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[暴政]暴力的本性を露にした“美しい国”の横暴
<注>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/2007060
[f:id:toxandoria:20070531050043j:image]
デューラー『1500年の自画像』Albrecht Duerer(1471-1528)「Self-Portrait at 28」 1500 Oil on panel 67 x 49 cm Alte Pinakothek 、 Munich
●当内容は[2007-05-31付/暴力的本性を直視する『平和主義』の意義]の補足版の位置づけです。本体記事(http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070531)と併せて、ご笑覧ください。
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社会保険庁を廃止・解体する改革関連法案と、年金支給漏れ対策を盛り込んだ与党提出の年金時効撤廃特例法案は、6月1日の未明に衆院本会議で、自民、公明の与党の賛成多数で可決し(肝心の5,000万件の何処かに消えた年金について解決のための具体的手掛かりが何も見えないままで!)、参院に送付されました。
もはやここまで来ると、これもその具体的な顛末は藪の中ながらも、現役閣僚の一人であった松岡利勝前農水相の自殺で公然となった<政府自身の暴力性・ヤクザ化・凶暴化の問題=美しい国の暴力的本性の露呈>に大わらわで蓋をすることしか眼中にない、まるで国民の立場などクソ喰らえの悪鬼かサタンのような形相と化した安倍晋三首相は、両法案の成立を急ぎつつ「消えた年金」問題についても国民へ目眩ましをブチかまして参院選へ突っ走る覚悟のようです(出典:北海道新聞ネットニュース、http://www.hokkaido-np.co.jp/news/politics/29468_all.html)。
これは、“全身が総毛立ち、ひたすら狂気と餓鬼道に堕ちてゆく、まことにおぞましく<見苦しい暴政>の姿”に他なりません。それは、【<小泉クーデタ劇場>が「三権分立の原則」を無視して蒔き散らした『無数の子ダネ』の中に「外見的立憲君主制」が仕込まれていた、そして、今やその『小泉クーデタ劇場の外見的立憲君主制の子ダネ』が、妖しく美しい<厚化粧の安倍劇場の子宮>に着床した】という現実の流れの中で起こりつつあることなのです(参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070522)。
つまり、国民を体よく騙し、小バカにしながら衆院議席数の2/3超を手に入れた「小泉政権」による「憲法違反クーデタ劇」からすべてが始まったことを我われは思い出すべきです。これこそ、安倍首相が掲げる『戦後レジームからの脱却』のフレーズが見据える『美しい国の暗いシナリオ』(=国民一般の人権と利益、そして本当の国益を無視した暴政)のプロローグ(始まり)だったのです。
いま我われ日本人は、ドイツの元外相ハンス・ディートリヒ・ゲンシャー(Hans-Dietrich Genscher)が好んだとされるトーマ・スマン(Paul Thomas Mann/1875-955)の『我われはドイツのヨーロッパではなく、ヨーロッパの(そして世界の)ドイツを欲する』という言葉の深い意味を理解すべきです。それは、一国の政治権力者であればこそ、そのような立場の人々は、人間性と社会、そして一般市民に対する責任・責務として普遍的な関心と健全な倫理観を必死で持ち続けるべきであり、決して一部の身内や派閥、あるいは少数の閉鎖的で妖しげな徒党集団(狂信カルト集団・暴力団・ヤクザ・ゴロツキおよび特定企業グループなど)の利益だけを優先してはならない、という警告です。
このように健全な歴史観に基づく高い精神に比べると、「価値観外交を推進する議員の会」(古屋会長、中山顧問、http://www.furuya-keiji.jp/images/19_05_17%BC%F1%B0%D5%BD%F1.pdf/比喩的に言えば、この会のメンバーの多くも寄生虫のような二・三・四世の世襲政治家!/当会の古屋会長は、皇室典範改正・靖国参拝・民法772条などを列挙しつつ同じ方向をめざす同志を糾合し、青藍の天空を貫く行動ができる集団機能の役割を果たしたいと述べており、それはまるで『エイリアンのように寄生的で特異な意志』(=外見的立憲君主制の復活への意志)を“新しく美しい日本の国のかたち”にするなどということが、いかに<恐るべき非人権的な時代錯誤>(=暴政・悪政の標本のような化石的アナクロニズム)であるかが分かるはずです。
死者に鞭打つ意志は毛頭ありませんが、先進民主主義国家の一員たることを少しでも意識する国々のなかでは<前代未聞の現役閣僚の自殺>という出来事を「一政治家個人の内心の問題」と片付けることは無理なことであり、むしろ、それは<暴力的・カルト的で異常な政治のあり方ゆえの悲劇的な矛盾の現れ>であったと見做すべきです。
今からでも未だ遅くはありません。“美しい国”なるものの実像が、実はこのようにおぞましくも非倫理的、非人道的、非人間的、非平和的な、そして暴力的な<暴政>であることに我われは一刻も早く気づくべきです。
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●当記事と関連するものとして、以下に[kaisetsuさま → http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070531]のTB(追加部分)の内容を転載しておきます。
KJさんへ 追伸 2007.06.01 Friday
『toxandoria の日記、アートと社会』より、暴力的本性を直視する『平和主義』の意義
(2007.05.31 Thursday『toxandoria の日記、アートと社会』 暴力的本性を直視する『平和主義』の意義を読んで感じたこと。)
上記の記事を書いて、KJさんのことを思い出しました。と言うか、ずっと心に残っていました。
前に、一度書いたと思いますが、もう少し、具体的に書いてみたいと思います。
KJさんは政府系機関に勤めておられました。若くて優秀な方でした。でした、と言うのは、結論から先に言ってしまいますが、「決別」という強い表現で、そ の政府系機関を自主的に退職されました。内心を詮索することは不可能です。
しかし、海舌宛の手紙に、その政府系機関への「決別」という表現とともに、司馬 遼太郎氏への思いと海舌への感謝の言葉が在りました。確かに、KJさんは、或時、とても眼を輝かせて、「坂の上の雲」を全部読破したと語っておられまし た。本当に、何かとても澄んだ眼で、何かを掴んだような様子でした。そのことと「決別」に直接の関係があるのか、海舌は判断出来ませんし、しません。
また、海舌は、決して「決別」と言う行為が正しいとか、間違っているとかの判断をするものでは在りません。問題が在れば、内部で変革することも重要なことだと思っています。
海舌が、ここで言いたかったのは、日本の若者の中には、特に官僚や政府系機関の人々の中にも、司馬遼太郎氏が描いた明治の精神、或いは、他の時代であっ ても、しかし、決して昭和では無い、張り詰めた透明感を確かに、司馬遼太郎氏は「凛とした」という表現をされていたように思いますが、それを心に抱いた方 も居られるということを申したかったのです。
但し、執拗ですが、司馬遼太郎氏は明治時代の精神を「凛」と言っているのであって、決して昭和の精神を、そのような言葉で現していないということです。
安倍晋三首相が、もしも万が一、昭和の戦前・戦中・戦後の精神を「凛」という言葉で表したことが在るなら、それは完全にアナクロニズムであり、大きな誤解であり、司馬遼太郎氏を冒涜することだと思います。
再度、掲示しますが、
⇒ところが集団になって、一目的に対して熱狂がおこると、一人ずつが本然(ほんねん)にもっている少量のバカが、足し算でなく掛け算になって、火山が噴火するように、とんでもない愚行をやるのです。
は、日本が太平洋戦争に熱狂的に突っ込んだことを、とんでもない「愚考」と言っているのです。この時代を「凛」とした精神と言うことが言語矛盾します。
KJさんは、凛とした精神を保持されて自己の使命を果たされる覚悟だと受け止めています。
|虐待される庶民 |
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