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http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-08-12/2007081225_01_0.html
2007年8月12日(日)「しんぶん赤旗」
日本共産党創立85周年記念講演会
日本共産党史85年と党発展の現段階
不破哲三前議長の講演(大要)
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日本共産党創立85周年記念講演会(9日、東京・渋谷C.C.Lemonホール)で、不破哲三前議長がおこなった講演の大要を紹介します。
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会場にお集まりのみなさん、また全国でCS通信をご覧のみなさん、こんばんは。日本共産党の不破哲三でございます。今夜は日本共産党創立八十五周年の記念の集まりに、たくさんの方々がおいでくださいまして、本当にありがとうございます。(拍手)
党史をきずいてきたすべての同志たちに
日本共産党は一九二二年七月十五日に生まれました。それ以来八十五年にわたる日本共産党の歴史は、未来を信じてこの党に入り、さまざまな分野の活動で党を支え、ときにはたたかいのなかで命をささげた無数の党員によってきずかれた歴史であります。そしてそれは現在、全国二万数千の支部で、また中央・地方の党機関や議員団で活動している同志たちによって書かれつつある歴史であります。私は八十五周年記念のこの集会にあたって、まず党の八十五年の歴史の中で党員として生涯を終えた数えきれない同志たちに心からの敬意をささげたいと思うのであります。(拍手)
その上で、八十五年の歴史に関連して、いまとくに深く考えてみたいいくつかの問題について、話したいと思います。
一、いま日本の政党が世界で問われていること──戦前・戦時の日本をどう見るか
戦争と植民地支配が進行した現場で、命がけでこれに反対した政党
いまの日本には、「靖国」派というきわめて特殊な政治グループがあります。この「靖国」派というのは、過去に日本がやった戦争を正義の戦争だと思い込み、この戦争をやった当時の日本こそ「美しい日本」だったと信じ込んで、いまの憲法をこわし、昔に逆行したいと願っている人たちであります。
今度の選挙は、その「靖国」派で固めた安倍内閣が初めて国民の信を問うた選挙でありました。一方、その自民党が固い同盟を誓い合っているはずのアメリカでは、議会が、日本が戦争中におかした「従軍慰安婦」問題をとりあげて、日本に謝罪を勧告する決議をおこないました。ここには、自民・公明の政治がいま落ち込んでいる矛盾がきわめてはっきりと現れています。つまり、いま日本の政治と日本の政党は、世界から、戦前・戦時の日本をどう見るかが問われているのであります。
この問題でも、日本共産党の立場は明白であります。
私たちは、日本の戦争が何なのか、植民地支配があったのかどうかなど、自分たちと関係のない「歴史」の問題として研究し、答えをあとから出しているわけではありません。その戦争が準備され、火をつけられ、植民地支配が広がり、国民が強権でそこに引き込まれつつあるさなかに、命がけでこれに反対した政党であります(拍手)。いいかえれば、天皇という絶対者の名で、国民を問答無用で戦争の惨害に引き込んでゆくその現場で、これは間違った侵略戦争だと主張し、国民主権の民主政治への転換の旗をかかげた政党であります。これが日本共産党であります。(拍手)
迫害に抗して、無数の戦士が活動をささえた
この旗は勇気がなければ立てられない旗でした。党が創立されたのは一九二二年。世界の多くの資本主義国で同じころに共産党が生まれました。しかし、いまサミットに参加している資本主義七カ国のなかで、創立の当初から共産党が非合法だったという国は、日本以外にはなかったのです。
数十人で始まったこの党は、短い時間に発展しました。党員の数などの統計はなく、弾圧の規模ではからざるをえない、という残念な状況でありますが、一九二八年から三七年までの十年間に、共産党弾圧法である治安維持法によって検挙されたいわゆる「左翼」と呼ばれた人たちの数は、合計六万千六百八十五人であります。運動参加者はこれよりもずっと多かったでしょう。しかし、この数字だけを見ても、日本共産党が戦前の日本社会に、反戦平和と民主主義という有力な潮流をつくりだしたことがわかるではありませんか。(拍手)
弾圧で先輩が倒れると若い後輩がつぎつぎとあとを継いで、困難なたたかいに立ち向かいました。『日本共産党の八十年』のなかでも、たたかいの中で命を落とした多くの若い同志たちの名前が記録されています。
公然と日本共産党の旗をかかげた7年間
戦前の党について、活動の多面的な姿やいろいろな闘争記を読むと、一時代の歴史を見ているように思いますが、党が国民の前で公然とその旗をかかげ、活動した時期はたいへん短いものでした。「赤旗」、当時は「せっき」と呼びましたが、この新聞を発行して共産党がその存在と主張を公然と国民の前に示したのは、一九二八年二月でした。弾圧の中で党中央の活動が中断に至ったのが三五年三月、わずか七年間がその活動期間だったことを考えると、私たち自身その足跡の大きさに驚かざるを得ません。
三〇年代といいますと、最も残酷で悪らつな弾圧が横行した時期でしたが、その時期、文学の世界で小説を発表する最高の場所とされたのが、『中央公論』や『改造』などの総合雑誌でした。そこに、小林多喜二や宮本百合子など党員作家の作品がどんどん発表されてみんなに読まれたのであります。多喜二の最後の作品である「党生活者」と「地区の人々」は地下活動の中で執筆して、それを編集部に届けた。一九三三年二月、多喜二が警察で虐殺されたあとに、『中央公論』と『改造』が勇敢に発表したものでした。こういう形で、党員の数や組織の規模以上に、社会と文化のうえに大きな影響力を発揮したのが、戦前の活動でした。
「九条の会」の鶴見俊輔さんが、戦後十年ほどの時期の著作のなかで、迫害の嵐の中でも原点を揺るがさなかった日本共産党を北斗七星にたとえて、次のような文章を書きました。
「すべての陣営が、大勢に順応して、右に左に移動してあるく中で、日本共産党だけは、創立以来、動かぬ一点を守りつづけてきた。それは北斗七星のように、それを見ることによって、自分がどのていど時勢に流されたか、自分がどれほど駄目な人間になってしまったかを計ることのできる尺度として、一九二六年(昭和元年)から一九四五年(昭和二〇年)まで、日本の知識人によって用いられてきた」(岩波新書『現代日本の思想』一九五六年刊)
この言葉のなかにも、戦前の党の活動の反映があります。
もっとも困難な時期での宮本顕治同志のたたかい
この七月十八日、宮本顕治さんが亡くなりました。宮本さんは一九三一年、党創立九年目という年に入党し、三三年、戦前の党の最も困難な時期に指導部に加わりました。この時期に、専制権力がとったのは弾圧にとどまらず、スパイの手で党に社会的犯罪を押しつけ、戦争反対の党、国民主権の民主主義の党を犯罪者集団にしたてあげる、そういう陰謀でした。
一九三三年に逮捕された宮本さんも、この陰謀の最大の標的になりました。三日前の党葬の席での弔辞でも述べましたが、宮本さんの法廷闘争は、侵略戦争と専制政治に反対する平和と民主主義の旗を守りぬくと同時に、この陰謀をくつがえして党の政治的名誉と道義的権威を守る闘争でもありました。
「九条の会」の加藤周一さんは、宮本さんの死に寄せて、「しんぶん赤旗」に寄せていただいた追悼の文章のなかで、宮本さんが反戦・平和を貫いたことは、「日本人の名誉を救った」と書かれました。
このあたたかい言葉を、若い命をたたかいにささげた人々をはじめ、日本共産党のたたかいのすべての参加者への励ましの言葉として受け取りたいと思うのであります。(拍手)
こうして旗を守りぬいた党であるからこそ、私たちは安倍内閣の「靖国」派政治を正面から、そして誇りをもって糾弾することができるのであります。(拍手)
二、「世界第二の経済大国で、共産主義が活気にあふれ健在」
アメリカの雑誌『タイム』の日本共産党観
今度の選挙の前に、アメリカの雑誌『タイム』に、「共産主義は日本で活気にあふれ健在」という表題をつけた、おもしろい記事が載りました。「ソ連崩壊後十五年以上たつのに世界第二の経済大国でがんばり続ける共産党」。記事にこう書いてありましたが、そこに関心を寄せての論評でした。
この記者は「世界の他の先進国の共産党が九〇年代に重要性を失ってしまったのに、日本共産党は最盛期に比べれば弱くなったとはいえ…」──なかなか率直に描いています。そのあとが大事です──「いまなお日本政治で重きをなしている」との評価を述べています。
この記事を読んで、私は、一九六〇年──安保闘争の年です──、世界八十一カ国の共産党が一堂に集まったモスクワでの国際会議のことを思わず頭に浮かべました。これは第二次世界大戦のあとの最初で最後の会議となったものでした。なかなか大がかりなもので、十月に一カ月がかりの予備会議を開いて共同声明の草案をつくる、十一月、十二月にまた一カ月近い会議に全体が集まって討論し、声明を採択する、こういう仕掛けの会議でした。この草案をつくる十月の予備会議に、宮本顕治さんが代表団長になって参加したのです。そこで宮本さんは、ソ連がつくった草案を道理にかなったものにするために、修正案を八十以上もだして徹底的にがんばりました。この大論戦で、日本共産党は、おそらくこの会議で最も目立った代表団の一つとなったのではないかと思います。当時資本主義諸国では、イタリアとフランスの共産党が、大きな議会勢力をもつ抜群に強力な党だとされていました。これらの党はみな、ソ連側で行動しました。その時、日本共産党は衆議院で一議席でしたから、決して有力な党とはいえない状況でしたが、そこで、断固、がんばりぬいたのです。
それから四十七年たって、世界の状況は変わり、アメリカの雑誌が「資本主義世界で一番元気な共産主義はここにある」というくらい、日本共産党の位置は変わりました。なぜこの逆転現象が起きたのか。そこには実は、党史にかかわる大問題がありました。それは、日本共産党が世界でも早い時期に、自主独立の路線を確立したという問題であります。
自主独立の路線はこうして形づくられた
この問題にも、歴史があります。
私は戦後、一九四七年の一月に入党したのですが、その時期には、ソ連共産党やその指導者スターリンに対する尊敬の気持ちは、おそらく党内の世論だったでしょう、非常に強いものがありました。何しろレーニンの党で、その後を継いだのがスターリンだという歴史を持っている、第二次世界大戦では、最強の敵だったヒトラー・ドイツを打ち破り、反ファッショ連合国の勝利に大きな貢献をした、この実績が裏づけになっていました。また中国共産党も、抗日戦争中の国民党との合作(いわゆる「国共合作」)が、国民党の武力攻撃でこわれて、一時は東北地方に追い込まれたかに見えたが、見る見る反撃に転じて、ついに一九四九年には全国で革命勝利を達成する、このありさまを目の前で見ているわけですから、この党への共感と信頼も強いものがありました。
「五〇年問題」
ですから、一九五〇年にソ連の指導下の国際機関であるコミンフォルムが、続いて中国共産党が、日本共産党に公開の論文で批判を加えてきた時には、党内に一時的には混乱も起こりました。しかし、全体としては、経験の深い友党からのまじめな忠告だと受け止めた党員が多数でした。ところが実は、これは友党のまじめな忠告などではなく、自分たちの思惑と都合から日本で武装闘争を起こさせようと考えたスターリンとソ連共産党の干渉作戦の幕開けだったのです。その筋書きは、党の指導部の中にソ連の言いなりになる分派、いま「徳田・野坂分派」と呼んでいますが、これをつくらせ、党の中央委員会を、アメリカ占領軍の弾圧に乗じて解体する、そして北京に秘密の指導機関をつくり、そこを通じてスターリンが計画していた武装闘争方針を運動に押しつける、こういうものでした。
この干渉は、戦後多くの党員の活動によって営々と築かれてきた国民との結びつきを断ち切り、取り返しのつかない深刻な打撃を党に与えました。実際、干渉の前の年、一九四九年一月の総選挙で党は二百九十八万の得票を得、三十五人の議員の当選をかちとりましたが、干渉作戦が始まったあとの五二年の総選挙では、得票は八十九万票に減り、当選者はゼロという最悪の結果に落ち込みました。
これを私たちは「五〇年問題」と呼んでいます。
自主独立路線への転機
この危機を解決して党が正規の軌道を取り戻したとき、私たちはこの経験から、その後の党の活動の基礎をなすいくつかの教訓を引き出しました。最も重大な教訓が、自主独立の路線の確立だったのです。
さきほど話したスターリンの陰謀はすべて“密室”のなかでおこなわれましたから、この全体の姿を私たちが知ったのは、実はこの事件が起きてから四十年以上たった一九九三年のことでした。ソ連が崩壊して、クレムリンの秘密の金庫が開いて、そこから文書がいろいろ出てくる。それを徹底的に研究して、私たちは、「五〇年問題」で何が起こったかという全体像を初めて組み立てることができたのです。
ですから、この問題を解決した第七回党大会(一九五八年)のころには、外国からの干渉の事実としては、ごく一部のことしか知られていませんでした。しかし、その一部でも、外国の勝手な口出しがいかに有害な役割を果たすかは、すでに私たちの経験で明白でしたから、二年がかりの全党討議の中で、外国勢力の介入の原則的誤りを明確にし、“過去にどんな成果をおさめた党であろうと、日本の革命運動の問題に対する外国の党の干渉は一切許さない”という自主独立の立場を、日本共産党の活動の根本をなす大原則として確立したのであります。(拍手)
このことは、戦後の日本共産党の活動に大きな転換点を画するものになりました。
六一年の第八回党大会で採択した党綱領──高度に発達した資本主義国である日本で、民主主義革命を当面の任務とし、国会の安定した多数を得て政権をめざす──、こういう綱領も、自主独立のこの精神でつくられたものであります。
二つの大国の干渉主義との闘争のなかで
私たちのこの路線は、六〇年代に入って大きな試練にさらされました。
当時は、世界の共産主義運動はスターリン時代とは様子が多少変わって、コミンフォルムのような干渉機関もなくなりました。建前の上では、各国共産党の自主性、独立性、相互の対等平等などが宣言されました。しかし実態では、ソ連中心主義は引き続き色濃く世界の諸党を支配しており、やがてそれに対抗する形で中国中心主義の流れも生まれました。その中で、名実ともに自主独立の立場を貫く党は極めて少ない。これが実情でした。さきほど紹介した、一九六〇年の国際会議もこういう時期に開かれたものです。
その中で、一九六四年、ソ連共産党から干渉攻撃の火ぶたがきられました。そのたたかいのさなかの一九六六年、今度は、中国共産党の毛沢東派からの干渉攻撃が始まりました。二つの大国の党からの両面攻撃という本当に大変な局面でしたが、全党はこの厳しい試練に勇敢に立ち向かい、二つの干渉攻撃をともに完全に打ち破ったのでした。
自主独立は全党の精神となった
私は、党葬での弔辞では、「五〇年問題」および六〇年代の二つの大国の干渉という危機の時期に、宮本さんが党中央で果たした役割について述べました。今日は、別の角度からこの時期を振り返ってみたいと思います。それは、自主独立の立場は、全党の苦闘と努力の成果だということであります。
「五〇年問題」でも、ソ連などの干渉者たちの指揮のもとに、誤った道に踏み込んだのは、党中央の一部の幹部──徳田・野坂分派に属するごく少数の人たちだけでした。多くの党員は、それらの事実は知らされないまま、反動派の弾圧に屈せず、懸命の努力で党を支えました。こういう下からの努力があったからこそ、言語に絶する困難の中でも、党はつぶれないでこの時期を乗り越えることができました。そしてその後の時期の「五〇年問題」の総括でも、全党討議で積極的な方向を支えたのであります。
自主独立の立場が全党の確信となっていたことは、さきほど述べた六〇年代の二つの党の干渉主義とのたたかいを通じてはっきり検証されました。ソ連からの攻撃も、中国からの攻撃も、予期されたものではなく、全党にとって不意打ちでした。しかも、これは直接の論戦に当たる党中央だけのたたかいではありませんでした。ソ連の場合にも、中国の毛沢東派の場合にも、干渉者は日本の国内に手を伸ばし、党内に反党分派をつくって、「日本共産党打倒」の旗をあげさせる、日本の他の政党もまきこんで、平和・民主運動や、国際友好運動を分裂させる、それこそあらゆる工作をつくして、日本共産党攻撃の包囲網を日本国内に張り巡らせようとしました。これを打ち破るには、すべての党支部と党組織が自主独立の精神を自分のものとし、強固な団結を固めて、干渉者に立ち向かうことが必要だったのです。そして、この時、全党は空前のこの厳しい試練に断固立ち向かいました。干渉を打ち破っただけではない。その闘争の中で、党を鍛え、さらに大きくして、七〇年代の躍進の情勢を切り開いたのが、この時期の闘争でした。
世界の運動の現状──ソ連崩壊が決定的な岐路となった
大国主義に反対する、各国の運動の自主性、対等平等の原則を守るという立場は、実は共産党のそもそも本来のあり方なんです。
マルクス、エンゲルスは、どんな国からであろうと、自分たちに特別な歴史があるからといって特権的地位を求めたり、指導者ぶったりするような傾向が運動の中に現れたときには、容赦なく徹底的にこれに反対しました。
ですから、ソ連がふりまわしたソ連中心主義は、科学的社会主義とは全く異質なものを、共産主義運動に持ち込み、押しつけたものでした。これをきっぱりと拒否した日本共産党の自主独立の路線こそが、共産党の本来の原則的立場を取り戻したものでした。
このことを振り返った上で、さきほどの『タイム』の論評に戻ってみましょう。なぜ他の国ぐにで共産党が衰退したのか、なぜ日本では、最盛期よりは「弱い」とはいえ、元気でがんばっているのか。この違いは、はっきり言って、自主独立の道に立った党と、ソ連覇権主義の側に居続けた党との違いであります。(大きな拍手)
その分岐点をはっきり示したのが、一九九一年のソ連崩壊でした。
日本共産党はソ連崩壊を覇権主義の巨悪の崩壊として歓迎しました。実際、その後十六年間の世界を見てごらんなさい。世界全体がソ連覇権主義や「米ソ対決」の縛りから解き放たれて、本当に活力ある世界に変わっているではありませんか。このことは私たちがいつも話していることであります。
党として言えば、私たちは、第七回と第八回の党大会で新たな基盤をかちとって以来四十数年間の党活動と内外情勢の発展を総括し、二〇〇〇年には党規約の、二〇〇四年には党綱領の抜本的な改定をおこないました。それはソ連崩壊後の世界の新しい動きも十分分析した上でのことでした。この綱領、規約の改定は二十一世紀に備えるという発展的な意義を持っていました。私たちは、日本共産党の歴史を貫いている開拓・探究の精神──到達点に安住せず、新しい問題にいつも開拓・探究の精神で臨むという気持ちを大いに発揮して、この仕事に当たったつもりであります。(拍手)
これにたいして、財政から理論まで、ソ連のお世話になっていた党は、ソ連の崩壊とともによりどころを失いました。イタリアとフランスの党は、党が変質したり衰退したりする、対応の二つの型を示しているので、その動向を少し紹介しておきたいと思います。
イタリア共産党の場合
イタリア共産党は風向きを見て、ソ連崩壊の年の一月〜二月の大会で、いち早く共産党の名前を捨て、マルクス主義の理論も捨てることを決め、「左翼民主党」という党名に衣替えしました。その後、政権についたりはなれたりしましたが、もうだれも驚きません。普通の中道政党の一つに変わってしまったものと見られています。今年は、秋に新しい大会を開いて、今度は、保守党の一部と合同し、名前から「左翼」をはずして、ただの「民主党」になるといっています。「革新」の立場も「左翼」の立場も、きれいに投げ捨ててしまいました。日本での一部の論評では、日本より進んだ共産党だという評価がありますが、これがイタリア共産党の実情であります。
フランス共産党の場合
フランス共産党の方は、ソ連共産党が存在していた時代には、「モスクワの長女」と呼ばれるほどソ連寄りの党で、ソ連のアフガニスタン侵略にも支持の態度をとりました。ところが、ソ連崩壊後数年して、今度は、ソ連寄りをやめて、「ソ連の失敗はマルクス主義の失敗だ」という理論立てをし、共産党の名前は残すが、マルクス主義の立場は取らないという宣言を発しました。しかし、それでも活路は見いだせません。
この党は、第二次世界大戦後ずっと、いつの総選挙でもだいたい20%台の得票を得ていたのですが、アフガニスタンの侵略に賛成したころから、10%台に落ち込み、ソ連の崩壊後には9%台に落ち込み、マルクス主義を捨てて以後は4%台に落ち込む。政治的地位の低下の方向をかなり法則的に示しています。
かつては資本主義国最大の党とうたわれた二つの党のこうした現状は、共産党の旗を捨て、科学的社会主義の旗を捨てた者が、どんな「発展」の軌道に落ち込むかをはっきりした姿で表しています。
このなかで、『タイム』誌の評価が出たことに、みなさんご注目ください。そこには、日本共産党が、戦後の歴史の中で、自主独立の路線を築き上げてきたことの値打ちとその大きさが示されているではありませんか。(拍手)
三、「政治対決の弁証法」の現段階
次に、日本の政治の流れの中での日本共産党について語りたいと思います。
支配勢力の根本戦略
日本の支配勢力は、日本共産党が新しい基盤を確立して躍進した、とくに七〇年代以降は、日本共産党を主敵として、その政治戦略を組み立ててきました。なぜ主敵なのか。それは、日本共産党が、現代の社会悪の根源である資本主義を乗り越え、人間解放の未来社会をめざす政党だからであります。そしてまた、この党が、「科学の目」で社会進歩の道を段階的に見定め、いつの時代にも、その段階で国民を苦しめている相手と正面から対決する政党であって、いまの日本でいえば、大企業・財界の横暴な支配、さらにアメリカへの従属体制を終わらせることを正面からめざし、本当の意味で、国民的、民主主義的な日本を真剣に追求する変革と建設の政党だからであります。
このことをよく知っているからこそ、彼らは、日本共産党が前進したり、前進する気配があると見ると、必ず、日本共産党を政界から閉め出す集中攻撃を企ててきます。実際この三十数年の政治史は、私たちが、この集中攻撃の波と切り結びながら、党の前進のために力を尽くしてきた歴史でした。
『日本共産党史を語る』(二〇〇六年〜〇七年刊)という本の中で、私はこれを「政治対決の弁証法」と名づけました。
では、現在の段階が、この弁証法的な発展のどんな段階に来ているか、このことを少し考えてみたいと思うのです。
日本共産党閉め出し作戦には、七〇年代の「自由社会を守れ」キャンペーンと戦前の謀略的反共攻撃の蒸し返し、八〇年代の「日本共産党を除くオール与党」作戦、九〇年代のソ連解体のときの「体制選択論」攻撃など、いろいろな戦術と作戦がとられました。
現在、この主要な作戦となっているのが、日本の政党戦線を無理やり「二大政党」の流れにはめこもうという型の閉め出し作戦であります。
「二大政党」作戦にも歴史がある
93年の「非自民」対決
これにも実は歴史がありまして、この作戦が最初に現れたのは一九九三年の「非自民対決」です。総選挙直前に、小沢一郎氏が率いる一派──後に「新生党」と名乗りました──が自民党をぬけだし、日本共産党以外の野党と「非自民」連合を組んで、国民に「自民か非自民か」の選択を迫ったのです。
この選挙の結果、「非自民」への政権交代が起こって細川内閣ができ、この内閣のもとで小選挙区制や政党助成金の制度など「二大政党制」づくりの制度的なおぜん立てがととのえられました。このとき、八党が結んだ基本政策には、「基本政策はこれまでの政策を継承する」とはっきり書いてありました。
この作戦での「非自民」の押し出しは、「自民党政治の枠内での政権交代だからご安心ください」、「担い手さえ代われば政治は変わります」ということを平気で打ち出した段階でした。
03年の 「二大政党」 押し出し選挙
次が四年前、二〇〇三年の「二大政党」押し出し選挙でした。総選挙直前に民主党と自由党が合併して、新しい民主党がにわかに生まれ、財界団体がスポンサーになって、自民党か民主党かの対決を「政権選択選挙」として押し出すというキャンペーンが大々的におこなわれました。
このときは、さすがに九三年のときとは違って、「自民党政治を継承する」とは言えませんでした。ただ、対決の内容については、自民党も民主党も、「消費税増税」「憲法改定」を共通の政治目標としてはっきり打ち出し、この二つの仕事をやるのにどちらが実行力があるかを争う、こういう内容の「二大政党」づくりに出ました。これは、自民党政治と国民のあいだの亀裂や矛盾が、それだけ深くなったことの表れでした。
今回の 「首相選択」選挙
そして、今度のいわば「首相選択」選挙です。「政権選択」の選挙だといって、有権者の気持ちを「自民か民主か」に絞るというやり方は、前と共通ですが、二つの新しい特徴が出ました。
第一は、「靖国」派で固めた安倍内閣が登場したことで、自民党の基盤の政治的な衰退傾向がいよいよ明りょうになったことです。
第二に、民主党の側でも、四年前のように同じ政策目標を掲げて実行力を競い合うというやり方は通用しなくなって、対決型の選挙戦に出ました。民主党はこうして、自民・公明政権への国民の批判の大きな受け皿になることには成功しましたが、政策的な対抗軸は最後まで示せないままでした。
ここに、今度の「二大政党型選挙」の特徴があります。
よくみる必要があるのは、自民党政治がだんだん衰えてきている、このことが「二大政党作戦」の姿形をも変化させているという点であります。ここに私は大事な注目点があると思います。
歴史のなかで見た今回の選挙戦
選挙の結果については、すでに志位さんが詳しく話をされました。私は、一つは歴史的な角度、もう一つは綱領的な角度から若干の点を見てみたいと思います。
開票の翌日、常任幹部会は声明を出しましたが、このなかには、短いことばで、選挙結果の三つの特徴を浮きぼりにしました。
第一は、今回の自民党敗退という結果は、個々のミスだけに原因があるのではなく、「有権者が、自民・公明の枠組みでは日本の前途はない、と判断した結果」であることを、きっちり示したことであります。
実際、選挙後の安倍内閣の動きと自民党の動き全体が、国民との亀裂をさらに拡大しています。もともと安倍首相という人は、選挙の「顔」として最適だということで、昨年九月に担ぎ出された首相であります。選挙の結果、これは自分たちの見込み違いだったということがはっきりしたが、今度は代わるべき「顔」がないから、やむを得ず首相続投を認める。ここには、自民党の衰退が、絵に描いたように現れているではありませんか。(笑い、拍手)
常幹声明は、第二に、自民・公明に代わる新しい政治とはなにかという問題について、この選挙で国民の選択が明らかになったかというと、そうではないということを、率直に指摘しました。これもいまでは、内外のどのマスコミでも一致して指摘されている点であります。
第三に、常幹声明はそこから、今後の政治の見通しをはっきり打ち出しました。自民・公明の政治に代わる新しい政治の方向と中身を探求する新しい時代が始まった、国会論戦でも、今後の国政選挙でも、そのことの比重がより大きくなるだろう、こういう見通しを予告的に明らかにしたことであります。
この三つの点に常幹声明の核心があります。
「新しい政治」の探求と党綱領
私たちは、自民党政治が日本をゆきづまりに追い込んでいると繰り返し警告してきました。まさに、その認識が国民多数の合意点になりつつあります。
では、このゆきづまりをどのような方向で打開するのか、その答えをまだ国民は出していません。常幹声明が述べているのは、これから国民の経験のなかで、みんなが探求し合い、その答えを見いだす、そういう段階を迎えるという見方であります。
そして私は、いまの状況をしっかりみれば、探求する国民の認識と、日本共産党の立場とが接近してくる必然性があると見ています。なぜか。それは党の綱領が、日本の政治のいまのゆきづまりの打開の道をはっきり示しているからであります。(拍手)
いま、国政上の問題で解決が迫られている問題には、野党の一致共同で対応できる問題もありますが、自民党政治の枠組みそのものの変更が強く求められる問題もあります。
内政の問題──財源問題の解決策はどこにあるか
内政を考えてみましょう。福祉の問題がある、格差の問題がある、年金がある、貧困がある。どの問題で政策を論議しても、みなさん、必ず財源が問題になるでしょう。自民党は、われわれが何をいっても、財源がないから仕方がないんだと、あきらめろといわんばかりです。
しかしみなさん、いまの日本の社会には、財源がないどころではないのです。二つの問題を挙げましょう。
〈庶民増税の8割は大企業の懐に〉
第一の問題は、新しい税金を取ってくる元がどこにあるか、です。これは選挙中もくりかえしいってきたことですが、いま、日本の資本金十億円以上の大企業は、バブルの最高潮だった八九年のときよりも、はるかに大きい経常利益を上げています。バブルの八九年に十八兆円だったものが、去年二〇〇六年は三十三兆円、一・八倍なんです。ところが、その企業が国に払っている税金は、公表されている最新の数字(〇五年分)でみてもバブル時代より二割から三割も低い。一・八倍のもうけですから八割余計な税金を払って当たり前なのに、ぐっと低い税金で大目にみてもらっている。同じことが国民のみなさんに起きたら、実に楽な暮らしになるではありませんか。
大企業だけは、所得が増えても税金が下がる。そんなばかげたことが起きているのです。
どうして、こんなことになったのか。そのしかけが、次の二つの数字によく表れています。
まず消費税の問題です。みなさんが苦労して消費税を払っています。一九八九年に消費税が導入されてから、今年度までに──今年度分は見こみ計算ですけれど──みなさんがおさめた消費税の総額は百八十八兆円です。ところがこの間に企業向けの法人税をまけてやった減税の総額は百六十兆円です。これは、みなさんがおさめた消費税の85%分が財界の減税にまわされたのと同じことではありませんか。
もう一つは、自公連立八年間の増減税の総計算です。この政権は、ほとんど毎年のように庶民増税をやってきました。その積み重ねが現在どこまで来ているかというと、年額にして、五兆四千億円もの増税になっています。この政権は、大企業・大資産家にたいしては、毎年のように減税をやってきました。その積み重ねは年額四兆三千億円になります。つまり一年間に庶民増税で五兆四千億円もとりあげて、大企業・大資産家には四兆三千億円まけてやる。つまり増税分の八割は大企業の懐に流れている、ということです。
〈天下御免の無駄遣い──軍事費〉
第二の問題は、税金の無駄遣いにかかわることです。最近はテレビなどでも、税金の無駄遣いの追及が盛んですけれども、「聖域」とされてテレビも目を向けない無駄遣いがあります。それは軍事費です。ここぐらい天下御免で大規模な無駄遣いが横行しているところはないのです。
一九九一年にソ連が崩壊しました。日本の自衛隊はソ連に備えるために、アメリカの注文でいろんな軍拡計画を用意していました。ところが、ソ連が崩壊してもすでに用意した計画だというのでやめようとしない。どんどん企業に発注し、いらないものをどんどん配備し、シナリオの消えた作戦の準備にどんどん当ててきました。
陸上自衛隊でいうと、いま三百二十両以上造って、その大部分を北海道だけに配置している90式戦車が典型です。目方が五十トンもあり、重くて日本の道路は通れないし橋も渡れない。だからソ連が上陸する恐れのあるという北海道に、特別な道路と橋を造って、配備しました。いつ配備したかというと、三百二十両の全部が、ソ連が崩壊してから配備したものです。今年度に買った分まで計算すると、購入費用だけで総額三千億円にものぼります。
海上自衛隊でも同じことがあります。日本で一番高い軍艦はイージス艦。六隻造って、購入費用だけで七千六百億円もお金を使いました。これはバックファイアというソ連の戦闘機から、「海上交通路を守る」作戦のために発注したものなんです。しかし、できあがったのはソ連が崩壊したずっと後で、さらにどんどん買い足して六隻も持つようになりました。調べてみたら、このイージス艦が実際に働いた活動というのは、これまでに、インド洋でアメリカの軍艦に給油する作戦だけでした。使い道がないわけです。
そういう無駄遣いがここでは本当に天下御免で横行しているのです。
いま税金のとり方、使い方について、あまりにもひどい二つの問題をとりあげましたが、日本の多くの政党は、どうしてここにものがいえないのか。
知恵がないからではないのです。大企業に正面からものをいい、アメリカに正面からものをいう姿勢がない、綱領的立場がない(拍手)。これからはこういう問題が政党に問われてくるのです。
外交の問題──ゆきづまり打開の道は?
外交を見ましょう。日本の外交がゆきづまっていることはいまや世界で有名で、何がゆきづまりの原因かということも世界が大方のことを見ています。
三つ問題があります。一つはさきほどの“靖国史観”です。前のあの日本の戦争が正義だなどといっている国では、いまの世界では発言する資格がなくなります。二番目が、アメリカへの無条件追従、同盟国だから何でも賛成という基本路線です。こんなことは「米ソ対決」が終わったいまでは世界のどこでも通用しません。三番目が、「力の政策」が好きなことです。何が起きてもまず軍事対応を考えるというやり方で、いま国際政治でなによりも大事な外交はからきし下手で力がありません。いま問題になっている六カ国協議でも、みんなが協力して、北朝鮮の核問題を解決しよう、これに成功したら、東北アジアの平和機構づくりも考えられると努力しているときに、日本だけがそういうことに積極性がない、平和が進むと嫌な顔をする。あれで日本は大丈夫なんだろうかと、いま世界の多くの人が心配しています。
こういう外交路線の最大の旗印が憲法改定──海外派兵と軍備拡大なんです。これに対してゆきづまり打開のきっぱりした答えを持っている党がどこにあるのか。日本共産党以外にはないではありませんか。(拍手)
わが党の綱領は、日米軍事同盟をやめて、対等平等の日米関係にすすもう、軍事中心の路線ではなく、話し合いで平和秩序をつくろう、侵略戦争への反省を外交の大前提にしようなど、平和外交の大方針を明記しています。ここでもやはり、党の綱領が国民的選択の中で値打ちを発揮するのです。
もう一つ言いますと、党綱領には世界論があります。二十世紀の三大変化──植民地主義の崩壊、社会主義をめざす国ぐにの発展、ソ連覇権主義の崩壊──を踏まえ、平和と社会進歩の立場で二十一世紀の世界の動きを分析し、包括的な展望を明らかにしました。この世界論は、世界のどこの国と交流しても、本当に大きな注目を集めます。日本共産党の野党外交の成功の一つのカギは、この世界論に立った原則的で柔軟な外交にあります。
草の根で語る全国的なネットワークを
ここで、私がもう一つ強調したいのは、いま求められている「新しい政治」の中身を国民の間で語る仕事は、党中央だけの仕事ではない、ということであります。選挙戦のなかでは、すべての党員、すべての後援会員が、このことを大いに語ったではありませんか。「国民的探求のプロセス」とは、まさに、国民の要求に応えながら、選挙中にやったこの活動を日常不断に続けることではないでしょうか(拍手)。すべての党支部、すべての後援会が、綱領を手に、国民の声に応える「新しい政治」とは何か、そのことを草の根で語る全国的なネットワークをみんなの手でつくろうではありませんか。(拍手)
未来に向かって革命的な大局観をもとう
わが党の綱領は一時的な、一回の選挙でおしまいというマニフェストではないのです(笑い)。国民の利益をまもる政治の基本方向、日本の現在と未来の利益を保障する日本の針路を示しているマニフェストであります。しかもこれは、国民に外から押しつけるというものではありません。まじめに国民の利益を考え、国民の利益を追求すれば、大企業・財界の横暴とアメリカへの従属という二つの障害に必ずぶつかる。これを取り除こうと思えば、日本共産党の政策に必ず接近してくる。この確信を持つことが、私はいま非常に大事だと思います。(拍手)
もちろん、国民の考え方の変化発展にはジグザグがあります。大波があります。しかし、長い視野でみれば、国民の認識、政治的意識、これは国民みずからの経験を通じて、必ず前向きに発展するものです。私たちの党は、戦前・戦後を通じ、どんなに困難な時代にも、一つひとつのたたかいに全力をつくすが、同時に一つひとつのたたかいの前進・後退に一喜一憂せず、この革命的な大局観を堅持してたたかいぬいてきました。そこに、八十五年史をつらぬく日本共産党の革命的伝統があります。(拍手)
党の創立八十五周年を記念するこの日、不屈の意志、開拓・探究の精神とともに、困難なときも未来を広い視野で見定める革命的な大局観を自分のものとし、日本と世界の新しい未来のためにがんばりぬこうではありませんか。
どうも、ご清聴ありがとうございました。(大きな拍手)
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