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□安倍退陣か、運命の投票日 [文芸春秋]
▽安倍退陣か、運命の投票日(1)
http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20070710-01-0701.html
2007年7月10日
安倍退陣か、運命の投票日(1)
「起きてしまったことを言っても始まらない。自力で勝つと腹を決めてやりなさい」。参院でどちらが過半数を取るか、与野党双方が「天下分け目の関ヶ原」と位置づける参院選の公示(七月十二日)を前に、自民党参院議員会長・青木幹雄の下には、各地の候補者から厳しい情勢を伝える悲鳴に近い電話が続いている。できる限りの支援を約束した後で、青木が口にするのがこのセリフだ。
生家は日本海に面する島根県・旧大社町の網元の家系。青木には「板子一枚下は地獄」の漁師の血が流れている。いったん海に出れば逃げ場はない。どんな荒天も、アクシデントも自力で切り抜ける以外ない。死んだ気になって全力を尽くす、ただそれだけだ。候補者への「腹を決めてやれ」という叱咤激励は、青木の処世訓でもあった。
だが、今回参院選に臨む青木の姿は、これまでとどこか違う。鬼神もこれを避けるような迫力に欠けるのだ。
幾多の修羅場をくぐり抜けてきた「参院のドン」もこの六月で七十三歳。三年後の参院選には出馬せず、政界を引退する意向を固めている。選挙が終われば参院議長に就任し、残りの三年間、生臭い党内政治は後継者の現参院幹事長・片山虎之助らに任せ、悠々自適の日々を送らせてもらおう。そんな思いがアドレナリンの分泌を抑える役目を果たしていた。
もう一つの燃えない原因は政権との距離感だった。参院自民党で重きをなすようになってからこの方、青木は歴代首相と緊密な関係を結んできた。橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗……。他人の意見に耳を貸さなかった小泉も青木だけは別格扱いし、参院議員の閣僚起用に当たっては事前にお伺いを立てた。青木はいつも政権の中心にいた。だが、それは昨年九月の安倍政権発足までだった。
人当たりの柔らかい首相・安倍晋三は面と向かって年長者に礼を失するような態度を取ることはない。しかし、先輩首相とは「青木観」を全く異にしていた。政権を共にする同志とも、頼もしい後ろ盾とも思っていなかった。
青木が君臨する参院には「五五年体制」が色濃く残っている。昨年の臨時国会で衆院採決時にあれほどもめた教育基本法改正案が参院で比較的スムーズに成立までこぎ着けたのは、青木が長年にわたり培ってきた民主党参院議員会長・輿石東ら野党幹部とのパイプが物を言ったからだといわれている。時の首相が森であれば、「さすがは青木さん」と抱きつかんばかりに喜んだに違いない。
だが安倍は違う。「自社なれ合いの五五年体制が日本の政治をゆがめてきた」と見る安倍は、青木時代を終わらせることが政界の「戦後レジームからの脱却」の一歩だと考えている。安倍が参院選候補者の見直し、候補者の若返りを図ろうとした理由の一つもそこにあった。
噴出する「首相責任論」
いずれにせよ、青木の参院議長就任構想は、今や風前の灯火になっていた。
「消えた年金記録」問題が政権批判の嵐を巻き起こし、回復基調にあった安倍内閣の支持率は報道各社の世論調査で軒並み三〇%台に急落。六月八―十一日実施の時事通信の調査では、前月比一〇・六ポイント減の二八・八%と、ついに危険水域とされる二〇%台を記録した。地滑り的な世論の変化。自民が歴史的惨敗を喫した一九八九年の参院選で、当時の社会党委員長・土井たか子が口にした「山が動いた」という言葉を連想させる大変化が起きていた。
非改選組は自民四十六議席、民主五十二議席。自民が一九五五年の結党以来、衆参両院で一度も明け渡したことのない第一党の座を奪われる事態がにわかに現実味を帯び始めていた。第二党に転落すれば、「青木議長」の芽は消える。衆院では第二党の党首だった土井が細川連立与党を代表して議長に就いた先例があるが、参院では通じない。与野党の勢力が逆転した八九年参院選後、自民が「議長は第一党から出すのが原則だ」と強硬に主張し、議長ポストを守ってきた経緯があるからだ。
青木も油断していたわけではない。自身も選挙区情勢を事細かに記した書類を手元に置き、人脈を駆使してテコ入れに努めてきた。験を担いで、好きな日本酒も毎晩グラス一杯までと、“おかわり断ち”をしてきた。それもこれも陣頭指揮を振るう最後の選挙、政治家人生総仕上げの選挙と思い定めてきたからだ。
だが、押し寄せる「反自民」の世論の高波の前では、蟷螂の斧に等しかった。年金記録問題に、前農水相・松岡利勝が自殺に追い込まれた「政治とカネ」問題。ドン最後の選挙は八九年に匹敵する多重苦選挙の様相を呈していた。
そんな青木の胸中を知ってか知らずか、安倍側近のなかには、「今回の参院選は負けたっていいんだ。茨の道が待っているだろうが、一度、参院も焼け野原から復興した方がいい」などと、たとえ参院選に負けたとしても、それを逆手にとって、参院のドンを排除しようという奇策をささやく者までいる。
とは言え、「政策を勉強すると政局勘が鈍るわね」が口癖で、これまで常に権力闘争の中心にいた青木が、このまま座して死を待つわけもない。
参院選日程を一週間延ばし国会会期を七月五日まで十二日間延長する方針を確認した翌日の六月十六日、青木が「責任者は安倍総理。勝敗ラインは自公合わせて過半数ということは非常にはっきりしている。今度は責任の所在をはっきりして戦う参院選だ」と強調したのは、「負ければ責任を取ってもらう」「死なばもろともだわね」という安倍への痛烈なメッセージだった。
参院政審会長の舛添要一も、「首相が会期延長をお決めになったのだから、負けたら、トップは責任を取らなければならない。大敗すれば、翌日、内閣総辞職だ」とこれに呼応する気配を見せた。
▽安倍退陣か、運命の投票日(2)
http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20070710-02-0701.html
2007年7月10日
安倍退陣か、運命の投票日(2)
ポスト安倍は誰か?
自民党内では、参院選での過半数割れを前提に、水面下では早くも「ポスト安倍」をめぐる動きも胎動しはじめた。
ある自民党関係者は、したり顔でこう解説してみせる。
「惜敗なら(外相)麻生(太郎)。大敗なら(前財務相)谷垣(禎一)。その中間なら(元官房長官)福田(康夫)だよ」
実際、谷垣派内では参謀格の前厚労相・川崎二郎を中心にこんな会話が交わされている。
「(前副総裁)山崎拓と(元幹事長)加藤紘一、古賀誠の新YKKが谷垣を担ぐ気になってくれれば、安倍降ろしを仕掛けられるんだが――」
当の谷垣も「(参院選で)与党で過半数を目指すのは当たり前。それができなかった時にどうするかは議論として当然残るでしょう」と安倍を牽制している。
ただし、「加藤の乱」で、泣いて加藤の国会突入を阻止しただけあって、相変わらず、いざとなると腰は重い。古賀と図った「中宏池会構想」はあえなく頓挫したし、毎週木曜の総会でも口にするのは当たり障りのない政策論ばかりだ。
一方、かたくなに沈黙を守っているのが福田だ。もともと永田町に友人の少ないタイプだったが、最近では勉強会や会食などで会ったという話もとんと聞かない。まさに「生体反応なし」なのだが、町村派のベテランを中心に、展開次第で「福田担ぎだし」のタイミングをはかっている勢力がいるのも事実だ。森も折にふれて、「いざとなれば康夫さんがいる」と唱え、キングメーカー復権を狙う。
安倍の『美しい国へ』の向こうを張って出した、新書『とてつもない日本』がベストセラー入りの気配を示す麻生も、いつものべらんめえ調を封印し、音なしの構えだ。自著を出版するにあたっては、わざわざ安倍に断りに赴いた。
「これは去年の総裁選の時にまとめた政策を本にするだけで、決して総理に弓を引こうって話じゃありませんから」
安倍は笑いながら、「いやいや、いいんじゃないですか」と応じた。
福田に総理の座を譲ることだけは絶対にしたくない安倍だが、麻生との関係には非常に微妙なものがある。もともと思想信条は極めて近く、岸信介と吉田茂という偉大な祖父を持つ。安倍は政局の節目や人事などについて、密かに麻生を公邸に呼び、意見を求めている。対する麻生の方も、安倍への忠誠心が問題になった時など、「安倍総理が閣議に姿を見せて真っ先に立つのは俺だよ」と公言し、総理への敬意を強調した。
そもそも昨年の総裁選に際して、安倍は一度は、麻生に順番を譲る腹を決めたといわれている。ところが四〇%以上の支持率の自分に対して、麻生は一〇%にも満たない。「この国民の声に応えないわけにはいかない」と結局、安倍は出馬を決意したという。総裁選を通じて、麻生の演説のうまさ、集客力に驚いた安倍が麻生に幹事長を頼もうとしたのも当然の流れだったのだ。
「乱世こそ俺の出番」と訴え続けてきた麻生にとって、暴風雨に見舞われたような現状は願ってもない展開に違いない。
だからこそ、いまはじっとおとなしく、機が熟するのを待っているのだ。
安倍にとっては、国対委員長・二階俊博の動きも不気味だ。もともと「媚中派」と揶揄されることもある二階とはソリが合わないと感じていたが、前首相秘書官・飯島勲の仲介で何度か食事をともにした。周囲からは昨年の組閣の際、重要閣僚としての入閣を勧められたが、それはきっぱり断った。ただ安倍にとって誤算だったのは、国対委員長ポストの重みへの認識が不足していたことだ。公務員制度改革法案に際しては、国対委員長室の前には各省庁の幹部クラスが列をなして陳情に訪れた。山積する重要法案を通すも廃案にするも二階の腹一つ。法案を与党に人質に取られるとは、安倍も夢想だにしなかったに違いない。
二階は非主流派の新YKKとも絶妙な距離を保ちつつ、かと言って、安倍に公然と反旗を翻すような稚拙なまねもしない。十五人の二階派「新しい波」と盟友関係にある前幹事長・武部勤率いる小泉チルドレン中心の「新しい風」三十人をしっかり束ねて、参院選後、苛烈さを増すであろう権力闘争の天秤がどちらに傾くかに全神経を集中させているのだ。
安倍が最近、町村派の信頼できる若手を呼び出して、「うちの派閥も図体は大きくなったけど、いざとなった時に働いてくれる人間はどのくらいいるんだ?」と聞いたのも、こうした党内情勢への危機感のあらわれだ。前外相・町村信孝や幹事長・中川秀直に派閥がまとめ上げられるとは、安倍には到底思えないのだ。
果たして安倍退陣はあるのか――。参院の過半数は百二十二。与党が過半数を維持するには改選百二十一議席のうち六十四議席を獲得する必要がある。ここから公明の改選議席十三を引いた「五十一」が自民の最低獲得目標だ。
逆風の凄まじさは、自民党が定期的に実施している情勢調査の数字にも表れていた。五月上旬の調査結果では「五十四」だったのが、一カ月後には一挙に「四十八」にまで後退した。
五月調査を受け、幹事長・中川秀直と選対総局長・谷津義男が「重点区」に指定したのは、改選数一の四国四県と山形、山梨、奈良、滋賀の計八選挙区。民主優勢の岩手と三重を除き、「ここは楽観できない」と判断した選挙区である。
中川らは五月下旬、該当県選出の衆院議員を党本部に個別に呼び出し、かねて求めていた「衆参同日選的対応」を直ちに実行に移すよう指示した。「自分の選挙区内に、参院選の選対本部と市町村単位の選対組織を設置」「六月中に電話作戦を開始」「市郡単位で総決起集会を開催」。指示は生真面目な中川らしい事細かなものだった。特に動きの鈍い議員には「参院選後の人事に影響すると思いなさい」と申し渡した。
「手は打った」とひと安心した直後の六月調査の数字に慌てた中川は、六月十八日、重点区を倍以上の十八に拡大した。先に指定した八選挙区のうち香川を除く七選挙区と栃木、鳥取、佐賀、長崎、熊本、宮崎、鹿児島、沖縄の一人区十五と、改選数三の埼玉と千葉、そして改選数五の東京。重点区に指定すれば、それなりの特別資金も党本部で調達しなければならない。だが、そんな金庫の心配よりも、中川はオセロゲームのように青信号がバタバタと黄信号に変わっていく光景に背筋の寒くなる思いがしていた。
▽安倍退陣か、運命の投票日(3)
http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20070710-03-0701.html
2007年7月10日
安倍退陣か、運命の投票日(3)
逆風は連立を組む公明党にも容赦なく吹き付けた。公明が候補者を擁立したのは改選数三以上の埼玉、東京、神奈川、愛知、大阪の五選挙区。大阪を除くいずれも民主は二人の候補者を立てている。
「このままでは三人区で民主党に二議席持って行かれる。自民党票を一部うちに回してほしい」。幹事長・北側一雄が中川にねじ込み、六月十四日の幹事長会談で千葉、愛知、埼玉での自公協力の覚書が取り交わされた。公明が千葉で自民候補を、自民が愛知と埼玉で公明候補をそれぞれ支援するという内容である。
愛知では二〇〇一年には、自民の官房副長官・鈴木政二が九十七万票余りを獲得しトップ当選し、公明党政調副会長・山本保は五十万票弱で三位に入った。「最低でも四、五万票は回してもらいたい」というのが公明側の要求だった。
幹事長会談に先立ち、北側は自民党県議団のボスで党県連会長代理も務める寺西学を名古屋の自宅兼事務所に訪ねている。「山本をよろしくお願いします」、「受けた恩義は返します。必ず信義は守ります」。四月の県議選で、寺西はじめ自民県議の約八割が公明の支援を受けていた。自民県議の仲立ちで、山本は公明と縁遠い農協や企業の会合に顔を出し、自民の有力支援団体の医師連盟は鈴木とともに山本を支援することを決めた。
この動きに鈴木は顔色をなくした。六年前こそ小泉旋風で思わぬ票が出たが、十二年前の初陣は四十万票にも届かず、肝を冷やしている。副長官としての仕事もそこそこに、鈴木は地元に張り付き訴えている。「公明党さんとは連立内閣を組んでいますが、選挙を戦う人間としては敵でございます。票の取引など愚かな話。心や票を売るなんて、もってのほかでございます」。
水面下の多数派工作
参院選情勢を一変させたのは、言うまでもなく年金記録問題だ。五月下旬にこの問題が急浮上した際、自民党内で噴出したのは「昨日今日起きた問題でもあるまいし、なぜこうなるまで手を打たなかったのか」という声だった。
安倍が早い段階からこれを「重要な問題」と認識していた節はない。「大丈夫なんだろうな」という安倍の下問に、社保庁側から「問題はありません」との回答があり、そのまま放置していたというのが実態だった。かねて社保庁の体質を批判し、小泉内閣当時の社保庁改革法案を廃案にし、解体法案につくりかえさせた安倍がなぜ社保庁の説明をうのみにしたのか。そこに自民党内に渦巻く「なぜだ」を解く鍵がある。
二〇〇四年七月二十三日、年金問題が争点になった直前の参院選で岡田民主党に敗れた小泉は態勢立て直しに向け、社保庁長官に初の民間人長官として損保ジャパン副社長だった村瀬清司を迎えた。問題百出の社保庁の立て直しを村瀬一人に担わせるのは酷だ。小泉は村瀬の片腕として、「飯島学校の優等生」といわれた厚生労働官僚・今別府敏雄を要のポストである運営部企画課長に送り込んだ。
安倍が「問題ない」との社保庁の回答を疑わなかったのは、官房副長官時代に間近で今別府の働きぶりを見ていたからであり、今別府の背後に飯島、そして大恩ある小泉を見ていたからだ。
今別府の論理が崩れたのは、五月中旬以降の衆院厚労委で、生年月日が記載されていないものなど、本人確認が難しい納付記録が大量に含まれていることが判明したのがきっかけだった。
五月二十二日午前の厚労委には、自身も年金記録をめぐって社保庁に異議を申し立てている弁護士が参考人として出席し、「私は現在まで、年金にかかわる相談を三百五十件以上承っています。未払いだと言われ、そんなことはないと言っても、領収書を持ってこいの一点張りです。みんな怒っています。泣いています。先生方、困っている人を助けてあげてください。助けられなくて何が国会ですか」と激しい調子で訴えた。生々しい被害者の声にテレビが飛びついた。
翌二十三日の予算委集中審議に、民主党は年金問題のスペシャリスト・長妻昭を送り込んだ。国対委員長代理・平野博文が「満塁ホームランになるかもしれない」と強く押し込んだのである。
反応の良さに気をよくした民主党代表・小沢一郎は被害者からヒアリングを行った二十四日の厚生労働部門会議に顔を出した。小沢が党の部会に出席するのは就任以来初めてのことだ。反応が今ひとつの「格差問題」に代わる参院選の争点を探していた小沢にとって、ようやく金脈を見つけた思いだった。
民主の最高顧問・渡部恒三は「参院選は間違いなく民主党が勝つ。これで勝てなければ小沢は首だ」と豪語する。勢いに乗る小沢も獲得議席目標を「五十」から「五十五」に上方修正。わずか二カ月前、連休明けの独自調査の結果は「四十二」だから、「五十」でも相当上げ底の数字だった。功労者の長妻は党の会合でも人気者、「よく見つけてきた。ノーベル賞ものだ」(渡部)との声も上がる。
一方の自民はピリピリムードが続く。六月十七日の「サンデープロジェクト」で年金問題に詳しい内閣府副大臣・大村秀章が長妻にやりこめられると、執行部から「年金問題に関するテレビ出演は(衆院厚労委理事)鴨下(一郎)に一本化する」とのお触れが回った。
党内の重苦しい空気をよそに、意外にも、全く落ち込んだ素振りを見せていないのが総大将の安倍だ。最近でも周囲に「政治家には修羅場になると元気になるタイプと普段は威勢がいいのにシュンとなってしまうタイプがある」「年金も打つべき手は次々に打ち、効果もかなり上がってきた」と「闘う政治家」ぶりをアピールしている。会期延長に反対する青木を説得した際も、「公務員改革は天の声、国民の声だ。私には期待に応える義務がある」と大上段に振りかぶり、「政治生命をかけてもやる」と抑え込んだ。
安倍の元気の秘密はほかにもある。選挙で過半数に届かない場合の多数派工作もかねて進めているからだ。新党日本幹事長・荒井広幸は新人議員時代からの盟友。荒井は首相指名選挙でも安倍に投票し、今も二人は頻繁に連絡を取り合う仲だ。国民新党代表代行の亀井静香とも、いつでも話ができる関係にある。
「六はいける。十まで増える可能性もある」。側近から安倍に上がっている報告だ。過半数ラインに十足りなくても、つまり四十台前半の議席でも選挙後の工作で参院過半数を確保できるという意味である。工作の対象は荒井の他に、国民新党、保守系無所属議員、国民投票法案採決で造反した渡辺秀央ら民主内の反小沢勢力とされる。キーマンの荒井は郵政政局の時と同様、「ステルスになる」と称して隠密行動に入った。
選挙後にも第二、第三幕があるのか。虚々実々の平成・関ヶ原の合戦が間もなく始まる。
(文中敬称略)
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