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「すべての宮本顕治論のために(My Last Fight)」と題したひとつの宮本顕治論
http://www.asyura2.com/07/senkyo40/msg/516.html
投稿者 gataro 日時 2007 年 8 月 13 日 10:35:06: KbIx4LOvH6Ccw
 

宮本顕治氏が亡くなって3週間余、今朝、こんな評論記事にひょっくり出くわした。

以下は http://blog.livedoor.jp/asaodai/archives/50977206.html からの転載。

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2007年07月27日
すべての宮本顕治論のために


宮本顕治さんが亡くなった。98歳。
日本の民主主義革命を目指した堅牢(けんろう)な牽引(けんいん)者の存在は、私たち日本共産党員にとっては希望であったし、あるものにとっては憎悪と恐怖の熾火(おきび)であった。
死の翌朝、新聞各紙が「評伝」なる記事を二面に掲載し、あわただしく彼の本質について語りだしたが、腹の底から「うんッ、うんッ」と同調しうるようなものはなかった。ほどなく週刊誌や雑誌が、それら皮相な見方を増幅して伝えることだろう。
評論家の加藤周一氏のみが、「歴史的記念碑ともいうべき宮本顕治さんの偉大さは十五年戦争に反対を貫いたことである」と正当に評価している(「しんぶん赤旗」2007年7月21日付)。

宮本顕治さんは、作家の小林多喜二さんが抱えていたものと同質の、この世界から戦争と貧困をなくしたいという理想の実現に、もっとも誠実で真剣だった日本共産党員の一人だった。
彼の特質は、近代文学の高峰である芥川龍之介さんの文学を通して政治を語り始めたという作家性と、戦前、「解体」していく日本共産党を支えた一人として身をもって体験した国家権力の暴力性と謀略(ぼうりゃく)性を共産主義者はいかに乗り越えていくのかという前人未到の問いに、戦後半世紀にわたって挑戦し続けたという政治性にある。
誤解を恐れずに断言すれば、彼の人生の長い時間と豊かな才能は、どれだけの日本国民に、ためらいなく「日本共産党」あるいは「共産党」という文字を投票用紙に書いてもらえるか――日本の近代化のなかで「形成」「ねつ造」された反共風土と反共意識をどのように根絶していくのか、そのためだけに発揮された。

こんにち、東大在学中の宮本青年が書き上げた「『敗北』の文学――芥川龍之介氏の文学について」は、芥川文学を裁断する「批判」としてではなく、日本共産党員が自身の初心を問い続ける、永遠の「自己批評」の書として読まれなければならない。
まだ入党していなかった20歳の宮本青年は、近代文学の最高の継承者である芥川さんが抱えた内的苦悩への圧倒的な共感から稿を起している。プロレタリアートの道を歩もうとしているインテリゲンチア(知識人)の書棚に、党の新聞と共に、芥川さんの『侏儒の言葉』が置かれていないと誰が断言できるだろうか、と書いた後、実際に一人の闘士が語った言葉を引用する。

「駄目だ! 芥川の『遺書』が、――『西方の人』が、妙に今晩は、美しく、懐かしく感じられるのだ。」

芥川さんと宮本青年、どちらも貧しい家庭から東京大学へと進んだ。親の期待を一身に受けて「出世」が確約された道と社会科学が既に指し示している戦争と貧困をなくす道――しかし、この道は、自身の肉体的抹殺を企てる絶対主義的天皇制権力と正面からたたかうことになる道との別れ道で、頭を抱えていた宮本青年は、自殺を選んだ芥川さんの近くに立っていることに気づく。背を曲げた芥川さんは、白日のもとにさらされた現実社会に深い絶望を感じながら、声望を得た文学を「一本の杖」として偏愛していたのだった……、ならば、自分はどう生きていけばいい?

「僕はエゴイズムをはなれた愛の存在を疑ふ」
「人生は一行のボオドレエルにも若(し)かない」

芥川さんの言葉のなかに、彼の絶望的な孤独と、彼が、唯一芸術のみが倦怠に満ちた人生を乗り越えるのだという「確信」を秘めているのを見る。芥川さんの思想と行動を支えているものは、畢竟(ひっきょう)、社会と切り離された「自己」「自我(エゴイズム)」ではないのか。それが、豊かな知性と才能のみを生活上の武器とするしかない「小ブルジョワ」の本質ではないのかと見抜く。芥川さんのなかに見た内面的苦悶は、とりもなおさず、宮本青年自身が抱えていたそれにほかならなかった。
宮本青年は、芥川さんの「芸術は民衆の中に必ず種子を残している」という言葉を携えて、「善悪の彼岸」に立ちたがる「小ブルジョワ」への退路を断(た)って、戦争と貧困にあえぐ社会と「他者」のなかに、世俗の混沌と混乱のなかに、人間の絶望と狂気のなかに、官憲に追われる日々の革命運動のなかに身を沈めていくのだった。

「私自身、高校から大学にかけて社会科学の本を読み、世の中はいろいろあるけれど、大資本家階級が特権的に経済を握り、結局、人が人を搾取するような社会でなく、労働者が働くに値する、むくいを受けるような社会、もっと合理的な、もっと道理のある社会にいくんだということを社会科学で学びました。
そして、私たちはいろんなつてで共産党の存在を知り、その主張――天皇制打倒、侵略戦争反対、土地を農民へ、八時間労働制、あるいは朝鮮、台湾などの解放、すなわち植民地・半植民地の解放、こういう主張を読んだとき、これは道理である、これは正しいと考えざるをえませんでした。
しかし、党に入れば、地下活動をやっても、一、二年でつかまる。
私自身も家計の苦しいところに育って、アルバイトをやって、高校、大学に進んだわけでありますから、親は、なんとかまともな職業に就いて、そして昔の言葉でいう『立身』してほしい、これが貧しい親たちの唯一の願いでありました。
共産党に入ることは、その親の夢を完全に打ち破ることになるし、そして自分自身も長期の投獄に耐えなくてはならない。しかし私はひとたび生をうけてなにが正しいかということがわかっていて、誰かが、やらなければ、そういう道がひらけないとすれば、自分だけは親の都合で、あるいは自分の将来の個人的な都合で、その道を歩かないというのは『義を見てせざるは勇なきなり』にあたるんだという考えで、この道に入ったわけであります」
(「反共偏見の打破は日本政治の根本問題」1983年5月23日、日本共産党大演説会)

日本共産党員である私たちは、宮本青年が雄々(おお)しく宣言した「我々は如何なる時も、芥川氏の文学を批判し切る野蛮な情熱を持たねばならない」などの一節を、党の優位性を誇示するために引用したがる。しかし、このとき、彼が真の批判の対象にしていたのは、芥川さんではなく、革命運動に身を投じようとしている自分自身の初心に巣食う、ある弱さに対してなのだということに注意を払いたいと思う。

「私は、はじめにのべたように環境の貧しさの体験の中で青年時代に社会の矛盾の根源の解決の道を科学的社会主義、共産主義に発見し、文芸評論もその立場から書こうとした。そして、理論と実践の統一という真理に忠実であろうとして、日本共産党に入党した。いわゆる『政治家』になる意識はいっさいなかった。……自分で希望したのではないが、運命のめぐりごとによって、私自身はまだ満25歳ぐらいではからずも歴史の重責を負わされ、悪戦苦闘したというのが、いつわらざる心境であった。しかし、それでも日本共産党員の道を選んだ大義を、どんな迫害の中でも貫こうという原点を、獄中でも保ちつづけることができた。「『敗北』の文学」の結びの言葉――「『敗北』の文学を――その階級的土壌を我々は踏み越えて往かねばならない」という言葉を、自分は実践することができたと、獄中のある日、心の中でつぶやいたことを、今も記憶している」
(『宮本顕治文芸評論選集 第一巻』「あとがき」)

宮本青年が書き上げた「『敗北』の文学」は、近代(資本主義制度)が提出した「自己と社会」あるいは「自我と他者」という大問題を止揚(しよう)する立場から書かれているが、彼なりの答えは、階級的存在としての私が芸術に携わる意味とは何か?を厳しく自己に問うことにあった。
なるほど、近代批評のスタイルを確立した小林秀雄さんは、「批評とは己の夢を語ることだ」と言った。あまりにも有名な、この批評宣言を高らかにうたい、まさにそのように生涯を生き抜いた小林秀雄さんは、他人の作品を通して自身の「思想」を語り続けた人だった。彼の「思想」とは、ある直感であり、ある感覚であり……、それは、「他者」と切り離されたところで成立する主観的で一方的な印象であり、感想だった。読むものを煙に巻くような独特の文体は、しかし、対象を全精神的全肉体的に感受した、のっぴきならない切迫さを備え、こんにち、彼の感想の方法を乗り越えるような、強く豊かな批評スタイルは確立されていない。
ただ、宮本顕治さんは、そういうものを批評とは呼ばないと喝破(かっぱ)した。いまだ誰もなしえていない「評価の科学性」という大きな旗を掲げて、ある観念を生み出す人間の立ち位置――意識とは独立して存在する、あなたの社会的根拠、つまり歴史的な階級性と関連づけて感想をのべよ、そう主張したのであった。
小林秀雄さんは、芥川さん同様、自我(エゴイズム)の人であった。戦争と貧困にあえぐ社会の深い悲しみを瞥見(べっけん)はするが、しかし、自我の告白を優先する人であった。戦前戦中において、自我の告白を許された人は、絶対主義的天皇制権力による肉体的抹殺から逃れることを保障された人だった。大いなる自由をのぞみながら、死を賭(と)して自由を守る言葉を紡ぐ人ではなかった。

小林秀雄さんは、宮本顕治さんについてほとんど何も語っていない。
『改造』懸賞論文の第一席を疑っていなかったから無名の東大生の登場には驚いた……、そんなことぐらいしか周囲に話していない。しかし、語らなかったということは黙過していたということではなく、宮本さんの立論に応答する言葉を探し続けていたとも考えられる。見るところ、小林さんは、宮本さんを乗り越える方法が言葉ではなく、実は、政治的行為(実践)によって行われるということを知っていたふしがある。
1983年3月1日、小林秀雄さんの訃報に際して、宮本顕治さんは次のような談話を残している。

「相交わった一点」(見出し)
『改造』の懸賞論文に二人が入選したことなどから何かにつけて並べられて語られるが、直接の面識はない。それというのも、当時の入選者には今日のような授賞式めいたものはなく、私は一人で出向き、小さな応接室で懸賞金をもらったからだ。
文学的デビューで、私は社会主義の立場から、彼は近代個人主義の立場からの批評であって、文学的にも社会的にも別々の道を半世紀にわたって歩いたわけだが、戦後、いまはなき正木千冬さんが鎌倉の革新市長になったとき、共産党もおしたが、小林氏らも正木氏の後援会の一員として正木候補をおしていることがわかり、双方の人生に珍しく相交わる一点を感じて感慨があった。
いずれにしても、因縁のある同時代人の訃報に接し、さびしい感じだ。
(「赤旗」1983年3月2日付)


治安維持法の最高刑が死刑に引き上げられた戦前、宮本顕治さんが地下に潜って活動した日本共産党と作家同盟が、権力に送り込まれたスパイや挑発者によって「解体」していく過程は、『宮本顕治文芸評論選集 第一巻』の巻末に付された「あとがき」によって具体的に知ることができる。
この長い長い「あとがき」は、読み進むにつれて息が苦しくなるほど当時の壊走的状況を生々しく伝えている。絶対主義的天皇制権力による肉体的抹殺の弾圧によって、多くの共産党幹部が次々に転向声明を出し、非転向を貫いた共産党員文化人が――野呂栄太郎さんが、小林多喜二さんが、杉本良吉さんが、今野大力さんが、今村恒夫さんらが、無残に殺された。そのことは、当時、戦争と貧困をなくすこと、そして民主主義の徹底を主張することが、どれほど困難で、どれほど当時の支配者たちにとって脅威だったのかを物語っている。
こんにち、「九条の会」の呼びかけ人として憲法擁護の活動に奔走する憲法学者・奥平康弘さんの『治安維持法小史』によれば、1931年の検挙者は1万422名、1932年は1万3938名、1933年は1万4622名と激増していることがわかる。これらの数字は、絶対主義的天皇制という暗黒支配に対し、命を賭けてたたかった日本国民がこんなにもいたという証(あかし)として、私たちが忘れてはならない。
昭和8年(1933年)、東京・築地署で逮捕後即日のうちに殺された作家・小林多喜二さんは、そのうちの一人であった。特高警察の激しい拷問を受けながら、なぜ、小林多喜二さんは、転向声明や敗北宣言を出さなかったのだろうか。林房雄さんのように、あるいは中野重治さんのように、あるいは……。
小林多喜二さんの念頭には、そう遠くない日に「巨大な」日本帝国主義が音を立てて崩壊するという確信があった。資本主義社会を乗り越える新しい社会が到来することもまた社会科学的に疑いようがなかった。そうした信念は、実は、「偽装」転向声明によっても担保されるものだった。しかし、小林さんは転向しなかった、殺されることをのぞんだのだった。
繰り返し問わなければならない、なぜ、小林多喜二さんは、転向声明を出さなかったのか? と。29歳の青年作家は、まだまだ小説を書きたかったはずだ。恋人や家族など、愛する人と別れたくなかったはずだ。淡い煙となって消えたくはなかったはずだ。この悲しくも素晴らしい世界との永遠の別れと引きかえに、彼はいったい何を守ろうとしたのか。

小林多喜二さんを失ったプロレタリア作家同盟の書記長となった作家の鹿地亘さんの苦労は並ならぬものだった。その後の作家同盟の迷走と壊滅(かいめつ)は仕方がなかったように思われる。宮本さんは、戦前の共産党の未熟さやプロレタリア文学運動の方針上の誤りを率直に認めながら、苦しみ抜いた鹿地さんが戦後に書いた『自伝的な文学史』のなかから、次の一節を探し出している。

「大切なことは誤らないことでも、敗北しないことでもない。それも大切かもちがいないが、もっとも大切なこと、決定的なことは、たたかいをやめないこと、どこまでも立ちなおり、全体とともにたたかい進むことである」

レーニンは「誤りをおかさないものは、なにもしないものだけである」とのべたが、歴史の傍観者=「善悪の彼岸」に立つことを峻拒(しゅんきょ)した日本共産党員の残酷な宿命を言い当てた言葉でもある。


12年間におよぶ獄中生活のなかで宮本顕治さんの思考のほぼすべてを占めていたのは、どうすれば地下活動を強いられた日本共産党の組織を守り、発展させていくことができるか、ということだった。言い換えれば、スパイや挑発者が潜入できない指導部づくりと広範な国民との連帯づくりをどのように展望するのかという問題である。
敗戦後に解放された宮本さんは、いち早く日本共産党の再建にかかわり、いわゆる「五〇年問題」(党の分裂問題)の解決に全力を尽くす。そして、議会の多数によって民主主義を徹底するという党綱領確定の先頭に立つ一方で、国際共産主義運動における日本の党の自主独立路線を確立していく。政党機関紙「赤旗」を基軸にすえた党活動の提唱など特筆すべきことは多々あるだろう。
ただ、ここで注目したいのは、1983年に導入された参議院全国比例代表選挙における日本共産党のたたかいについてである。このとき、日本国民は歴史上初めて党名選挙というものを経験したのだが、実に400万人以上の国民が「日本共産党」という政党名を書いて投票し、改選議席を2名上回って「抜群の躍進」を勝ち取ったのだ。
当時やんちゃな中学生だった私は、党支持者だった母親が「政党名を書くわけでしょう? 共産党に一票も入らなかったらどうしよう」とオロオロと父親にもらしていたことを覚えている(笑)。歴史をひもといてみると、いまから90年前の1917年、社会主義者の堺利彦さん(のちの党創立者の一人)が東京選挙区から立候補したときの得票がわずか25票だったということを考えると、以来約一世紀をへて、初めての政党選択選挙にのぞんだ日本共産党の歴史と力量は、他党の追随を許さない大きな蓄積を重ねてきたと言えるだろう。
このときの選挙戦で、宮本議長(当時)が遊説先でテレビ討論会で新聞紙上で何度も何度も繰り返して強調したのは、日本共産党の戦前のたたかいの意義についてだった。この日本社会でねつ造された反共風土と反共偏見を打ち破る本格的なたたかいが開始されたのだった。本当のたたかいは、始まったばかりなのだった。
宮本顕治さんは、躍進した参院選挙のあと、党創立六十一周年記念招待会でのあいさつで、次のようにのべている。

「小林多喜二の書いた『一九二八年三月十五日』という小説がございます。その最後に、三・一五事件で検挙された人たちが小樽から札幌の警察留置場に移された、からになった小樽の留置場の壁に『三月十五日を忘れるな!』、『日本共産党万歳』という文字があっちこっちに刻みこまれていたということを彼は書いています。ご承知のように、日本の社会の近代化が非常に遅れた状況のなかで、百年前は、日本共産党は、猛獣、毒蛇のたぐい、あるいは、コレラ菌に類するものというような主張を、当時の新聞――『東京曙新聞』とか、『朝野新聞』というのが書いていました。また、五十年前は、この猛獣、毒蛇のたぐいから、『人間』に入りましたが、それでも『非国民』、『国賊』ということで、激しい弾圧を受けました。こういう迫害を受けた日本共産党が今回、四百十六万という方がたの支持を受け、その党の名前を書いていただいたということは、私としてもかなり感慨があるものであります(拍手)。私はこの点をできるならば、小林多喜二とか、岩田義道とか、野呂栄太郎とか――私と一緒にたたかった僚友に告げたら、どんなにか喜ぶかということを、科学的ではありませんが、そういうふうに考えるわけであります(大きな拍手)。……」


私は、ここまで、夜を徹して、尊敬する宮本顕治さんについて長々と書いてきたが、2007年7月27日早朝を迎えて、第21回参議院選挙の投票日までもう時間がないし、そろそろ仕事に行くタイムリミットがきてしまった(笑)。これ以上は、もう書けない。

ただただ、小林多喜二さんが死を賭して守ろうとしたのは、文学の自由ではなかったか、と思う。それは、共産党員のみの言論の自由といった狭いものではなく、すべての国民と文学者たちの言論の自由の海だった。おそらく小林さんは、激しい拷問に耐えながら、自分の肉体が滅びても自分の言葉は残ると信じた。北海道・小樽へ文芸講演旅行にやってきた芥川龍之介さんの背中を追いかけた小林青年は、芥川さんの言葉「芸術は民衆の中に必ず種子を残している」を知らないわけがなかった。小林さんは、芥川さんが生きたくても生きられなかった人生を少しだけ生きたのだ。

平成の時代の幕開けに、いち早く時代の閉塞状態を察知した文芸批評家の江藤淳さんは、矢継ぎ早に『日本よ、何処へ行くのか』『日本よ、滅びるのか』という名の政論集を出し、言葉をもてあそぶ保守政治家や知識人を批判し、そのような言語空間を成立させている日本社会そのものの起源を暴こうとしていた。彼のたたかいは、その疲労困憊(こんぱい)ぶりが読者に見えるほど激しいものだった。
かつて若い日、夏目漱石が残した作品の群れを自在に渉猟した江藤さんは、それらが結局のところ、「他者」への「愛」という行為が不可能であることを証明する小道具に過ぎないと覚った。

「絶望的な断層の彼方にいる他人を愛そうと夢みながら、その孤独から脱出しようとするはなはだ人間的な努力を重ねて、『神』のいない国の住人の経験し得べき最も痛ましい苦悩の中に生きた孤立無援の男」(『夏目漱石』1956年)

このように書き、やっと彫り上げた漱石の渋面は、実は、「他者」への接近をぎりぎりまで試みながら断念せざるをえなかった江藤さん自身の面ではなかっただろうか。江藤さんの評論は、小林秀雄さんが見向きもしなかった「他者」に真摯(しんし)に向き合い、彼らの内面に入り込もうとした点において、まさに革命的であった。しかし、問題は、その行為にさえ「絶望」が待ちかまえていたということなのだ!!

自殺した江藤淳さんは、次のような言葉を残した。

「国は滅びても言葉は残る。言葉によって生きる者は、国が滅び、国土が失われたのちでさえも、言葉を守って生き続けなければならない」

私は、いま背広の袖を通しながら、江藤さん、あなたの憎んだ、日本共産党員であった宮本顕治さんや小林多喜二さんこそが、あなたの言葉通りの人生をまっとうしたのだと伝えたい。
一度だけお会いした……、日に焼けた優しい笑顔の人だった江藤さん……、もう二度と会うことのない江藤さんに、日本共産党員であり続けている僕は、そう伝えたい、そう伝えたかったのだ。

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