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この記事の直接の引用元は「死刑廃止フォーラムinおおさか」ではなく、「かたつむりの会」というサイトです。
2004年11月7日 野田正彰さん講演会〜「罪」のゆくえ、「責任」のゆくえ
はじめまして。
死刑廃止の活動を皆さんが続けてられるのを最近、講演を頼まれたときに知っただけで私がここで話する資格はちょっとないと思いますけれど、死刑廃止について積極的に活動したわけではありませんし、死刑制度ということについては前からおかしい、間違っていると思っていましたので、ちょっと躊躇ありましたけれど、おおさかフォーラムが、死刑が迫っているときには、「夜廻り」として大阪拘置所の周りを「殺すな」といいながら廻っているという話を聞きまして、すごい活動をしているなあと、感心しましたんで、じゃあ、日ごろ思っている事を少し話させていただこうかと思ってまいりました。
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先ほどのスライドは、どちらかと言うとですね、死刑は許しがたいと思ってられる人へ向けてのお話でしたけれど、死刑というのは、悪い事をしたやつは当然死ぬべきだと思っている人にむけてのお話をさせていただこうと思います。
私は、今の大学では学部に所属していませんし特別な講義しかしておりませんけども、この間まで京都女子大学におりました。いわゆる、お嬢さん学校であります。浄土真宗という仏教系の大学でありますが、そういった学生に死刑囚の話をしますと、ほとんど、良くないと思っている人はいません。むしろ厳罰主義であります。悪い事をした人間はもっときちっと罰しないといけない。だからこんなふうになると「幼稚な」頭で思っているわけです。「幼稚」というのはその事について幼稚という意味ではなくて、他の事について、全般的にですね。日本の教育の中で,まともに社会的問題を考える事無しに育っている人たちがそういう紋切り型の発想をしているんです。
ずっと説明をしていくと、考えが変わっていくのですが、日ごろ死刑とか犯罪とかいうことについてどんなふうに考えているか。まず、社会と犯罪あるいは社会と死刑の関係についてお話をしたいと思います。
例えば、私たちは、いろんな凶悪な犯罪が起こったときにマスコミはそれを報道します。各紙寸秒を競ってそれを報道します。しかし、あれは、一体何のためなんでしょうか。世の中ではいろんな事件が起こっているのだけれども知らなければいけないのか。もちろんそれは、犯罪だけではなくて野球でどこが勝っただとかサッカーでどこがということを私たちは新聞だとか報道で,見ます。考えてみるとおかしな話であります。例えば、私たちはこの世界で起こっている人類殺害について全部知るというわけではありません。ほんの地域情報を知っているだけです。北海道で起こっている事件については特異な事件じゃないと大阪本社版では報道されない。にもかかわらず、犯罪がマスコミによって勝手にこの事件は重要であると判断され、大きく紹介されていくわけです。その時私たちは、問いかけが必要だと思います。自分はいったいなぜこの記事を読み、ニュースを見てるんだろうか。つくっている側と同じ立場に立ってですね、受けている自分が何故知ろうとしているのかを考えてみる必要があると思います。
それは、この社会は恐ろしいんだと、だからもっと気をつけなければいけない。いつやられるか分からない。そういったことを考えるためにこのニュースを見てるんだろうか。あるいは、人間の理解、人間というのは恐ろしいもんで何するかわからない、そういうことのために私たちは見ているのだろうか。あるいは、こういった不幸な人がどうして作られたんだろうか、わたしはそこで考えようとしている。いろいろな事件について自分がどういう関係をとって報道にさらされるということを考えてみる必要があるのではないでしょうか。私は、犯罪と社会の関係はこれに尽きると思っていますし、いつもそれを言い続けてきました。犯罪は私たちがどんな社会を作っているのか見直す機会でなければなりません。犯罪とは私たちが社会をどう見ているか問い直される機会でないといけない。犯罪とは私たちがどんな社会で生きているか問い直す機会にしなければならないと思います。その事はもっと突き詰めて言えば、犯罪を通して私たちがどのように生きているかを考えるのかということだと思います。
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死刑と言うのは、まさにその極限であります。死刑制度を容認しているような社会に私たちは生きているわけですから、私たちはこの社会を構成し支持している人間として責任があると思います。
具体的な、ホットな事件から考えてみたいと思います。
九月に教育大付属の池田小に突入した男性が処刑されました。この事件についてですね、ちょっと考えてみたいと思います。事件は2001年6月8日に起こりました。それから、大変な報道合戦が行われていきました。ひとつは犯人についてのですね、いろいろな聞き取りその他が書き立てられました。それからもうひとつは、なくなった家族の悲嘆を強調する記事がずっと載っていきました。両方の動きの中で、例えば被害者についての視点として、例えば被害者そのものの家族ではありませんけど、周辺にいた池田小の生徒たちに対して心に傷があると、いろんな活動がおこなわれている事を盛んに社会の肯定的側面として報道するということが行われてきました。
一方では、犯人の問題については何故こういった事態に至るまで、その周りは何をしていたんだろう。そういった非難がずうっと行われてきました。被害を受けた側の視点としては、学校が安全でないからという主張が多く行われてそしていっきに全国の学校で先生が護身術だとか防御の訓練をするのが報道されたりしました。これは池田小の問題だけれど、学校はここまで荒廃させられているわけですから、先生方は拒否する権利がない、職務命令でさせられる。そこまでいってるということを社会は指摘する力はありませんでした。もともと学校の先生は子供たちに知識を伝達し人間の生き方の範を示したりあるいはこの社会に一緒に生きるものとして話をするということがあって選ばれた職業です。防御のために戦うということは学校の先生の職務に入っていた筈がありませんけれど、そういったことがおおっぴらに行われましたし、あるいは、学校の中に、テレビが24時間、開校の時間から各地にテレビが置いてあり校長室にテレビのモニターが20個ぐらい並べてあり、とうとうと自慢している校長の報道が行われたりしました。私たちは、つい20年ぐらい前、学校の開放がかなり主張されていました。市民社会に学校を開放しよう。学校が終わったあと、いろんな形で学校を使って貰おうとか言われてきました。そういったことが全くなかったかのように防御ということだけに流れが作られてきました。そして池田小の保護者会は文部省に建物を壊せとか様々な保障の要求とかを積極的にやっていきました。そういう流れがありました。
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一方、犯行に及んだ男性については、彼は精神障害者としての障害者手帳その他を持っておりましたし通院患者でありましたし診断がついていましたので、鑑定は組織的に行われたと思います。彼をよってたかって彼を精神病者でないという動きをつくっていく流れを呼び起こしました。
判事の文章は考察がめちゃくちゃであの判事はまともな司法官としてのまともな判断をしているとは私は思いませんけども、この文章を見ますとですね、精神鑑定を行った京大のグループの文章を見ても、勿論この鑑定書を私はおかしいと思っておりますけども、それでもいろいろな問題点を書いてあります。文章(資料1)をちょっと見てください。そこには池田小判決文が書いてありますが、精神鑑定書には精神症状が列記されております。「被害妄想、嫉妬妄想、強迫思考、事件直前の反応性うつ状態」
そして「是非善悪を弁識する能力は十分に保たれていたが、しかし弁識に従って行為する能力は、主に情勢欠如故に、相当に低下していた」(林・岡江鑑定)と、こう書いてあります。いろいろな考え方はありますけども、一応鑑定書には判断する力はあったけれどもその判断に基づいて自分を制御する力はなかったと書いてあります。これは精神病質者だと診断された場合よく言われることでありますけれども、性格の異常性ゆえに判断はおかしくなくってもそれを制御する力がなかった場合は、学説がいろいろありますけれども、ひとつの流れとしたら、心神耗弱ですね。しかしこの、判決文はですね、こういうめちゃくちゃな事を書いてあります。
「被告の人格形成の過程を見ると被告自身の知的能力等には特段の問題はない上、生育環境がことさら劣悪だったとも認められない」これは嘘です。劣悪です。
「家庭教育や学校教育さらには刑務所での矯正教育も受け転職を繰り返しながらも就労自体は続け半ば強引であっても結婚するなど人並みに社会生活や家庭生活を送っていたのである」こう書いてあります。ここは司法関係に携わるものとしていい加減さをよくあらわした文章です。もう一回言いますけど、「刑務所での矯正教育も受け」と書いてあります。現在の刑務所が、どれくらい「矯正教育」として意味を持っているかをこの裁判官は日常的に見に行って調べたとは思われません。だけどいい加減な事を当然のように言っているわけです。彼はこの後に続けてこう言います。
「被告は自己の人格の偏りに気付いていたとも認められるのであるから人格をいくらかでも矯正しあるいは矯正は困難なまでもせめて社会に害をなさずに生きていくように心がける機会があったのではないかと思われるのに、そのような努力すらしようとせず逆にそのような人格に凝り固まりその偏りを強めてきたことがうかがわれるのであるから、結局のところ、被告自身が主体的に今日ある人格を築いてきたものと認める他はない。」と言っています。この人は、主体的に自分の人格を築いてきたと裁判官は決め付けたわけですね。そして、続けて、「被告は刑務所で相当期間の矯正教育を経ているにも拘わらず、その後よりいっそう、人格の隔たりを強めた事が伺われ、現時点においてはその隔たりの経過はおよそ類例を見られないほどに極端かつ強固なものになっていると認められるものであるから、いかなる矯正教育によってもその改善などとうてい期待できないと言うほかない」と書いてあります。だから、死刑と。
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滅茶苦茶ですよね。矯正教育を受けて本人の主体的に、矯正されて、それを、生きないといけなかった。しかしこの人は矯正教育を受けたにもかかわらず矯正不可能である、と。こういう支離滅裂な文章を書いて死刑の決定を行っているわけです。私はこの件についてはいろいろな形での情報を持っておりまして、例えば毎日新聞にかなり長い文章を書いたりしてますから、見られた方もいるかもしれませんけれども、本人は非情に強い被害妄想、関係妄想(テープ聞き取れず)持っております。そういったことに基づいて突然何かされるということで、逃げたり、あるいは逆に攻撃的になったりすることを何度となく繰り返しています。だから、簡単に、性格の異常による精神病質者と言い切ることができるかどうか疑問だと思います。勿論私が鑑定しているわけじゃありませんから、断定はできませんけど、疑問だと思います。現実にこの鑑定書を見る限りにおいてもですね、そこらへんにこの鑑定人は(テープ聞き取れず)ているわけです。にもかかわらずこういった形で鑑定書を適当に引用しながらでたらめな判決を下ろしました。
この話が、今日の話の中心になります。一応、こういうことで、本人は控訴をしない、裁判官に至っては意味不明な所感を書いて
「当裁判所は、子どもたちの被害が不可避であったはずがない、との思いを禁じ得なかった。せめて、二度とこのような悲しい出来事が起きないように、再発防止のための真剣な取り組みが社会全体でなされることを願ってやまない」なんて愚かなことを書いています。何で、そのようなことをするのかということが書いてありませんし、どうして出来るのかも書いてありません。無責任の典型みたいな文章で判決文を結んでいるわけです。しかし、これも含めて、この判決文は実は私たちの社会の知的レベルなんですね。こういう形での裁判官を私たちは容認している訳です。そして、本人は上告をしない。本人の手紙などのコピーもありますけども、盛んに社会を刺激するような事を言っております。もっとたくさん殺せば良かったとか、ガソリンでやればもっと死んでたとか書いたりして社会をせっせと刺激しております。そういうことに反応しながら一年足らずで9月に執行が行われたわけです。経過はそういうことですが、ここで見るべきものを順々に見ておきたいと思います。
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彼は、鑑定書に疑問がありますが、私は妄想性の人格障害か妄想性の精神障害の可能性があるというのを当初に言いましたけども、鑑定書でも精神病質人格であるということはそこでまとめをしております。
(テープ交換)彼は自分が小さいときから周りの人たちにばしば攻撃的になって攻撃と被害、被害と攻撃を繰り返して生きてきてここに至ったわけですけども,、そういった性格の形成は遺伝によって私たちは存在しています。人類の遺伝子がなければ私たちは人間ではありませんから、ホモサピエンスとして人類として500万年という長い歴史を背負った遺伝子を持っております。そして、個別性としてはお父さんとお母さんの半分ずつの遺伝子を持ってうまれてくるわけです。そういった生物学的な存在であるわたし達は、今度はお父さんお母さんとの人間関係から始まって周囲の人たちとの人間関係の中でいろいろな心理的な反応をしながら自己を形成していきます。その時に、心理的な個のいい面も含め悪い面も含め、こんな時には怒る、こんな時には喜ぶ、こんな事を妬むとか、そういったものは個々の人間が作って判断していく以上に、文化が決定しているものであります。それぞれの文化がこういう場面では負けたらいけないよと思う。こういう場面でははしゃぐとか、いろいろな形で場面を設定して分割して伝達しているわけです。だから私たちが生物学的に快とか不快を感じるというレベルに文化がそれをデザインしながら私たちの性格を形成していくわけです。だから、自分自身を自己理解するとき心理学的に一方的に自分とはと考えるべきではありません。私たちが最低限、自分を理解し人を理解するためには私たちはまず生物学的な生き物であってホモサピエンスという人類であって、そして、お父さんお母さんの遺伝子を持っている生物学的な存在として私を理解するという事なんです。それから親子関係とか周りの人たちといった心理的な関わりがあります。同時に社会、文化が私たちをどう形成しているのか、せめてこの三つをきちんと見ないといけない。この犯人についてはそういうレベルで言うと、お父さんの性格の異常がいろいろな形で伺われます。事件後にとった態度とかあるいは本人の父親に対する攻撃なんかに色々な事がでております。彼は自分の人生を妬みその他の中でうまくいかないと考え、そして自分の妬みの対象であったのは大阪教育大学の付属小学校であったわけです。その学校に行っているものを不幸に貶めようと考え、その後で、死のうと考えている。それは犯罪学で言う拡大された自殺でありまして、死ぬために社会を騒がす。死ぬために道連れにするという自殺行為であります。こういったとき、私たちは最初の私の問い、私たちはどんな社会をつくっいるのかを見直すきっかけとしてしか知る意味はないだろうという視点から言いますと、なぜ大阪教育大付属池田小学校というのはねたみの対象になるような教育環境と社会を私たちはつくっているのだろうかということを考えるべきだったと思います。それがひとつ。
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それから二つ目には、なぜこの人がここまでゆがんだ形でしか社会との係わりを持つことができなかったのか。そのことについて私たちの側にどんな社会をつくっているのかを考える二つのことが必要だと思います。
一つはもともと国立大学の付属の小中、高等学校というのは何のためにつくられたものだったのでしょうか。
それは実験学校です。そこには知的障害者だとか家庭が貧しい人だとか色々な人を入れてですね、有効な、優れた教育をするための実験校であります。決して大学受験のための名門校が国立の付属学校としてつくられるべきものではなかったはずです。それがそうなっていったわけです。そういうことについてねたみの対象にされた保護者会もそして社会もきちっと考えるべきでした。だけど、そんな動きは一切ありません。聞くところによると、池田小の保護者会の役員のほとんどは弁護士だそうです。こういった人たちが集まって、自分の正当性だけを主張するということです。一体、自分たちはこういう犯人をつくるような社会をどういう形で温存しているのか、このことを考えるという動きはゼロでした。もちろん私は、殺された家族の方にそういうことをすぐこの場でわずか一年足らずで考えよと要求する気はありませんけれど。しかし、保護者会とかそういったところでは自分たちの学校は一体何だったのかということを考えるべきだったと思います。しかし、そういう動きは全然なし、あるいは社会もなぜこういうことが起こるのかということを考える動きはありませんでした。
それから、犯人については性格のゆがみが一つの行為として出始めた青年期においていろいろな苦しみを訴えたりしています。病院がまともな医療がない。単に薬を飲まされるだけでもう駄目だと思って自殺しようとして飛び降ります。そういったことを含めてどんな医療しか私たちの社会にはないのか、その後の医療も全部そうです。
そういったことを一つ一つ見ていかなければならなかったのにそうなりませんでした。それから彼は色々な形で症状に振り回されながら事件を起こしています。事件を起こしても検事はそれを適当に処理していっているわけです。そういった意味では、現在の刑事政策とか警察がやったことについてきちんとした批判がないといけなかったわけですけども、そういったことは一切行われておりません。おそらく3番目の奥さんの家族、おそらく被害で苦しみぬいたでしょう。その苦しみ抜いた過程で警察とか検察がなぜここまで放置してきたかを問い直すという動きはなかったわけです。全てが本人の悪魔性を批判する方向に集中していくということでそして死刑に流れていったわけです。ここには死刑ということで本人の生命がなくなるということで一つの最終的な結果をおこしているわけです。 私たちの社会は事件に対する一つの構えを証人的に物語る処刑の仕方であります。私たちの社会はものを考える、犯罪を通して私たちはどんな社会をつくっているか、逆に言えば、私たちはどう生きているか。こんな社会をつくっている責任を、生まれたばかりの人を除く何千万分の一人として私たちは責任があります。しかし、その責任も問わないで一方的に相手が悪いということで一件落着、一つの事柄として落着してそして、しめしめうまくいったということで処理していこうという構えがあると言えると思います。この一件落着の心理は、また同じ事が起こるけれども起こるまでは考えないでいようという姿勢です。
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しかし、一件落着したように見えて死刑というものがもっている大きな意味を私たちはあまり考えたことがありません。たとえ人を殺めたといえその人たちを法の下に殺すということは私たちの社会が残虐であるということを認めるという面も持っております。昔から言われたことですけど、死刑が公開でやられていたときも密かに行われていたときも死刑が持っている社会に対する残虐性の助長効果ということが言われてきました。私たちは自分の社会がそういう残酷な面を持って成り立っているということを確認するという作業をしているわけです。逆に言いますと、私たちはこの社会が人間と人間が支え合って結ばれて生きる社会というふうに、もちろんそういう言い方をしますよ、言いますけども、ある時には言っているけれど別の面では残酷であるということを容認する。そういった面で死刑ということは非常に強く持っております。だから、しばしば死刑が行われると、その後に、そういった死刑を行った社会は犯罪が決して少なくない、増えてるといった色々な指摘がされてきたのはそういうことです。
もう一つの事件を私は非常に憤っています。オウム真理教事件です。盛んに死刑判決が出ています。それに対して社会の批判はほとんどありません。もう何人ですかね、死刑判決が出ているのは。十人ぐらい?
そのことの異常性について問題にしておりません。あくまでもオウム真理教に対しての社会の見方ですね。矛盾した二つの面があります。彼らは残虐非道な人殺しだと言って一般刑法上、もちろん裁判もそうですけど、裁いております。しかし、彼らは宗教集団であるという面も私たちは否認はできません。だから犯罪を犯した後もなおかつ彼らは解散もしないしそれなりの活動もしているし、あるいは、犯罪を犯したことはいけないけれども教義については生かしていくということを現在のアレフが言っていることに対して反論が出来ないですね。なぜかと言ったら、これは良いか悪いかは別として信仰の体系だからです。思想の体系だからです。そういう意味ではオウムの事件を起こした人たちは思想犯であり確信犯であります。そういった人たちに対して死刑を濫用しているわけですけども、つまりそこでは一般の殺人と同じというレベルで捉えるということで行っているわけですけど、実はこの問題は死刑という問題が国家による犯罪と死刑と密接した関係を問いかけていることを私たちは必死になって揉みつぶしているところがあると思います。
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忘れてはいけないことは、現在、9・11以来「テロ」という言葉が横行していますけども、ついこの間までテロと言うのは国家が行うものだったんです。権力者が行うものをテロルと呼んでいました。社会的用語として。権力が自分の権力を脅かすものに対して法によらないで秘密裏に殺害を行うのをテロルと呼んでいたのですね。そんなことをすっかり忘れております。そして考えておかなければならないことは、国家ほどテロルをやってきた組織はありません。アメリカは南アメリカ、中央アメリカにおいてあるいはアメリカの関わったところテロルをやってない地域はないんじゃあないでしょうか。そういったことを私たちは忘れてます。それから日本でも、死刑ということが言われるとき、当然思い出さなければならないことは、戦後はきっちり指摘されていませんが、事実はやっていたのかも知れませんが、戦前はさんざん国家はテロをやってきたわけです。古い事件では大逆事件があります。しかし、この社会は大逆事件についてきちつと言及し直ししてせめて殺された人たちの名誉を回復するための動きを示したことすらありません。現在の大学の法学部の教育ですね、日本の法律家たちが日本の司法がいかに人々を殺害し権力が拷問その他をしてきたかを戦争犯罪の歴史として教育するような講座もありませんし、教育する授業もありません。何にも知りません。そして司法関係者は司法は中立であると信じ切っているわけです。証拠の認定とか全部それは専門家としての教育を受けたものの能力だと思っているわけです。そこには過去の法とは何かとか考えなければならないのですが、それ以前の問題として、自分たちの司法が、ヨーロッパと接触の中で近代に急ごしらえでつくられたものです。近代国家としてのまねごとをするために急遽つくったものです。
その元にどれほどの人々を虐殺してきたのか。そういった歴史をきちっと踏まえることによって自らがあるにもかかわらず、そういう教育、そういう動き、そういう言及を一切していません。そういう中で、国家が持ってるテロル性について反省するという姿勢もありません。
私たちは死刑の問題を考えるとき、日本の法律で死刑に該当する項目は国家を脅かすと権力者が思うようなものがきちっと並んでいることを忘れてはなりません。内乱の中心人物は死刑ですし、外患の誘致、つまり外の敵に何らかの利敵な事を行ったり、あるいは外患援助、そういった外患を援助したものについても死刑。国家が死刑ということの中にテロルの面もきちっと明記しておりますし、そういう面を持って死刑は存在しているということを私たちは忘れております。
あと法律家の人たちは、誤判の問題ですね、戦後、明確に誤判が決定されたのは4件あります。他にもあるそうですが。私たちは過ぎたことを反省もしておりませんし、それはたかだか50年ぐらい経ったからといって、しょうがないということで済ませているわけです。
社会と死刑ということで視点をいくつか言いました。いずれにしても死刑というものが持っている事件を通して私たちが問題を考えさせないように、一件落着で、あんな悪い奴は当然死んだらいいということで済ませて、国家の暴力性とかそういったものを当然として認容するという側面を持っていることを私たちに忘れさせているということを見ておかないといけないと思います。
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私はこのことに関して犯罪を犯した人についてさせてしまう、社会を変えようとした確信犯とか、政治犯とか、そういうことではなくていわゆる刑法上の激情犯とか、あるいは怨念による殺人とか、そういった人についても話をしますけれども、ここで犯罪を犯した人を殺していいのか、あるいはその人格は変わるのか、矯正可能かということについて次に話したいと思います。
私は司法にいる人間ではなくてですね、医者です。そして、精神科医です。そういう立場から、あくまでも人間の全体で、それは心理学的なところから人間を見るということではありませんし、生物学的な決定主義でもありません。総合的に人間を捉えたいと思っているわけです。そういった人間として、私はいろんな精神病疾者と言われる人たちと会ったり診たりしてきました。殺人を犯した人の鑑定も行いました。あるいは海外で様々な虐殺をした人のインタビューもしてきました。そういう中で、考えが揺れ動きながら変わってきている面があります。殺人を行った人がわずかな刑期で出てきてそして酔った勢いで自分の殺人の殺し方を自慢するのをつきあわされたりすると怒りがこみ上げてきます。それから事件をまた起こした話を持ってこられたりするとやりきれない気分になります。しかし、一方では私はそれについて、その人はその時点で死なないといけないのか、殺さないといけないかということについて、最初の時からそういう人たちに会いながら疑問に思っておりました。その思いは臨床医の一員として働く中でだんだんだんだん強くなっていきましたけれど、いったん形成された人の人格というのはそんなに容易に変わりません。それから、団藤重光さんのように人格発展論ですね、そういうふうにずぱっと言いうるのもなかなか難しいなという気もします。そんなに容易に変わるものではありませんから。しかし、所詮人間が決めていることであります。14歳になったら送検するとか、18歳以下は死刑にしてはいけないとか、20歳になったら責任をとらすとかそんなことは、生まれてからの年月によって人間の成熟度とか責任の形成の問題を20歳の誕生日の一日目は有罪で一日前はとかそんな馬鹿なことはありえない。そのことでいうと人間は常に少しずつは変わっているものであります。だから、どうしょうもない、周りに迷惑をかける人を見ていても、その人が拘置されたりしながら何年かを見ていくとやっぱり人間は性格はなかなか変わらないですが生物学的な加齢による変化というのは私たちは勝てないなあと思うことが多いです。ひどい人でも年がいくに従って枯れていきます。これは私たちが持っている生命の時間です。ギラギラとした攻撃性を持った人もその攻撃性が次第に反応の仕方は変わらないとしても、その炎は少なくなっていきます。そういった人を見ながら私は何かの犯罪を犯したからといって人生のライフスタイル、若いときとか、中年ぐらいで生命を奪うという必要は何もないだろうと思います。そういう重いがだんだんだんだん強くなってきました。私たちの社会は非常に貧しく残酷な社会で何かを起こした人間は早く殺さないとその人を養っていく余裕がない。そんな社会である筈がない。もし、そういうことを言うのだったら、私たちは自分の社会観をもう一度見直すべきです。たかだか、わずかな人がこういった犯罪を二度と起こさないようにしながら処遇していくことぐらい、私たちが社会をつくっているのですから。そういった形で、百パーセント社会に責任があるかどうかは分かりません。非常に異常な人も居ますから。しかしそれは非常に少数ですね。
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そういったことに私たちは責任をとっていくことが必要だと思います。だから私は死刑を廃止していくということは、同時に、私たちが色々な社会で行った犯罪、社会が行った犯罪ですよ、それの責任をとっていくことと同じだと思います。だから、死刑を廃止するということは私たちは日本が近代で行った戦争犯罪について慰謝してそれなりのお金を払っていくとか、そういったことと同じ事につながっていると私は思います。そこで私たちは自分の社会観が問われているわけで、何か行われたことについてそんなことしてたら社会が貧しくなるとか、きりがないとか、そういう貧困な社会観を容認することによって実は私たちが権力の前に非常に貧しい人間として置かれているということを認めることになってしまいます。
元に戻しますけど、人格は変わるかという問いに対して私たちは人が生きていく歳月というものをちゃんと考えないといけない。ライフステージは子供の時、青年期、そして壮年期、中年期ですね。そこまでは色々な形で社会が持っている、ゆがんだ価値観に振り回されながら事件を起こした人でも次第に枯れていきます。枯れていったときに自分の人生がこんなつまらないことをしていたということを振り返る時間が必要です。だから、人格と時間ということを私たちはもっともっと考えないといけないと思います。
刑罰の問題として、こんな議論があります。死刑を止めて終身刑、それはもっと残酷だ、という言い方があります。確かに残酷さという面は昔から言われてきたことですけど、暴力のひどさと持続が残酷さの基準です。 だから、人の命を絞首刑にするなんてことは残酷の典型であります。論理からだけ考えると終身刑も持続した生涯にわたる刑だからこれは残酷だ、だからそれは一瞬の残酷さと等価である、と言う人がいます。でも、これは論理の遊びですよね。さきほど言いましたように、それぞれの人は再び他者に危害を加えないという条件の中で自分の人生を全うしそのことを振り返る時間が必要ではないかと思います。私は必ずしも死刑になった人が最期に自分の死を直面する形で深く反省し人間として変わっていくということを全部を全部おめでたく信じるわけにはいきません。それは直面した人間として心の持ち方ですから。その人がまた一瞬、恩赦とかになったときにまた別の面を出していくということも見ております。死刑そのものが人間を浄化するという面があるということもそのまま信じるわけにはいきません。しかし、先程から言っているように人の時間列は加齢と共に変わっていきます。晩年に到ればそういったことを振り返るとか、あるいは振り返ることが出来なかったとしてもそういうことを行う力がない人間になっていくわけです。それを私たちは待つぐらいの社会をつくっていくことが私たちの住みやすい社会をつくっていくことであります。やったんだから殺すという残酷性を容認する社会に私たちが住めば、それは別の形で私たちの生きる生活を残酷なものに変えるという面も持っていると思います。
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それからもう一つ、つい最近のことですが、死刑は許し難いなと、自分の私的なことばかり言っていますが、ほんの小さな引き金として、許し難いなと思ったことがあります。上智大学のリシャット・ボネット先生から日本の死刑はここ数年、いつか終わりますよと言われたのですが、絞首刑のボタンを押す人が3人から5人になったんです。3人では誰のボタンが引き金になって死んだかしんどいから、もう少し数を増やそうということになって5人でボタンを押すようにしたといいます。やるせない怒りが起こりました。確信的に国家が正しいことをやってると思うんだったら一人でやれと思います。それを、誰か分からないようにして3人でやっていてダメだから5人にする。それほどインチキなことをやっているわけです。その話を聞いて、表面的なことですけれど、私は非常に怒りを感じました。
もし、殺されたばっかりで、すぐ身近な家族の人の感情は別にして、その人の感情もまた先程の実行した人の感情と同じく時間の中で変わっていきます。だから、直の感情をそのまま容認するわけにはいかないと思いますけれども、その人のことは一応かっこで括っておいて、悪いことをした人は当然死ぬべきだと言う人はじゃあ自分がやればいいではないか。私はいつも学生諸君に言っております。あんたは自分で首を絞めたらいいだろう、と。絞めれるか?という問い方をしますけど、自分でやれないことは国家がやる。人格性をなくした組織体が行う。そういうときには残虐であるということを忘れられる。そういう文化を近代の中で徹底して身につけているわけです。これが、坂口さんたちが拘っていることのようです。大阪拘置所の刑務官が死刑の執行をする。それは自分が良いことであると思っていないことを実行するということについて責任はないのかという問いかけをしております。もちろん、彼らの弁明は、恐らく良いことでないと思ってないから責任があると言っても答えられないということなんでしょう。しかし、そこには先程言ったような3人を5人にしたりしたようにいろいろな葛藤がありますね。後の気分の悪さとかそういったことをいろいろな形で装置として誤魔化すように作ってあります。もちろん、いいことでも葛藤はあるじゃないかと、反論するかもしれませんけどしかし、死刑というのはあまりにもアンビバレンツな面を持っております。みなさんは死刑の執行人と仲良くなりたいと思っていないのじゃあないでしょうか。これは差別を言っているわけではありません。昔から死刑の執行人は社会から忌み嫌われてきたものです。それは死刑というものが両化的な価値を持っているからですね。
殺せ殺せと言っときながら殺したことについて不安になる。そういう面も持っているわけです。そういった歴史はもういい加減に止めないといけないですね。そのことを私たちはきちっと考えていかなければいけない。
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私たち社会はそれを誤魔化すために徹底して先程のスライドで見せられたように死刑の執行は秘密裏に行われています。秘密裏に行うということも近年の文化に密着していると私は思っております。今私は九十年代からの最も嫌いな言葉の一つは「粛々(しゅくしゅく)」です。人の意見を聞かないで討議したり説明したりすることを止めていい加減なことを言って行動だけ実行するのを「粛々」という。こんなウソの言葉の使い方はありません。粛々というのは、静かで控えめなことをいう。自民党の政治家が使っている粛々は全然粛々ではありません。ごう慢です。死刑の執行のプライバシーだとか執行される人間の精神の安定だとかウソばっかり言いながら秘密裡に行うことをこの粛々の誤用の文化につながってると思います。こういったことがヒタヒタと私たちの社会には進行というか、前からずっとですね、行われているわけです。
死刑の粛々との係わりのことで言いますと、死刑を容認している社会と対比的に先程言いましたように死刑に代わって私たちは犯罪を犯した人にどんな責任があるのかということを考えるということと対になっているわけです。その考えの中には刑務所がどうなっているかを私たちはちゃんと知って、そこを見直していくという作業が必要です。これも最近起こったことのように言うから批判を書いた文章をお見せしました。(資料2)
名古屋刑務所で受刑者が殺された事件がありました。盛んに法務省はやった奴が悪い式でそれを処分する形で逃げようとしました。しかし、行なったと言われている人間は盛んに、大変な人間を預かって職員の数が少ないのに乗り切らないといけないから、というようなことを言うわけですね。そういう話になってしまって、これはこんな刑務所しか運用できないようにしている責任者という問題が全然問われない。一番大きく処分されるのはさしあたっては刑務所長の筈ですよ。病院でも全部そうです。医療事故が起こったときはその人が悔いがあって行った犯罪的でない医療事故でない限りは病院長が徹底して責任をとらされるべきだと私は思います。なぜかということはここに書いてあります。施設のトップというのは刑務所の場合は職員と受刑者をそれぞれの受刑している人たちが人間に対する信頼を取り戻すような組織としてマネージメントしていく責任があります。そのためのトップであります。そうでない人が所長でいたということは絶対に処分されるべきです。病院のことで言いますと、医療事故が起こったとき医院長の責任というのは医師とか看護婦がコミュニケーションがよくお互い信頼しあえるような職場を作っているかどうかが問われるのです。どこかで臓器の移植を一件やりましたとかいうことでマスコミに載ったとかそんなことではありません。そうではなくて相互の疎通性が良くてそこの中で人間はいつもミスをしているわけですからおかしいと気づいたとき気持ちよく「問題があるね」ということを周りに伝えてそれがみんなで協力されて気づきになっていけるような職場をつくっているかどうかです。
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そういったものをつくっていく責任が病院長にあります。同じ事です。刑務所というところは中で罪を犯した人間がいろいろな形で自分を振り返ることが出来るようにするためにはこれまでのその人の人生観が、社会とは弱肉強食であり何をされるか分からない、自分は最低限の位置にあって良いことは何もなかったと、そう思っている人に社会はそういう面も確かにあるけれどそうでない面もあるんだと。信頼しあうことによって人間と人間はこんなふうにつながっていくことができるんだということを体験として伝えていくことが出来なければなりません。そういうことが出来ないような形、徹底して事件を起こさない、自殺を起こさなければ良い徹底して強圧的にやるということが現在の日本の刑務所ですしそういったことを私たちは見つめ直すということができません。先程の池田小の判決文などは典型ですよね。矯正するために行ったのだから矯正されてる筈だということを平気で書いている。あるいは神戸の事件の判決を書いた家裁の判事もそうです。医療少年刑務所に行って矯正されたらいいなどと平気で書きます。確かに社会的にあれほど注目を得た人は特別な対応をされるかも知れない。しかし、現実の医療刑務所にしても一般の刑務所にしてもこれは犯罪の学校ですね。そういうこと容認しているのは自分が適当な判決を書いて送ってる判事であります。そういったことをトータルに考えていくという姿勢がなくてどうして私たちは今度の刑務所で起こったことを批判できるでしょうか。刑務所はマスコミに対して完全に閉ざしてます。閉ざしておきながら「良くなっている」と言うんですね。「良くなっている」というのだったら見せれば良いのだけれど、見せやしない。そういうことを私たちは容認しています。
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私は、25年くらい前のことを思います。ストックホルムの人たちが日本の精神病ということで私をインタビューに来たことがあります。その後、彼らの所に行くことがありました。「アール」という組織があります。聞いていたんですが、その事務所、古いビルの二階にありまして上がっていきました。そしたらジャンパーを着た厳ついオッサンが書記長であいさつされました。元銀行ギャングですと。アールというのは社会復帰を進めるための犯罪者組織です。犯罪を犯した人たちが今のアルコール中毒、薬中毒と同じですね。自分の起こしたことを通して起こさないような社会を作り起こしている人に、おまえもうやめろということを社会の活動にしていくということを中心においている組織です。スウェーデンでは犯罪者の社会復帰は日本と比較になりませんでした。例えば刑務所内の医療の改善のために受刑者がプラッカードを持って町中をデモすることは認められていましたし社会復帰のために妻とか夫が刑務所に来て一晩過ごす二晩過ごすということも認められていました。あるいは刑期が終わりになっていくと刑務所から工場に職場に働きにいくということもやっておりました。
そういう中でアールという組織があったわけです。翌日も行きました。たまたま建物の50メートル先ぐらいの銀行に銀行ギャングが入りまして周りが封鎖されました。そこでアールの組織が行って銀行ギャングと警察の間に立って立てこもっている犯人に殺すなという呼びかけをし、こういう中では判断力が半分以下になるから慌てるなということを盛んに犯人に呼びかけながら仲介をとっておりました。こういう活動を見ていると私たち社会がいかに犯罪に対する一件落着、いい加減で真剣に取り組んでいないかを対比的に教えられます。私たちはする事はいっぱいあるわけでしてその糸口として死刑を通して、犯罪を作っている社会を見直すということは大事な視角ではないかとおもいます。ここに集まっている人たちは死刑だけは絶対に許せないと思っている方たちでしょうからそういう人たちの思いを十分私はくみ取るような言い方をしなかったかも知れません。
しかし私の思っていることは、死刑ぐらいは廃止するということを通しながらもう一回、私たちはどんな社会をつくっているのかを、どんな犯罪の処遇と犯罪を起こす社会を作っているのか考えてみるための大事な視角が死刑を廃止するということの中にあると私は思うわけです。
時間が来ましたのでここで終わります。
質問1
質疑
A 宝塚市で教育基本法に反対する集まりがあったんですが、その講演終えた質疑応答の時に宝塚市の小学校に5年生のお子さんがその集会にも来てたのですが、そのお父さんが発言されて今年の小学校の卒業式に戦争の問題日の丸君が代の問題を話されていて、そのお子さんが卒業式で君が代を歌うときに立たないで座っていた、と。教室で他の生徒から「おまえアホか」とか「何で立てへんねん」とかとさんざん罵られた。その子はめげずに「お父さん、ぼくのやったこと間違ってなかったんやね」と家に帰って話したそうです。宝塚市というのは教育労働者の運動が強いところでほとんどの子供たちの保護者は卒業式の場合でも起立しなかったわけです。それが、国旗、国歌法が出来て、ひどい状態になっています。また、イラクに行って反米武装勢力に殺された日本の青年がいます。その青年も殺されるまではご自宅に日本全国から誹謗中傷する電話とか手紙とか殺到したと聞きます。殺されてからはさすがに2割弱来るようになったといいます。でも8割は家族の方を誹謗中傷するようなものでした。いじめと言って良いと思います。先程お話あったようにオウム真理教の問題でもあるいは大阪教育大付属小の事件の問題でも大きないじめと言っていいと思いますけどもね、本来は敵の所在はもっと強い力を持っておる権力者の側にあるのに弱い人民同士がいじめ合うという、そういういじめがどういう心理構造から来ているのかお話を聞かせてもらえれば有り難いなあと思います。
質問1へ野田さんから
野田 心理構造の問題ではないと思うんですね。そういうことをするように文化がプログラムされているからだと思います。先程からずっと行って来ましたけれど、あまりに近年心理主義が横行して心理しんりということになっているのですが、これは文化ですよ。社会が持っている、表には出さないけれど陰で
する、国家が右翼とかやくざを飼っていてそして反対派をテロルとかこれは心理と思いますか。そういう視点で見ても成り立ちますけどもね。山口二矢が浅沼を殺したのは青年の心理だったという話になってしまいますけどもね。しかし、これは私たち社会が作っている制度ですよ。表向きは刑法があって何とかと言うけれど逆らう人間にそういう形で陰で暴力を振るい萎縮させていくというのは社会的な制度です。もしそれが制度じゃないというのだったら権力者はそういうことは良くないということを言うべきですよね。今回たまたま偶然言いましたけれども、天皇は自分の名の下に人が殺されることは容認しがたい事ですそれを言わさないようにしているのが宮内庁でしょ。制度であります。それは心理ではなくシステムだと思います。私は報道されたこととかある程度共感しますけれども、私の所へも脅迫状はタラタラ来てますから、大学宛に、いま移ったばかりですから、もうそろそろ来るんだろうけど。人事部長だとか学長宛にやめさせろとかそれから文部省止めさせるように手紙を送ってるとか、途中気をつけろとか非国民とか山のように来ますから想像はつきますけれど。ここでは日頃から自分の考えに反対する人の所へだけではなくて他人の不幸の所にいくこともあります。例えば、何か大きな事故が起こったとき、被害者のある程度の情報が分かる場合、そこの家を特定して手紙とか電話をするとかですね。
私の経験で一番ひどかったのは85年御巣鷹の事故の後、遺族の所に「おまえの家は祟りで死んだんだからお払いをしてやる」とかねそういう類の手紙とかさんざん来るわけです。
あえてあなたが言うように心理的に分析しろと言うのなら、私たちは子供の頃から上に対して卑屈、従順ですね。権威的なものに対してかしこまるとかね。あるいは皇居や神殿に行って神気を感じるとかね、厳かな気分になるとか、とにかく上に対してへりくだる。そのことは別の力ですね。自分は上昇してると思ったら下に対しては威圧的になる。そういう関係性をとっていくのは社会であり人間関係であると小さな時から身に付いてます。戦後表層的には平等とか何とか言うけどそれは安もんの金メッキでありますから、そこに相変わらず流れているのは権威に対するへりくだり、そうでないと思うものには威圧的になる。おまえは国家に対して従順でなかったからこういうことになったんだと、へりくだれという形で言ってる場合があると思うんですね。子供は大人の社会のままごとをしながら生きていますから、特に70年代の終わりからから80年代にかけての高度経済成長の中で企業内人間が奴隷化されていったわけですね。サラリーマンの奴隷化が進行して企業でさんざんいじめられてきたわけですから、子供も小さいときからその練習しておかなければ生きていけませんね。どんな瞬間にいじめられる側になるのか、いつも何となくいじめる側に立っているにはどうしたらいいのかという練習を身につけそれがだんだん下に降りていってるのが現場の状態ですね。これは心理の問題ではなく文化の問題だと思います。そのためにはこの文化の構造を変えていく必要があるのではないでしょうか。
質問2
女性
死刑執行する人の執行させられることを職業としている人、それはある種特殊の職業だと思うのですが、もしその時その人たちが執行しなければ職務怠慢になりくびになるのでしょうか。それが一点。
それから、執行させられるそういう人たちの心理、心の動揺といいますか、職業とはいえ、そういう一人の命をなくしてしまう権利があるのかとか、もし自分がその職業に就いていなければその人は助かるのにとか、あるいはそれはトラウマになって、後々のその人の人生を変更してしまうとかそういうことがあるのではないかなと思うのですが、その辺のことをお聞かせ戴けたらと思います。
質問2へ野田さんから@
野田 まず、刑務所に勤めている人を特殊な職業だとは私は思いません。ほとんどの職業は特殊ですよ。お話しされた言葉の中に、なにか普通の職業があるという思いがあったから聞かれたと思うけど、普通の職業てなんですかね。ほとんどの職業はそれぞれで特殊じゃないでしょうか。だから、特殊とか普通とか言ってもあまり始まらないので彼らも普通の職業だと思って勤めているでしょう。警察官だって特殊ですよ。学校の先生だって特殊ですよね。で、止められるかどうかということですが、あれは強制されてないわけだから、私は出来ませんと言っておくと多分当たらないでしょうね。詳しいことは知りませんけれど。そんなことを言う人が居ないからそのまままわってるんじゃないでしょうか。
私はフォーラムで講演してと言われたとき感心したんだけど、問題の立て方が凄いこと言われて居るなあと坂口さんの文章、やっぱり執行する人間に良心を感じさせて呼びかけるということですが、これは大変な提起をしていると思います。日本の文化でも、近代社会全体がそうですけども、特に日本の文化はですね、小さいときから、例えば太平洋戦争の天皇の宣戦布告の文章にありますけれど、いつも「おのおの分をして知らしめよ」という文化です。それぞれの役割の中に生きなさい。社会はイメージとして大きな歯車です。自分がその役割の中に生きたら、社会はうまく回るはずだというメッセージが小さいときから叩き込まれます。うそですよね。それぞれ努力したら必ずおかしな事をやる社会であります。巨大な悪をするようになるわけですけど。しかし、社会全体が何をしているかを考えない。自分の歯車だけちゃんとしなさいということを小さいときから伝えられています。みなさん教育でさんざん自分の子供にしてきたことではないでしょうか。いろいろなことを言うよりも今、ちゃんと勉強しなさいとか、あれしたいこれしたいというよりも、今きちっとこれしたら将来なんでも出来るからねとか、言わなかった人もいるでしょうが。それぞれの分においてですね、ベストを尽くせということを盛んに言ってきたと思うんですね。そういう文化です。そういう中でいつも言い訳があります。自分は何も好きこのんでやってるんじゃない。その役割の中でやるんだからその役割を判断する側に言ってくれ、ということを常に言ってるわけですね。あるいはそれが悪いことと判断してもですね、しかし生きていくためには当然だと。世の中はこういうふうになっているんだからという言い方をしますよね。それはいつもそうです。ほとんどの企業でやっていることで、私は全面的に正しいことをやっている企業なんてないと思っています。かなり悪いことをしています。しかし、表向きはピカピカです。しかし、やっている人たちは企業の中に入ったら必ず気づくはずですね。しかし、他もやっている。だから、私もそれをやっていかないと生きていけないということが自分を納得させている説明理由ではないでしょうか。そういうところが通じ合ってますよね。近年、内部告発する事に意味があるんだと一応主張するようになりましたけど、全部歯車として生きる、良き歯車としてあれということを言ってきたわけです。国民教育というのはそれをしてきました。
質問2へ野田さんからA
偏差値というやり方も同じでしょ。偏差値というのは統計学的にネジ釘を作ったときにネジがうまく付いているネジ釘が中間値としてどれくらいたくさん出るかという計算式が偏差値ですけど、ああいうことが教育の中で使われて中間値をいかに高めるかということをやっているわけですけど、国民教育全体がそうですね。良き奴隷として生きられる人間を作るというのは国家の教育ですから、逆に自分がどういう国家の中に生きているのかは考えない。あるいは批判しあるいはそれを友達と話し合う。良き市民を作るという教育を私たちは受けているとは思いません。
そういう中で、先ほど言われたように自分は歯車として生きているだけであってしかも悪いことしてるわけではない。悪いやつは法のもとに裁かれるんだからというふうに思い込んで生きている。それに対してあなたたちは良心があるかと問いかけをすることは、いい意味でドンキホーテのようなもので大変な問いかけをするんだなあと思いますけども、その問いかけの中に私たちの社会がどれほどゆがんでいるかを考えさせられる視点は込められていると私は思います。
質問3
坂口 野田さんをお呼びしたいなあと思った事として、刑務官に責任はないのかという言い方をしていく事が正しいのか。ぼくは余り考えないでやっていて、ぼくたちの目の前に大阪拘置所があって法務省までは遠いし署名する事も力にはならないと思うし、だから執行を行う刑務官や命令を下す署長に向かって「執行するな」と言うていくしかぼくにはないんです。だから、大阪で執行があるかもしれんという事が言われたりしたら何をしたらいいのかわからへんけど、とにかく拘置所の周りをおおさかフォーラムとして夜廻りするということを続けてきています。そういったときに、それを否定するような声を、身近な人を含めて最近よく聞きます。「2チャンネル」というHPで、僕たちが拘置所前の公園で毎年してきている花見について「花見とかしちゃいながら拘置所の職員に因縁を付けている団体」と紹介されているんですね。
あるいは、身近な人からも、拘置所に向かって言うていくのは筋違いではないか、法務省に言えよといった言葉が返ってきたりします。ぼくの中で、これでええんやということでやっているのではないんです。それしかないなあということでやっているんです。でも、そういう批判を受けたりするとすぐに揺れたりしてしまうんです。
野田さんの本の中で、戦争中に中国で捕虜を拷問したり虐殺した日本兵が戦後捕まって裁判にかけられたときにはじめは「上官の命令」ということを言っていたけれど、入れられていた独房の壁に血で書かれた「日本軍国主義打倒」という文字、拷問された中国人が流れ出た血で書かれたそれを見ることを通して少しずつ変わって行くんですね。「命令したものには命令したものの責任はあるが、実行したものには実行したものの責任がある」と考えるようになっていく。で、ぼくはそのことを死刑執行にあたる刑務官にあてはめて考えているのですが、それに対する批判もあって、ぼくたちのやっている事がそれでいいのやろうかとも思ったりします。ぼくたちのことを「因縁をつけている」と言われていることも合わせて野田さんはどう思われるかなということをお聞きしたいです。
質問3へ野田さんから
野田 言葉はどうでもいいと思うんです。因縁でもいいんじゃないでしょうか。夜廻りされることによって、まず刑務官に死刑とはなんだということを考えてもらわなければいけないわけですね。戦争犯罪とかなり違うのは戦争犯罪はある程度倫理的に許されないことをやっているということは知っているんです。一般の日本の民衆は村社会、町社会でモラルを教えこまれます。火をつけるな、人を殺すなとかですね。モラルを身に付けているわけです。そういう人が、戦争においては一定程度別な場面である。相手が武装して自分が殺されるという場面では戦ってもいいというこれも近代の社会観であります。それを越えることをするわけですね。相手が捕虜になっているとか。そこには若干自分の良心の呵責を持っています。しかしそれは命令だからしたということですね。そこの問題を聞き取りしている分析がありますけれど刑務官の場合はそれはないと思うんですね。おそらく自分のモラル、良心的な正しさを感じてはいないでしょ。これは制度だからという事ですね。相手も悪いんだから、と。そのためには彼らはそういう形での制度がどれくらい社会をゆがめているかを気付いて貰わなければならない。そのためのきっかけとしてはやっぱり呼びかけする事は大事な事だろうと思います。ただ、私としてはこれは個人的な好みの問題かもしれませんけど、さっきの池田小の判決を下した判事の方が頭にきますね。ああいうでたらめな事を平然と書いてそして死刑の判決を選ばざるを得ないと言ってる人間の方が頭にきます。両方あっていいんじゃないでしょうか。坂口さんらの運動もあっていいし執行を命令する法務大臣への批判もないといけないと思います。
質問4&野田さんから
中原 四点だけ手短にお話します。運動をはじめて最初に刑務官の家族の方から刑務官がそういう仕事をしているのを特定化するようなじゃない方法で言うて欲しいという事で,私は刑務官という言葉を使いませんでした。それから,かなり前に執行場を持っている拘置所に執行命令拒否の手紙を出しましたが一通だけ返ってきました。それから日本死刑会議というのを開催したときの事ですが、スイッチを入れたときに電気が通ってなくてもう一度死刑をやり直したという事実があります。終戦後のどさくさの中で20数年間80何件に関わった方とお話をしたときのひとつですけど、その方は仕事として人を殺す事を平然と出来るようになるのに六年かかったと言ってました。六年かかったら何の痛みもなく綱を引っ張られたそうです。事実としてご報告したいと思います。
野田 今の事に関連して、みすずから非情に面白い本「処刑電流」という本が翻訳されました。電気処刑をものすごく追及してエジソンがいかに悪いやつかという事を書いてありますけれど、その本の中で思ったのは、いかに執行の途中が滅茶苦茶だったのかという事で、日本でもきっと大変な事やってると思います。まつたくの秘密裏ですからね。どれくらい苦しめていたぶり殺しているか、主観的な意図がなかったからと済ませているのでしょうけれどきっといろいろな形の問題がいっぱい起こっているんだと思います。完全な秘密主義だから全然分かりません。
質問5&野田さんから@
男性 先生は死刑廃止は理想論だと思いますか。ぼくは、今は理想なんですけども理想論ではないと信じてその事に対して行動をとろうとしてるんですけども、私は死刑絶対に反対やという立場ではないんです。事件は問いかけのチャンスやと、それを大いに生かしたいと思うてるんですけど先生はその問いかけにどういうことをするのが一番効果的であるか、ぼくにとってですよ、知りたい。
野田 死刑のことだけについて言えば、私は理想論というのではなく絶対廃止すべきだと思っています。そういう話をしたというつもりです。ただ、考えるためには事実を知らないといかに滅茶苦茶な事を私たちはしてるか。それを知るための手段ですね。手段が私たちにはないんですね。あまり。つまり情報は完全にコントロールされて何をしているのか伝えられない。池田小という一例を挙げましたけど、犯人は逮捕されたけど、いかに社会はインチキをやりながら、検察とかマスコミとか問題を隠蔽していくか、それをどうやって知るか。それについては死刑についてのインチキさを知るということで活動されるのはひとつの方法でしょうね。具体的にどういうふうに行われているか、そのための情報を得るとか、もうひとつは死刑とかと離れて自分の仕事の範囲、生活の範囲でいかに権力が情報をコントロールしているかということをいろいろな形で分析し知ることを要求しそして自分を考え直していくという作業をする、それしかないんじゃないでしょうか。私たちがえいやっでどちらを選ぶかといって、なんぼ考えたからといって答えは出ません。知らないといけないです。例えば被害者はどんなふうな感情で変わっていくのかということちゃんと知らないといけないでしょう。それから加害者の家庭はどうであったのかとかね。
その後どうなっているか。何でも知らないといけない大事な事があると思います。
質問5&野田さんからA
男性 その場合ですね、死刑囚と面談する機会はないんですね。
野田 それはないです。(男性 学校の先生とか・・・)学校の先生もありません。アメリカなんかと違って
今死刑を維持している先進国というのは日本とアメリカの一部でしょ。そんなことすら日本の国民は知りませんね。ヨーロッパの国は内乱罪を含めて全部廃止していますよね。現在、あれほどまで今度のテロの容疑者についてアメリカが言っているのはイギリスにテロの容疑者が移るのを彼らは抵抗するわけでしょ。ヨーロッパの国に行けば極刑はないんです。そういうことすら知らされていないですね。一番、近代のここ50年ぐらいの流れの中で死刑によって社会は良くならないということが先進国の基本的認識になっているのです。ということすら知らない。そういうことを知っていかないといけない。日本は全部隠していますからね。刑務所の中でも全部そうです。私はたまたまね、大学の精神科には京都の医療刑務所の医官の募集があるんですね。とにかく国家公務員の技官待遇で給料はいいから来ないかという掲示が出るんですよ。勤務は週2回半日来るだけでよろしい。あとは研究ができますから、とね。なぜかと、言ってる人に聞くとね、刑務所長は医者は毎日来られると困る、と。疥癬ができてるとか衛生がどうだとか医師やが言い出すと困る、と。法律に決まっている範囲において来るだけ居ってくれてたらいいという上の人の話を聞くわけですね。こういうのが組織というのは積み重なってるわけです。それは何も刑務所の話ではないでしょ。みなさんの居る職場が似たりよったりではないでしょうか。だから、人のことをあばいたらいいと思うけど、自分のことをあばくのが一番いいのではないでしょうか。
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