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(回答先: 玉串料と花代(謙遜と謙譲の音楽) 投稿者 セーラー服ときかんぼう 日時 2007 年 8 月 15 日 23:17:12)
>「私は戦争の当事者とはいえない世代だから、反省なんてしていないし、反省を求められるいわれもない」
この発言について調べて見たら、興味深い分析が見つかった。
「責任」という日本語に対応する英語には
「blame(受難責任、謝罪責任)」「罪・過ちに近い責任」
「responsibility(決断責任、応答責任)」「義務・任務に近い責任」
「liability(賠償責任)」
「accountability(説明責任)」
などが見つかるが、フツーの日本人が「責任」と聞いた場合には「blame(受難責任、謝罪責任)」=切腹・謹慎=しか頭に浮かばない。いまどきのフツーの若者である高市早苗氏は、国家としての戦争責任(responsibility)と聞いて、私の世代が「blame(受難責任、謝罪責任)」を受ける言われはない、と反応(response)したという訳だ。
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http://www2s.biglobe.ne.jp/~mmr/glocal/97/g970526(503).htm
BOOK 戦争は昔のこと!祖父母の時代の戦争責任を私たちが担うとは?
「戦後世代の戦争責任」/田口裕史著/樹花舎発行、星雲社発売/一五〇〇円
戦争を伝えることができるのか
昨年から、「従軍慰安婦」問題を中心にして、戦後補償のあり方と戦争責任のとらえ方が激しく論争されてきた。自由主義史観研究会の編集による「教科書が教えない歴史」が、大ベストセラーになり、小林よしのりが描く漫画「ゴーマニズム宣言」も若い世代に大ヒットしている。
彼らが行っていることは、あきらかに歴史的事実を歪曲し、「戦争責任」を否定するものである。しかし、今の藤岡らの活動を、単なる「侵略美化論」の焼き直しとしてだけで見ることはできない。それは、彼らの活動が、公教育のおざなりな歴史教育しか受けてこなかった戦争の「完全非体験世代」に向けられているからである。
世代の違いは、戦争に対する考え方の違いとなるのであろうか。「自由主義史観研究会」を批判してきた山田朗氏(明大助教授)は、次のように述べている。「ところが、戦争非体験世代である私たちが、知らず知らずのうちに『体験者』の感覚で、あるいはそれに近い感覚で戦争を論じていることがある。これが、一九六〇年代半ば以降に生まれた完全非体験世代(親も戦争を知らない世代)に戦争を伝える際に意外に大きな障害になっている。それは結局、私たち、いや少なくとも私が戦争を〈歴史〉としてとらえきれていないこと、完全非体験世代に理解できる論理と用語で戦争を説明できないということなのである。」(「キーワード日本の戦争犯罪」雄山閣のあとがき)
本書の著者である田口は、六三年生まれの、完全な非戦争体験世代である。
本書は、「戦争責任」の意味を探ろうと、この世代の中から生まれた真摯で前向きな労作である。
「戦争責任」のとらえかたの違い
九五年三月、衆院外務委員会で新進党(当時、現自民党)の高市早苗は太平洋戦争の認識や不戦決議に関する質問の中で「日本国民全体の反省があると決めつけているが、少なくともわたし自身は(戦争の)当事者とは言えない世代だから反省なんかしていない。反省を求められるいわれもないと思う」と述べた。
当然にも、高市の発言は批判された。しかし、田口は、これを一刀両断に「けしからん意見だ」と否定し去ってはいけない問題が彼女の発言の中にあり、同世代の多くに共感されていることを無視できないと見るのである。
発言した高市は六一年生まれ、著者の田口は六三年の生まれ。
著者は、本書を書く動機として、自分がしたわけでもない戦争や、自分が生まれてもいなかった時代の出来事を、「反省」するという行為が何を意味するかということから考え抜こうと思った、と述べている。
本書のなかから論点を幾つか抜き書きしてみる。
(一)謝罪と「反省」の混同 被害者を目の前にしたときには、思わず「謝りたい」との誘惑が首をもたげるかもしれないが、もし「おわび」したとしてもそこにはおそらく“嘘”が入り込む。だから(田口は)「謝罪」をしない、「謝罪」をしてはいけないと思う、と述べている。
(二)身に覚えのない罪を押し付けられことへの反発が、若者たちによる「過去」へのアプローチの可能性を閉ざす場合があり、このとき彼らは、本来担われるべき責任さえも見つめることができない。戦後世代が負うのは、「罪・過ちに近い責任」ではなく、「義務・任務に近い責任」である。
(三)国家の犯した犯罪(的)行為に対して、現在の政府が果たさなければならない法的義務が、先行世代によって果たされないまま私たちにまで引き継がれている。
(四)日本人だから責任があるのか−−「民族責任論」をどう考えるか。
「戦争責任」は誰が負わねばならないか。家永三郎氏は〈国籍上の日本国民(植民地人であった「日本国民」を除く)と民族としての日本民族の両者を合わせふくみます〉と述べている。
田口は、これは戦前・戦中の「日本人」の責任を論じるときには適切だが、戦後世代にまで適用はできないと反論する。また、現代日本社会の多様な人間、日本社会に住み生活する日本国籍を持たぬ人々を視野から外してしまうことになるのではないかと指摘している。
そして、日本−日本民族を強調するあまりに、偏狭な民族主義に通じはしまいか、民族の普遍的意味のとらえ返しにも思い至るべきだというのが田口の考えである。
「アジアは戦争を忘れない」に寄りかかってはいられない
田口が投げかけている、注目すべき点は次のことである。
一、「日本人の誇り」というキーワード考
(「美味しんぼ」の原作者・雁屋哲をとりあげ)彼の「日本人の誇り」を取り戻す大切さを説く考えは、〈戦争の後始末をきれいさっぱり〉とケリをつけてしまおうとするもので、負の歴史は後始末さえつければ、そこから新しい歴史が始まるかのような甘い歴史感が雁屋にはあるのかもしれない。
この意見に同調する人は多そうだが、田口はこの考えに「違う、解決を求めず、責任を担い続ける」ことが大事なことだと言う。
二、民族としての責任を負うー民族責任論の落とし穴。
個人主義の立場から戦争は他人事であり、世代を貫いて戦争を語るには「民族」意識が必要だとする福田和也を田口は批判する。同じ民族であることは、歴史へのアプローチの可能性を開く一つの契機ではあるけれども唯一のものとは言えない。日本民族だから責任を負う、という言い方のなかには、普遍的な「民族」の考察への道を塞ぎ、陳腐な「日本民族の特殊性」論へと行き着く落とし穴があると田口は指摘する。
日本のアジア侵略は単に過去の出来事ではない、戦後世代が「加害者にならない」ために「責任」を担い続けることによってのみ可能だと田口は述べる。
アジアも戦争の記憶から遠ざかる世代になったとすれば、「アジアは忘れない」という言葉に寄り掛かってきた日本の「良心派」の態度は今のままでいいのか、と彼は私たちに問うている。【小沢岳】
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