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http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/kishanome/ から転載。
中国孤児・国賠訴訟、終結するが…=樋口岳大(阪神支局)
◇涙浮かべ「友達になって」−−孤立感、いまだ置き去り
中国残留孤児の支援策について、与党プロジェクトチーム案を孤児側が受け入れ、全国で約2200人が起こした国家賠償請求訴訟が終結することになった。新たな支援策は、生活保護受給者でみると月収が8万円から14万6000円に増えるなど、確かに、生活は今より楽になる内容だ。だが、日本語が不自由な多くの高齢の孤児たちが抱える問題は、金銭面の支援拡充だけで解決できるとは、到底思えない。国民が孤児たちの問題に関心を持ち続け、同じ日本人として迎え入れる態勢を作っていくことが重要だと思う。
今月10日、首相官邸。全国の訴訟の原告代表たちが安倍晋三首相と面会した場を私も取材した。ずっと追いかけてきた兵庫訴訟原告団長の初田三雄さん(64)=兵庫県伊丹市=は安倍首相と握手し、「老後、安心できる支援策を作っていただき、心からうれしく思います」と述べた。だが、その表情はこわばったままだった。
兵庫訴訟は全国で唯一、孤児側が国に勝訴した裁判だ。控訴審が大阪高裁で係争中に、今回の新支援策が示された。兵庫訴訟の勝訴が、政府与党に新たな対応を迫る大きな力となったことは、確かだと思う。
首相と会う前日、初田さんは「我々の尊厳と人権は回復していない。安倍首相には一言『ごめんなさい』と言ってほしい」と話していた。
だが、面会の場で安倍首相から謝罪の言葉はなかった。初田さんは複雑な思いを抱えながらも、勝訴を勝ち取れなかった他の訴訟の原告たちの心境も考え、言葉をのみ込んだのだろう。初田さんの胸の内を思い、私は「これで終わりではない」と強く感じた。
私は、初田さんらが勝訴した昨年12月の神戸地裁判決までに14人、その後、さらに10人の孤児宅を訪ねて取材してきた。
つらい体験を思い出しながら、中国語や片言の日本語で一心に思いを語ってくれたのは、兵庫県を中心に京都府、大阪府、徳島県に住む59歳から74歳の孤児たちだ。終戦後、長期間中国に取り残された苦しみだけでなく、帰国後もずっと日本社会から置き去りにされてきたことが、孤児たちの心を深く傷つけていた。
伊丹市の出上二三子さん(69)は、ある雨の日、傘を持って小学校に孫を迎えに行った時のことが忘れられない。校舎から出てきた孫を見つけ、中国語で「傘持って来たよ」と声をかけた出上さんに、孫は「おばあちゃん、中国語でしゃべったらあかん」と血相を変えた。友人に「中国人」とからかわれるからだという。これは、21世紀の日本で、現実に起きていることなのだ。
日本人の孤児たちは、なぜ日本語を話せないのか。これまで私たち大人は、その理由を子どもたちにきちんと教えることを怠ってきたのではないだろうか。
私が取材したほとんどの孤児が、出上さんのケースと同様、帰国後も差別を受けていた。そして、こうした体験を繰り返すうちに日本社会に絶望し、孤立感を深めていった。声を上げることもできなかった。だから、支援策作りもここまで遅れたのだと思う。
それでは孤児を迎え入れるためにどうしたらいいのか。一つは孤児と一般市民が接する機会を少しでも増やすことだと思う。さまざまな取り組みが行われているが、私が普段取材している兵庫県の例を挙げたい。
神戸地裁判決を機に市民約400人が「中国『残留日本人孤児』を支援する兵庫の会」を結成。孤児と、地域の住民が一緒にギョーザを作り、孤児の話を聞く会「出前餃座(ギョーザ)」を企画している。
今月7日に伊丹市で開かれた会では、孤児6人が市民約40人と交流した。90年に帰国した中村芳子さん(64)=同市=は、初めて地域の住民たちの前で、不自由な日本語を一言一言かみしめるように話した。「日本に帰って17年。日本語少し。生活苦しいです」。旧満州で両親と兄弟姉妹6人を亡くした同県尼崎市の宮島満子さん(71)は「『孤児』という呼び名の通り、私たちは親兄弟も友人もおらず孤独です」と訴えた。また、89年に帰国後も職場で何度も「中国人」とばかにされたという伊丹市の松倉秀子さん(63)は、参加者に「私たちに何ができるか」と問われ、目を潤ませて言った。「友だちになってほしい」と。
孤児たちが、それぞれの地域社会でぬくもりを感じて生きられるようになった時に初めて、残留孤児問題は「解決した」と言えるのだと思う。参院選を前にした今回の政治決着は、その通過点に過ぎない。道のりは始まったばかりだ。
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