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http://himadesu.seesaa.net/article/44567367.html から転載。
2007年06月12日
≪「潔く死んで」兵隊は言った 集団自決の地 慶良間≫
ちょっと古くなったが、5月14日朝日新聞の特集記事
≪「潔く死んで」兵隊は言った 集団自決の地 慶良間≫
より引用。
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「太平洋戦争の末期、沖縄で起きた『集団自決』をめぐり、高校教科書の検定で『日本軍の強制』が修正された。
軍と民が一体となった状況で、現地の部隊は惨劇にどう関与したのか。悲劇の舞台となった慶良間諸島で生き残った人々に、
当時のことを聞いた」
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座間味島ではアメリカ軍上陸後の1945年3月26日、集団自決が行われた。
●宮里育江さん(82)は部隊の事務をしていたが、米軍上陸の際に部隊と同行したいと求めるが断られ、代わりに「万一のことがあったら、これで自決しなさい」と手投げ弾を渡され、使い方を教えられた。
そして激しい砲爆の中で住民たちは次々と自決していく。宮里さんの手榴弾は不発だったが、後に母や妹が自決したことを知る。
●宮平春子さん(80)が逃げ込んだ壕の中で兵隊に言われた言葉は「『捕まらないように潔く死んで下さい』との内容だったという」。
●上洲幸子さん(84)は家族や他の住民と山中に逃げていたが、そこで軍人が住民を集めて、
「こうなったからは仕方がない。敵に見つかったら、舌をかみ切ってでも死になさい」
と言った。「青年の一人は『死にたくない』と言って泣き出したという」。
しかし上洲さんの一家は偵察をしていたという兵士に「捕虜の住民は食事を与えられている。出て行った方がいい」と告げられ、アメリカ軍に投降した。
渡嘉敷島の集団自決は3月28日に行われた。
●村役場に勤めていた吉川勇助さん(78)の証言によると、
住民が避難していた場所に
「一人の防衛隊員が『伝令』と叫びながら村長に走り寄り、何かを告げた。攻撃の爆音で会話は聞き取れなかったが、村長はうなずいた。『天皇陛下万歳』『発火用意、発火!』が聞こえ、あたりで手投げ弾の爆音が響いた」
しかし不発が多く、男たちは家族を手にかけた。吉岡さんの一家は4個を地面にたたきつけたがどれも不発だった。
その現場に防衛隊員らがいたことについて吉川さんは、「戦闘中に部隊を離れれば罰せられるが、とがめられていない。命令があったはずだ」と言う。
沖縄国際大の安仁屋政昭名誉教授は、住民が手榴弾を持っていたことについて、
「軍隊では武器の部品がなくなっただけでもなぐられる。民間人が勝手に手にできるはずがない」と語る。
他の投稿(http://himadesu.seesaa.net/article/39052745.html)で紹介したが、部隊が住民に「一つは敵に投げろ、もう一つは自決用」と言って手榴弾を手渡したという証言がある。
一方、渡嘉敷島の海上挺進戦隊の将校だった知念朝睦さん(84)は、「隊長の自決命令や訓示など聞いたことはない」と否定する。
仮に隊長からの自決命令が無かったとしても、住民の自決は日本軍の、日本帝国主義の強制に等しいのである。
少なくとも日本軍は住民を守るような存在では無かった。
最近、辺野古への自衛隊艦船の派遣や、自衛隊幹部によるクラスター爆弾の使用もあり得るという発言、そして自衛隊による市民運動の監視の発覚などが相次ぎ唖然としているが、
沖縄戦の惨劇を振り返り、軍隊とは本質的に国民を守るものではなく、むしろ危害を加えるものであることを思い出してみれば、なんら不思議はないだろう。
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