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日本式曖昧模糊
11:32
今日の話題
アナトリー・コシキン、東方大学教授、兼、歴史学博士。
現在ではすでに退任した久間章生防衛大臣はアメリカの広島と長崎への原爆投下を賛美し、歴史を修正すると言う拙劣な試みにより大臣の職を失った。公開声明の中で彼は、「日本の都市に原爆攻撃したアメリカ人に悪意を抱かない。なぜならこの行為はソ連が北海道を占領するのを防いだからだ」と発言した。しかし、歴史を覆す志向を持つ人物は何も久間1人に限ったことではない。日本の北の島、北海道を、北朝鮮(朝鮮人民民主共和国)のように、「日本人民民主共和国」のような国にすることをスターリンが画策しているかのようにプロパガンダの影響で真剣に信じている多くの日本人と私は何度も論議するはめになった。
日本本土占領の構想はソ連軍やスターリンではなく、アメリカの軍事政治指導者が持っていたことは事実と書類が証明している。アメリカは日本全土を4つの占領地区、アメリカ、ソ連、イギリスそして中国の4つの占領地区に分割する計画を作成していた。その計画によれば、ソ連軍は北海道と本州の北東部のすべてを含む日本本土の広範な領土を占領することになっていた。面積では、ソ連の地域は、アメリカ地区をも上回っていた。日本の分割は、占領体制の組織の各国の負担を軽減し、アメリカはそれ故に自国占領軍の数を削減することを可能にすることが出切ると思った。この計画は、ある時期まで、アメリカの同盟軍にも秘密にされていた。従い、ソ連指導部にも知らされなかった。
ヤルタでもポツダムでも、日本本土へのソ連軍の上陸の問題は提起されなかった。軍国主義日本の瓦解の際、ソ連の責任地域として、中国北東部と朝鮮半島北部の地区が位置づけられた。ヤルタ協定にもとづき、ソ連軍は、日本人から、南サハリンとクリル諸島も立ち退かせた。
スターリンが北海道を「戦争により争奪」する計画を持っていたとの思惑は、1945年8月16日付けのスターリンの米大統領トルーマンに宛てた個人的声明により発生した。しかし、実際の彼の声明の中では、「日本がソ連軍に引渡す地域は北海道の半分である。北海道の北部地域と南部地域の間、つまり、北海道東岸の釧路市から西岸の留萌市までに沿って境界線を引き、釧路市も留萌市も北海道北半分に含め、それら北部地域をソ連軍の管轄とする」との提案がなされた。
この最後の文章は、ロシア世論にとって特別な意義を持つ。周知のように、1919年から1921年に掛けて日本軍はソ連の極東部全域を自軍の占領下として支配した。このことを思えば、ロシアの世論は、もしロシア軍が日本の領土のどこの地域も占領区に持てないような結果になったなら、非常に憤慨したであろう。
私は、上述の私の(日本全土ではなく北海道の半分だけを占領するという)控えめな希望が反対されないことを切実に願う。
日本全土を管轄する意向のトルーマンの回答はNOだった。その回答により、スターリンは北海道の北岸にソ連軍を「象徴的」に上陸させる計画を断念せざるを得なくなった。一方、当時の影響力ある日本人の間には、ソ連軍が日本列島に上陸する希望についての考えがあり、それは、思うに、アメリカ人に、日本市民に対して専制かつ強制的態度を取らせないためのものだったことが囁かれた。1990年代に明らかになったことだが、日本政府には、1945年の夏に、南サハリンとクリル諸島だけでなく、日本に対しソ連が中立を維持するのと交換にソ連政府に北海道も譲渡する試みがあった事実を思い出すと前述の考えが理解できる。
「ソ連の銃剣による社会主義北海道」を設立する意向に関する憶測については、「冷戦」時代の反ソ的神話創造と解釈すべきだ。ソ連にはこのための手段も経験もないし、必要な人材もいなかったことを述べればこれは単なる憶測に過ぎないことが判る。
自国の使命を遂行し、ソ連は、最大限に短い期間で、中国と朝鮮から自軍を引き上げた。ソ連軍は、完全に、国が蒋介石体制の政権下に残ったままになり、共産主義の勝利も全く保証されていなかった1946年5月までに中国から撤退した。一方アメリカは大量の軍隊を現在まで日の出ずる国(日本)と韓国に駐留している。しかし、この駐留は、どうやら、前防衛大臣久間章生と同類の日本の政治活動家を困らせてはいないようだ。
ロシア・ノーボスチ通信社 2007/07/10
http://www.rian-japan.com/news/details.php?p=540&more=1
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