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私は新潟県十日町市で育った。だから旧盆であった。8月のこの季節になると何となくお盆気分になる。“お盆気分”といってもいまの若い人にはピンとこないかもしれない。でも「盆と正月が一緒に来たようだ」という言葉は知っていると思う。お盆は、かつては正月と同じくらい国民にとって大きな楽しみだったのである。お盆というと、先祖さまが帰ってくるといったように仏教と深い関係がある。お盆踊りも私の生まれたところではお寺の境内で夜遅くまで行われた。
地獄の釜の蓋もこの時だけは閉まるといわれた。地獄は悪いことをした者を罰するところだ。地獄の閻魔大王は、天網恢恢疎にして漏らさずだ。しかし、お盆の時だけは閻魔様もちょっと目をつむっている。だからある種の無礼講も許された。昔は盆踊りの夜に若い男女が忍びあったという。昔は若い男女が付き合うこともままならなかったのである。だがお盆のときは目をつむるよということであって、犯罪となることをやってもよいとことではないのである。かつては刑法はいうに及ばず規範意識が非常に強かった。現在は、規範などいうほうが馬鹿という風潮さえある。
自民党や公明党がそのさえたる代表である。安倍首相の居直りはその象徴である。だから私はこの問題にこだわったのである。自民党も公明党も安倍首相の居直りを看過するようである。こういう政党が政権をもっているのだから、世の中の規範意識が希薄になるのは当然のことである。自民党が公明党と連立を組むことは、自民党に規範意識があれば許されることではなかった。だから私は反対をしたのである。しかし、自民党には私の訴えに耳を傾ける者は少なかった。当時私と一緒に反対した者も、いまは自公“合体”体制にどっぷりと浸かっている。私は彼らをみていると、哀れささえ感じるのである。“ボロは着てても心は錦”の自分に誇りをもっている。
創価学会や公明党に規範意識などを期待することは、木によって魚を求めるというものであろう。創価学会は、宗教法人である。だから創価学会は宗教団体と誰も思っている。宗教団体である創価学会に規範意識など期待できないということは、不幸であると共に社会の混乱の元凶である。信教の自由を楯にして、創価学会は世間の批判を封じてきた。信教の自由は守られなければならないが、自公“合体”政権の原動力となっている政治的存在が批判に晒されないということは明らかに異常である。自由主義や民主主義という面からみて許されることではない。評論を業としている者は多いが、皆この異常な現実に目をつむっている。このような批判精神の欠如に、私はわが国の精神の貧困を感じる。批判精神が欠如している社会は、停滞し腐敗し死滅する。
NHKの『日曜討論』とテレビ朝日の『サンデープロジェクト』をみながらこの永田町徒然草を書いている。まともなことを言っていたのは、北海道大学教授の山口二郎氏くらいのものである。正直いってテレビに出てわざわざ言わなければならないという確信をもって出演しているのであろうか。この程度の人物を出演させるテレビ局の見識と意図はどこにあるのだろうか。もう好き勝手にしたらといいたくなるが、それでは国民が不幸になる。正直いって私にとっては退屈な作業なのだが、おかしいものはおかしいと指摘しておかないと、おかしいことをおかしいと認識することすらできなくなるからである。地獄の釜は閉まっていても、私の批判活動が止まない理由である。
それでは、また明日。
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