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http://ameblo.jp/jiji-tsurezure/entry-10038180652.html から転載。
ご冗談でしょう?山口二郎さん (中)
2007-06-29 10:24:54
「把握は全機構的なものでなければならぬ。『現実的なるもの』がそれを押し付ける。」(山田盛太郎 『日本資本主義分析』 221頁 岩波文庫)
3、現実政治の複雑性
レーニンは「政治は算術よりむしろ代数に似ており、さらにまた初等数学よりも高等数学に似ている」(『共産主義における左翼小児病』 129頁 国民文庫)といっている。政治における原因行為と結果の関係を数学的に表すと次のようになる。すなわち、y=axとなる。
ここに言うyとは結果であり、xは原因行為である。そして、aとは、原因行為の行われる、時、場所・・・など、原因行為の行われる際の状況のことを指す。ここでは、このaを現実政治の複雑性の値とでもしておこう。aはxによって変化し、yに影響を与える。
y=axが単なる数式であるならば、基本的に、xの値の変化によって、aの値が変化することはない。仮にa=2とした場合、x=1ならば、y=2となる。同様に、x=2ならば、y=4、x=3ならば、y=6・・・・といった具合になる。yの導出法はきわめて単純である。aとxの値が分かりさえすれば、確実にyの値は分かる。
しかし、現実政治にこの数式を適用した場合、上の様に単純にはいかない。それは政治の場合においては、x(原因行為)の変化によって、a(現実政治の複雑性)も変化するからである。しかも、xの変化によって、aがどのように変化するか、予想することは出来ても、確実にその変化を知ることは出来ない。当然yの値も確実には分からない。現実政治の複雑性が不確実なものであるがゆえに、この様になるのである。
天才的な政治理論家であり、政治運動家であったレーニンは、この現実政治の複雑性を十分理解していた。レーニンが政治を「代数」や「高等数学」にたとえた理由はまさにここにある。
政治運動家と政治学者を比べると、時として、政治運動家のほうが、分析・理論ともに、政治学者より優れていることがある。政治運動家にとって、運動は現実への作為であるから、その背景となる、分析・理論は現実を常に意識している。なぜなら、誤った分析は誤った理論のもとと成り、誤った理論は誤った運動のもととなる。そして、誤った運動は、誤った政治のもととなり、誤った政治は政敵を勢いづかせる原因となる。だからこそ、政治運動家は現実を常に意識した分析を行う。
しかし、「象牙の塔」に安住した政治学者にはその必要はない。「象牙の塔」に安住する政治学者は現実の政治に関わりを持たない。つまり、分析・理論が運動と関わりを持たないのである。だから、分析・理論が現実を意識する必要がない。そのため、「象牙の塔」に安住する政治学者は、「全機構的な把握」を強制する「『現実的なるもの』」(山田盛太郎)を意識していない。ここに、政治学者の欠陥が存在する。
さて、我が親愛なる山口二郎氏は、果たしてこの欠陥から免れているか!?次節に置いて、検討することにしよう。
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ご冗談でしょう?山口二郎さん(上)【時事徒然草】
http://www.asyura2.com/07/senkyo36/msg/987.html
投稿者 gataro 日時 2007 年 6 月 22 日 08:48:04: KbIx4LOvH6Ccw
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