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2007.8.4(その1)
森田実の言わねばならぬ[439]
平和・自立・調和の日本をつくるために【291】
安倍自公連立勢力の党勢復活のための戦略・戦術とは?――ピンチに陥った安倍自公連立政権は「民主党分裂」の策動を始める
「私的な情熱はいずれ疲れて衰えてしまうが、政治的な情熱は決してそうはならない」(ラマルチーヌ)
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自民党政権は、過去3回の政府危機・政治危機をなんとか乗り切ってきた。今回は過去3回よりも危機は深刻だ。まず過去を振り返ってみる。
自民党政権が最初に大ピンチに立たされたのは1989年夏の参院選で36議席しかとることができず大敗北したときだ。このとき自民党は宇野宗佑首相を直ちに辞職させ、総裁選を実施し、若いクリーンイメージの海部俊樹を総裁・総理にし、さらに若い小沢一郎を幹事長にして党のイメージを一新した上で、公明、民社両党を取り込み「自公民体制」を構築して乗り切った。
第二の危機が1993年夏の細川非自民連立内閣の成立によって、政権を失 ったとき。このときが自民党史上の最大の危機だった。もしも細川非自民連立内閣が衆院解散・総選挙を断行していれば、自民党は壊滅してしまったであろう。細川内閣が衆院解散をしなかったことで自民党は救われ、復活できた。
自民党内の仕掛人たちが考えたことは、細川政権の実力者の小沢一郎新生党代表幹事と村山富市社会党委員長を分断し、社会党を細川連立体制から離脱させ自民党側に取り込むことだった。そのためなら一時期村山を首相にしてよいと考えた。自民党の仕掛人たちはこの計画に1993年9月から取りかかった。莫大な金が動いたといわれた。数カ月の努力が実を結んで、1994年春、細川連立与党は分裂した。触媒の役割を果たしたのは武村正義が指導した「新党さきがけ」だった。社会党は「さきがけ」とともに自民党と組み「自社さ3党連立政権」を樹立した。村山社会党委員長は首相になった。自民党は政権に復帰した。社会党取り込み作戦は成功したのである。そして社会党は十分に利用された上で使い捨てられた。
第三の危機は1998年夏の参院選での敗北。自民党はこのとき44議席しかとることができなかった。橋本龍太郎首相は直ちに辞任し、総裁選を実施して党のイメージチェンジを図った。選挙の結果、小渕恵三氏が総裁・総理に就任。直ちに連立内閣づくりに入った。第一段階が自民党・自由党の2党連立の結成(自自連立)。次の第二段階で公明党が参加し「自自公連立」となった。第三段階で、自由党を切り「自公2党連立体制」に移行した。その後、自公連立体制は、森、小泉、安倍の3代の内閣を支えてきた。自公連立によって自民党は立ち直った。国政選挙は公明党・創価学会が支えた。
第四の危機が今回である。自公連立与党とくに自民党は、7月29日の参院選で大敗北を喫した(自民党の獲得議席数は37)。
ここに至って、自民党には、新たに組むべき勢力も一本釣りを試みる勢力も存在しない。いろいろ知恵を絞った結果、民主党を分裂させる以外に、自民党が復活する方法はないことがわかったようだ。
いまの自公連立与党の復活のための基本戦略・戦術の中心目標は「民主党の分裂」におかれている。中心テーマは「かけがえのない日米同盟堅持か否か」である。
ただし、これは容易にできることではない。第一に、分裂主義者たちは裏切者にされてしまう。第二に、分裂主義者のレッテルを貼られたものは、政治家として生きつづけることは困難になる。あえて裏切者の道を進む者は、それほど多くはならないだろう。
安倍首相と自公連立与党の幹部たちは、それでも民主党分裂の策動を始めるだろう。民主党側にも安倍政権に協力したい議員が少数とはいえ、いる。しかし自公連立側が「民主党の分裂」に失敗したとき、民主党時代が到来する。 安倍首相がテロ特措法延長問題での11月解散、12月総選挙に失敗すれば、即退陣だろう。新内閣は国民から解散・総選挙を求められる。ここが本当の「天下分け目の関ヶ原」となる。
http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/C03557.HTML
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