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(回答先: 宮本元共産党議長をしのぶ=党葬に1200人が参列(時事通信) 投稿者 熊野孤道 日時 2007 年 8 月 06 日 19:16:02)
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-08-07/2007080725_01_0.html
2007年8月7日(火)「しんぶん赤旗」
故宮本顕治元議長の葬儀での
日本共産党中央委員会の弔辞
日本共産党中央委員会を代表して
不破哲三
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六日、故宮本顕治元議長の葬儀で、日本共産党中央委員会を代表して不破哲三前議長がのべた弔辞は、次のとおりです。
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宮本顕治同志。私は、党中央委員会を代表し、また私自身の思いもこめて、あなたへのお別れのあいさつをのべるものです。
宮本さんが日本共産党に入党したのは一九三一年。党が創立されてから九年目のことでした。それから七十六年間、平和と社会進歩の事業につくし、日本共産党の基盤をきずいた宮本顕治さんの生涯に、私は心からの敬意をささげるものです。
〔一〕
宮本さんは、入党後間もなく党中央に入り、党指導にあたりましたが、それは、日本共産党にとってもっとも苦難に満ちた時期でした。戦争への道をひた走っていた専制権力は、反戦平和の党、国民主権の党を根絶しようと、言語に絶する強圧をくわえたばかりか、日本共産党の道義的権威を破壊することをねらい、党指導部にスパイを送り込んで、党に凶悪な犯罪行為をおしつけるなど、謀略の限りをつくしました。宮本顕治さん自身も、その悪らつな集中攻撃の標的とされました。
逮捕された宮本さんは、いかなる拷問にも屈せずに、反戦平和と民主主義日本の旗をまもりぬきました。宮本さんが、逮捕後、「裁判での公式の陳述はするが、密室での予審にはいっさい応じない」という原則をつらぬき、予審を完全黙秘で通したことは、戦後入党したばかりの若い私たちのあいだでもよく知られた語り草となっていました。その獄中で腸結核にかかり生命も危ぶまれたとき、やってきた検事が「沈黙したまま死んだら真実が残らなくなる、調書さえ取れば病院で死なせてやる」と説得したが、それも拒否したという話も聞きました。後年、私がその時の心境を尋ねたとき、返ってきた言葉は「後世を信じたよ」と、実に感動的な一言だったことを、強く覚えています。
宮本さんは、一九四〇年から始まった延べ五年にわたる戦時下の法廷闘争で、道理と正義をつくした弁論を展開し、党にたいする権力側の偽りの攻撃のすべてを論破して、彼らの野望をうちくだきました。私は、七〇年代のはじめ、宮本さんの自宅の書類の山のなかでこの法廷闘争の「公判記録」をみつけ、はじめて宮本さんの法廷陳述を読んだのですが、そのとき、「人類の正義に立脚する歴史の法廷」は必ず弾圧者の誤りと自分たちの正しさを証明するだろう、と述べた宮本さんの最後の陳述に、心を打たれました。獄中十二年間、完全に世間から隔離され、裁判闘争も、四四年に再開された公判は、百合子さんの自筆年譜によれば、「被告宮本ただひとり、傍聴者は弁護士と妻と看守ばかりという法廷」で、いっさい報道されることのない孤独なたたかいでした。しかし、宮本さんの不屈の闘争の記録は、今日に生きて、幾度読みかえしても私たちを励ます無限の力をもっています。
「九条の会」の呼びかけ人の一人である加藤周一さんは、「しんぶん赤旗」に寄せていただいた追悼の文章のなかで、「十五年戦争に反対を貫いた」宮本さんの態度をたたえ、「宮本さんは反戦によって日本人の名誉を救った」と書かれました。私は、そのこととあわせて、宮本さんの不屈の獄中・法廷闘争が、権力側の陰謀を根底からくつがえして、日本共産党の政治的名誉と道義的権威をまもりぬいたたたかいであり、戦前の先輩たちの苦難のたたかいを戦後の運動に継承させる歴史的な意義をもっていたことを、指摘したいのであります。
〔二〕
戦後、日本共産党ははじめて合法性を獲得し、民族主権と民主主義、平和と国民生活擁護の旗をかかげて公然とした活動を開始しましたが、その数年後に重大な危機的事態を経験しました。一九五〇年、アメリカ占領軍の不当な迫害で再び半ば非合法の状態を強要されたうえ、スターリンの指揮のもとソ連・中国の諸党から乱暴な干渉攻撃を受け、党中央委員会の解体、そして党の分裂をひきおこした分派を通じての外国仕込みの軍事闘争方針のもちこみ、そのことによる国民との結びつきの分断など、空前の危機に追い込まれたのでした。私たちは、これを「五〇年問題」と呼んでいますが、当時の干渉者たちの意図をふくめ、ことの全ぼうが明らかになったのは、それから四十年あまりたって、ソ連が崩壊し、流出したソ連共産党の秘密の関係文書を私たちが読むことができるようになってからでした。五〇年当時は、私は学生党支部の一員で、この事態の全体像などもちろん知るよしもありませんでしたが、党中央にあって問題に対処した宮本顕治さんにとっても、その時点では、全体像がわからないままの対応を余儀なくされたろうと思います。
しかし、宮本さんがとった態度・活動は、そういう制約のなかでも、党の統一をまもる誠意とことの道理ある解決を追求する理性とを最大限に発揮したものでした。私は、最近、若い同志たちの特別党学校で党の歴史についてまとまった話をする機会があり、宮本さんたちが「五〇年問題」の当時、どんなに限られた情報のもとで、態度の選択をせまられていたかをあらためて振り返りました。いま私たちの活動のもっとも重要な原則となっている自主独立の立場――過去の革命でいかなる成果をおさめた党であろうと、外国の党の干渉は絶対に許さず、日本共産党の自主独立の態度を確固としてつらぬくという路線は、そこからひきだされた最大の教訓の一つです。「あの経験のなかから、よくもこれだけの路線を確信をもってひきだせたものか」と、若い生徒たちと感服しあったものでした。
党が分裂の状態を脱して、統一回復への道を歩みだしたとき、この混迷の経験からひきだした教訓には、第一の自主独立の問題にくわえて、第二に、国民主権、議会制民主主義の政治制度が存在する日本で、運動に武力闘争をもちこむようなくわだては絶対に認めないこと、第三に、党内の民主主義の発展のうえに党の統一をまもりぬき、いかなる分派主義をも排除すること、などがあります。これらは、今日も、党の全活動の生きた指針となっていますが、「五〇年問題」からこれらの教訓をひきだし、それを全党の共通の意志とする活動でも、文字通りその先頭にたったのが宮本顕治さんでした。
日本共産党は、統一を回復して後、第七回、第八回の二つの党大会を経て、党の綱領――民主主義革命を当面の目標とし、国会の多数を得て政権をめざすという綱領を採択しました。この綱領路線の確立は、日本共産党の戦後の運動の新しい出発点を画するものとなりました。日本共産党が「五〇年問題」という深刻重大な危機から抜け出し、その危機を新しい発展への転機に変えるという大転換をなしとげるうえで、宮本顕治さんが発揮した指導力には本当に大きなものがあったのです。
〔三〕
六〇年代には、日本共産党は、国際的な方面から新たな危機的状況を迎えました。ソ連および中国の毛沢東派という、二つの大国の共産党から、正面からの干渉と攻撃をうけたのです。私が、党中央委員会での活動をはじめたのは六四年からで、役職上の関係はさまざまでしたが、これ以後は、二つの干渉主義との闘争をはじめ、宮本さんと政治活動をともにすることが多くなりました。
ソ連および中国・毛沢東派の干渉は、直接の動機はそれぞれにありましたが、どちらも根本は、日本共産党が自主独立の立場を堅持していることを敵視し、日本の革新・平和の運動を自分の支配下におさめることをねらった覇権主義の攻撃でした。私たちは、このたたかいについて、「党の存亡をかけた闘争」ということをよく口にしましたが、それは本当の実感でした。当時、わが党は、前進の過程にあったとはいっても、国政選挙の得票率は4%台、衆議院で四議席という力量でした。その党が、二つの大国の、しかもあらゆる手段を動員しての攻撃に直面したのですから、実際、そのきびしさは、どんな予測をもこえるものがありました。
しかし、全党は、このきびしい試練に勇敢にたちむかい、干渉攻撃のすべてを打ち破りました。そして、その闘争のなかで党をきたえ、さらに大きくして、一九六九年、一九七二年と打ち続く総選挙で躍進をかちとったのでした。
二つの干渉主義との闘争をふりかえるとき、私の頭にすぐ浮かぶ二つの場面があります。一つは、一九六六年三月、上海での毛沢東との会談が決裂に終わったあとで、帰国後の報告準備のため、広東で若干の日を過ごしたとき、夕暮れのなか、宿舎の庭の一角にじっと座り込んだ宮本さんが、沈痛な面持ちで熟慮にふけっていた情景です。私は、その表情に、前途の多難さへの深い思いとともに、なにものをも恐れずにわが党の立場をまもる決意がこめられていることを、痛感しました。
もう一つは、その年の秋、第十回党大会での方針案を準備する最終段階でのことです。国際的な方針の部分は、二つの方面からの攻撃といかに闘うかが主要な内容となっていましたが、仕上げの最後の段階になって、宮本さんが、「闘争の方針だけでなく、党関係の本来のあり方についても書く必要がある」という問題を提起したのです。議論の結果、“重大な意見の相違のある党とのあいだでも、干渉を基本態度とする党でないかぎり、一致点にもとづいて共同する努力をする”という定式に到達しました。私は、これから本格的なたたかいが始まるという時に、干渉をうちやぶった先のことまで考えて、それに対応する基準まで確定しようとする深慮遠望に本当に感銘したものでした。
実際、この定式は、七九年に、ソ連共産党が干渉の誤りを認めて、党関係を正常化したときにも、さらに、中国で、毛沢東派が起こした「文化大革命」の誤りが明らかにされ、九八年、中国共産党の新しい指導部とのあいだで歴史問題を解決して両党関係を正常化したときにも、私たちの側の対応の基準として、りっぱにその役割を果たしました。この方針は、同時に、今日、世界のより広い範囲で展開されている日本共産党の野党外交にとっても、生きた力となっています。
〔四〕
宮本顕治さんとともに活動した三十数年間、私が宮本さんから学んだこと、受けた影響は数多くありますが、私が宮本さんの革命的生涯を思うとき、まず頭に浮かぶのは、いまあげた三つの時期における宮本さんの活動です。
それは、どれも、日本共産党にとって、きわめて重大な危機の時期でした。そして、どの場合にも、宮本さんは、不屈の意志と強固な理性的対応をつらぬいて、危機を打開するたたかいの先頭にたち、新たな発展への道を開いてきました。その活動は、それがなかったら、その後の党の歴史が変わっていたかもしれないと思われるほどに、大きな力を発揮したのでした。
宮本顕治さんが生涯をその社会進歩と平和的発展のためにつくした国・日本は、いま、たいへんな激動のさなかにあります。宮本さんが去ったのは参院選のさなかでしたが、この選挙は、これまでの古い政治の枠組みをそのままにしておいたのでは日本に未来も前途もないこと、国民の願いにこたえる新しい政治がまさに切実に求められていることを、かつてない形で示すものとなりました。
日本共産党が、日本の国民のため、社会進歩のため、そして世界の平和のために果たすべき役割は、いよいよ大きくなっています。その前途には、もちろん、幾多の困難が待ち受けているでしょう。私たちは、党の歴史そのものを通じて、困難を打開しつつ前進するのが歴史の弁証法であることを、よく知っています。どんな困難な時期にも、不屈の意志と理性的対応をつらぬく――宮本さんが生涯を通じて残したこの教訓をかたく胸にきざみながら、宮本顕治同志にささげる告別のあいさつの結びとするものです。
二〇〇七年八月六日
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