った本を知らない。私の家にあるのは『国際決済銀行の戦争責任』と『国際金融同盟』という研究本と幾つかの陰謀系の本だけである。しかし、今もBISのネットワークは生きている。つい最近も、北朝鮮のバンコデルタアジアの資金返還(NY連銀、ロシア中央銀行)の時にこの決済ネットワークは登場した。また、ごく最近では、サブプライム問題に端を発する銀行系ヘッジファンドの救済でも、中央銀行の「信用創造」による緊急の100億ユーロ規模の資金注入があったばかりだ。チープ・クレジットと新聞はもてはやしていたが、やっぱり最終的には中央銀行が信用を無から想像して、デジタル・キャッシュで各銀行の口座に「記入」してオカネを作り出している。それがよく分かった。(以下の写真は資金注入を奉じるFTの紙面。トリシェ欧州中央銀行総裁のコラージュが全てを物語る)
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現在のBISの理事(ボードメンバー)は以下。平時と戦時を問わず“Business as usual”が、BISのモットーなんだろう。歴史的なBISのビジネスライクぶりは資料が少しでもあるのに、今のBISがどうなっているのかは全く伝わってこない。今回の中央銀行の緊急資金注入があって、「やはり中央銀行がキーだ」ということは分かった。しかし、歴史的な陰謀理論の書籍は今の時代をカバーしていない。その片鱗すら見えてこない。英書でもいいから経済史の観点で書かれたBISの本はないものか。
Board of Directors
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Jean-Pierre Roth, Zürich (Chairman of the Board of Directors) ※
Hans Tietmeyer, Frankfurt am Main (Vice-Chairman)
Ben S Bernanke, Washington, DC; David Dodge, Ottawa; Mario Draghi, Rome; Toshihiko Fukui, Tokyo; Timothy F Geithner, New York; Lord George, London; Stefan Ingves, Stockholm; Mervyn King, London; Christian Noyer, Paris; Guillermo Ortiz, Mexico City; Guy Quaden, Brussels; Fabrizio Saccomanni, Rome; Jean-Claude Trichet, Frankfurt am Main; Alfons Vicomte Verplaetse, Brussels; Axel Weber, Frankfurt am Main; Nout H E M Wellink, Amsterdam; Zhou Xiaochuan, Beijing
※ ジャン・ピエール・ロスなるユダヤ系スイス人銀行家が現在のBISの会長。「ロス」、ねえ。
http://www.snb.ch/jsp/content.jsp?ID=67886c75300a4a15002572a30059a21d&AN=topic2_img0001.jpg
Jean-Pierre Roth was born on 28 April 1946; he is a citizen of Saxon, Canton of Valais. After completing his studies in economics at the University of Geneva, Jean-Pierre Roth worked towards a doctoral degree (thesis: "La politique monétaire suisse, son efficacité en changes fixes et flottants") at the Institut Universitaire de Hautes Etudes Internationales (The Graduate Institute of International Studies), Geneva. He was subsequently awarded a bursary by the Swiss National Science Foundation to pursue postdoctoral studies in the United States (Massachusetts Institute of Technology). Following his return to Switzerland, Jean-Pierre Roth held lectureships at the University of Geneva and at the Institut Universitaire de Hautes Etudes Internationales.
Jean-Pierre Roth joined the Swiss National Bank's economic staff in 1979. During more than fifteen years he worked in various sectors of the Bank in Berne and Zurich.
On 1 May 1996, the Federal Government nominated Jean-Pierre Roth Vice-Chairman of the Governing Board and head of Department II (capital market, banknotes, business relations with the Confederation, administration of gold holdings) in Berne. Effective from 1 January 2001, he was appointed chairman of the Governing Board and head of Department I of the Swiss National Bank (International Affairs Division, Economic Division, Legal and Administrative Division) in Zurich.
Jean-Pierre Roth is a member of the Board of Directors of the Bank for International Settlements (BIS) in Basel and governor of the International Monetary Fund (IMF) for Switzerland in Washington.
Jean-Pierre Roth is married to Floriane Tognetti and has three children; he lives in Muri near Berne.
※ このジャン・ピエール・ロスは、現在、スイス国立銀行(株式会社)の頭取(総裁)でもある。
The National Bank as a joint-stock company
The National Bank was founded by virtue of the Federal Act on the Swiss National Bank, which entered into force on 16 January 1906. Business was started on 20 June 1907.The National Bank is a joint-stock company governed by special provisions of federal law. It is administered with the cooperation and under the supervision of the Confederation in accordance with the provisions of the National Bank Act. Its shares are registered shares and are listed on the stock exchange. The share capital amounts to CHF 25 million, approximately 55% of which is held by public shareholders (cantons, cantonal banks, etc.). The remaining shares are largely in the hands of private persons. The Confederation does not hold any shares.
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