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(回答先: 秦郁彦が金学順さんの証言をでっち上げ(1) blog*色即是空 投稿者 Kotetu 日時 2007 年 6 月 28 日 11:00:17)
2007-06-19■秦郁彦が金学順さんの証言をでっち上げ(2)
前回のエントリでは秦郁彦氏が、金学順さんの言ってもいない証言「中国語ができたので中共軍の密偵役もやった」という話をでっち上げたことを証明しました。
今回は、秦氏による下記の「再婚した実母が娘を40円で売った(Ad)事実は訴状にもB、Cにも出てこない」という木を見て森を見ずの批判に反論しようと思います。また表のAd「母が40円でキーセンへ売った」というのも事実を大きく歪めています。
表6-1は本人からのヒアリングをもとに整理したものだから、多少の記憶違いや聞き違いはあるとしても、重要なポイントでいくつかの差異があるのか問題だろう。たとえば再婚した実母が娘を40円で売った(Ad)事実は訴状にもB、Cにも出てこない。
戦前の日本でも、身売りにされた娘は売春業者の養女という形式をふむ例が多かったから、彼女の場合も典型的な身売りのケースだったと思われる。
その養父とともに中国に行き、慰安婦になった事情もはっきりしないが、現地で転売されたのかもしれない。慰安所の輪郭も明確さを欠くが、軍医の検診があったこと、利用料金の話がAに出てくるところから、ごくありふれた慰安所の一つだったのだろう。
Bだけに実父が日本軍に殺されたとか、中共軍や光復軍と関わりがあったかのような話が出てくるのも、ふしぎだ。有名になって来日した時の証言なので、単なる慰安婦ではなくて抗日家でもあったとPRしかたったのかも知れない。
訴状だけが学順の生年を1923年としているのも、気になる。韓国は戸籍制度が完備しており、沖縄で亡くなった元慰安婦の生涯を追跡調査した川田文子『赤瓦の家』(筑摩書房、1987)には、本人に代わって川田が本籍地の役場や近隣を訪ね、一族の消息を調べあげる過程が記録されている。
<表6-1>金学順証言の異同
A B C
a 生年 1924 Aに同じ 1924・10・20
b 父の死亡事情 事情は不明。 独立運動家で日本軍に撃たれ死亡。 死因は知らない。
c 母の再婚 14歳の時に再婚。 母の再婚を嫌い家出。 Bに同じ。
d キーセン 母が40円でキーセンへ売った。 養女としてキーセン修業3年。 平壌の「妓生券番」に3年通う。
e 中国行きの事情 若すぎて朝鮮で営業許可が出ないため、1941年中国へ行けば稼げると養父に言われ。 お金を稼ぐために養父につれられ。 養父が金もうけをしようと中国へ同行。
f 慰安婦にされた事情 北京の食堂で日本将校にスパイと疑われ養父と別々に、そのままトラックで慰安所へ。処女を奪われた。 Aに同じ(中国語ができたので中共軍の密偵役もやった)。 養父をおどして日本兵が慰安所に連行、3ヵ月後に趙の手引きで脱走。
g 脱走と結婚 4ヵ月後に朝鮮人アヘン商人の手引きで脱走し、42年上海で金貸し。 Aとほぼ同じ(上海で韓国独立の光復軍と連絡)。 Aと同じ。
h 現在の心境 私をこんなにした奴らをズタズタに引き裂いてしまいたい。 日本政府が悪かったと謝罪しない限りは、私の気持ちは晴れません。 体験を暴露して、スッとした気持ちになりたかった。
A 挺対協編『証言強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』の証言(原著は1993年2月、邦訳は93年10月刊行、ヒアリングは91年か)
B 解放出版社編『金学順さんの証言』(1993年2月刊行、91年12月来日時の金証言)
C 伊藤孝司編『証言従軍慰安婦女子勤労挺身隊』(1992年8月刊行、伊藤のヒアリングは不明)
(秦郁彦『慰安婦と戦場の性』p.180)
証言A・B・Cは、金学順さんが自らの体験を記憶を頼りに語ったものです。台本でも読むかのように「一言一句」の違いもなく毎回同じことしか話さないという方が不自然です。話を重ねることによって記憶がよみがえってくることなど普段誰もが体験していることではないでしょうか。また、金学順さんの話の中から本のテーマに沿って重要なポイントを判断し、不必要だと思われる部分を削ぎ落として掲載するのはそれぞれの執筆者です(訴状なら弁護士)。そういった当たり前のことを秦氏は完全に見逃しているのか、もしくは意図的に黙殺しています。
秦氏の言う「訴状」とは「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件訴訟」の訴状のことですが、金学順さんを含む35人の集団訴訟であり、原告一人当たりの経歴は主要なポイントだけになるのは当然でしょう。また、この訴訟では金学順さんが日本軍によって性行為を強要されたことに関して日本政府の責任が問われているわけですから、金学順さんが養女に出された時に金銭のやりとりがあったかどうかは裁判の争点ではなく、訴状に必ずしも必要ではありません。そもそも訴状は裁判所に提出するために内容を限定された文章です。秦氏は「訴状」と「証言集」が、それぞれどんな趣旨で書かれているのか区別ができないのでしょう。
なお、訴状の金学順さんの経歴は「約1600文字」ですが、挺対協編『証言強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』に掲載された金学順さんの証言は、「約10200文字」でした。そもそも情報量が6倍以上も違うのです。訴状には出てこない話が証言集に出てきても何の不思議もありません。
では実際に秦氏が比較した著書A・B・Cから、金学順さんが「養女に出された経緯」を検証してみましょう。
A
私が14歳になった年に母が再婚しました。新しい父は私より年上の息子一人と娘一人を連れていました。兄は20歳ぐらいになって姉は16歳でした。その姉は一緒に住むようになってまもなく嫁ぎました。新しい父とは一緒にいたくありませんでしたが、兄とはよく遊んだものです。
妓生の家の養女に出されて
母と二人だけで生きてきた私にとって、父親という人と一緒に生活するのはとても不自由でたまりませんでした。「アボジ」と呼ぶこともできないし、父と面と向かうことはなるべくしないようにしました。母に対しても愛情がなくなり反抗したりしたので、母とも仲違いしてしまいました。
母は私を、妓生を養成する家の養女に出しました。私が15歳のときでした。母と一緒にその家に行き歌をうたって、合格したのです。それから母は養父から40円をもらい、何年かの契約で私をその家に置いて行ったと記憶しています。あまりにも家にいることが窮屈で嫌だったので、その方がかえってせいせいすると思いました。
私が養女として行った家は平壌府キョンジェ里133番地でした。その家には私より先に来ていた姉さん格の養女が一人いました。私はその家でクムファと呼ばれました。その姉さんと私は平壌の妓生巻番[妓生養成学校]へ一緒に通いました。その巻番は2階建てで、門に大きな看板もかけてあり、生徒も300人ほどおりました。私は2年ぐらい巻番に通って、踊り、パンソリ、時調[朝鮮の代表的な歌謡形式]などを熱心に学びました。
(挺対協編『証言強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』p.43)
B
母と別れ養女となる
そうこうするうちに、誰かの世話で母が再婚することになりましたが、私はどう考えても母と一緒になった男性を父と呼ぶことができませんでした。そこで私は家を飛びだしてしまったのです。私が14歳のときです。
こうして私は一人でお金を稼がねばならなくなったのです。どうやって稼ごうかと考えた末に、キーセンの修業ができる家の養女になったのです。養父がたくさんのお金を出してくれて、歌や踊りを17歳になるまで、ピョンヤンにある学校で3年間習いました。生徒は300人いました。踊りとかパンソリなどを習いました。
(解放出版社編『金学順さんの証言』P.13)
C
私が12歳で普通学校を卒業すると、母は魚の小売商をしている咸(ハン)という人と再婚しました。義理の父には、24歳の咸ビョンヨルという息子と、17歳の咸ビョンシルという娘がいました。私は義理の父を「お父さん」と呼びたくないし、一緒の生活が嫌でした。母を取られたという気持ちだったんです。家にいたくなかったので、何度も家出しました。
そのため、母の希望もあったし、14歳で平壌の「妓生巻番学校」という、有名なキーセンになるための学校に入ったんです。ここでは舞踊・歌、チャングやカヤグムなどの楽器、書道から道徳まで勉強しました。学生は数百名いて、一緒に8〜9人が卒業しました。3年間通って卒業証書をもらいました。
この学校に入るにはお金がたくさん必要だったので、金秦元(キム・テウォン)という天安(出身)の人の養女になって、お金を出してもらいました。この人の所には、私の他には同じような人が2〜3人いました。当時はこういう事も多かったんですよ。
(伊藤孝司編『証言従軍慰安婦女子勤労挺身隊』p.128)
母が再婚したこと、新しい父親に馴染めなかったこと、妓生を養成する家の養女になったこと、その家から妓生養成学校に通ったこと、すべて一致しています。否定派は元「慰安婦」の証言がコロコロ変わると言い、秦氏もそう思わせようと近視眼的な批判をしてますが、どこが矛盾してるというのはさっぱりわかりません。
※年齢の差について…多少の記憶違いもあるかも知れませんが、韓国では一般的に年齢は「数え年」でカウントするため、数え年の場合は満年齢より1歳ないし2歳多くなります。証言Aの著書は「満」で表示されてない場合は数え年です(p.18凡例参照)。
細かい点を見ていくと、金学順さんは、ABCともに妓生を養成する家の養女になったと証言しています。Aでは、実母が養父から40円を受け取ったこと、BCでは、養父が妓生養成学校の学費を出してくれた話が出てきます。秦氏が作成した表のdではまるでABCそれぞれに違った証言をしてるかのような印象を与えていますが、養父が金学順さんを養女にする時に実母に40円を払ったことも、妓生学校の学費を出したことも何の矛盾もなく両立し得ることなのです。むしろ養父は金学順さんにそれだけ投資をしたということで符合する事実です。
したがってAだけに実母と養父の金銭のやりとりが出てきて、BCに出てこないからといって、秦氏が言うような「重要なポイントでいくつかの差異がある」などということにはなり得ません。
最も重要なことは、金学順さんが軍慰安所で性行為を強要されたかどうかです。しかし、秦氏はp.179で金学順さんの訴状を掲載していますが、将校から「服を脱げ」と命令され暴力を振るわれて性行為を強要されたことなど金学順さんが受けた被害の実態を示す肝心の部分をごっそりカットして掲載していました。私がそのことに気づいたのは、訴状の原文(平林久枝編『強制連行と従軍慰安婦』p.162)を見たからですが、秦氏は重要の意味をはき違えています。
100歩譲って、実母が養父から40円をもらったことが重要だとして、それがあるとないのとでは「証言」全体にどのように影響するというのでしょうか。まさか養女に出された時に金銭のやりとりがあれば、意に反して慰安婦にされても文句は言えないとでも言うのでしょうか。
否定派は金学順さんが事実を言っていないと主張するのならば、いったい何が事実なのか検証し証明する責任があります。金学順さんは慰安婦ではなかったというのでしょうか?それとも自由意志で慰安婦に応募したとでもいうのでしょうか?今まで、きちんと検証している人を一度も見たことがありません。その検証がないのですから、ただの難癖と言われても仕方ないでしょう。
blog*色即是空
http://d.hatena.ne.jp/yamaki622/20070619
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