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「経済コラムマガジン07/5/28(483号)
・荻原重秀と新井白石
・元禄小判と慶長小判
江戸時代の経済・財政政策を語る上で、大きく評価が別れる人物がいる。元禄時代の勘定吟味役(勘定奉行)、荻原重秀である。徳川綱吉時代、荻原重秀は頭角を現し、小判の改鋳で幕府の財政を立直した。しかし一方ではこれによって物価の騰貴を生んだと非難の対象になっている。
将軍綱吉の時代は、徳川幕府が開びゃくしてから約100年経った頃で、幕府にまだ威信があり国内に大きな争乱もなく平穏な日々が続いていた。しかし経済の面では、当時佐渡金山の金はほぼ掘り尽くされ、通貨の供給量が増えなかった。また幕府の財政は慢性的な赤字で、幕府の莫大な蓄財(200万両の江戸城御金蔵)も底を尽き始めていた。
一方、安定した時代を背景に新田開発が進み、米の生産量は増えた。しかし米の供給が増えたことに加え、通貨の供給量が増えないことによって、米の値段は長期低落傾向にあった。このように荻原重秀の登場した時代はまさにデフレ経済下にあった。
幕府の財政が赤字になった原因は、まず金の産出量が減ったことや綱吉の散財があげられる。しかし江戸の大火(1657年明暦の大火)の復旧費用やオランダとの貿易による金の流出(1664年金輸出解禁・・日本は貿易赤字国だったので金が流出)なども影響した。さらに米価の長期低落も大きな打撃となっている。幕府だけでなく武士社会はまさに米の生産高の上に存在していた。
もっと正確に言えば米の売上高が武士の収入に直結していた。米の生産高は生産者である農民と武士の間で分配される。四公六民なら、米の生産高の4割が武士の収入になる(米の生産量の評価方法は時代によって異なったがここではこれ以上言及しない)。この大切な米の値段がデフレで低迷したのだから、幕府の財政が苦しくなるのも当り前である。
将軍綱吉は勘定吟味役の荻原重秀に幕府の財政の立直しを命じた。なんと重秀は小判の改鋳を行った。当時の日本で流通していた小判は金の含有率が84〜87%の慶長小判であった。1695年(元禄8年)荻原重秀は、金の含有率が56.4%の元禄小判を作って流通させようとした。ちょうど慶長小判二枚で元禄小判三枚作ることができた。
重秀はこの元禄小判に1%のプレミア(慶長小判100枚と元禄小判101枚を交換)を付け流通させようとしたがうまく行かなかった。そこでプレミアを20%に増やした。すると途端に元禄小判は流通し始めた。荻原重秀の改鋳作戦は成功したのである。
重秀の小判の改鋳はその後も続き、大きな改鋳益(出自)を幕府にもたらした。政敵の新井白石はその額を500万両と書き残している。一両の価値が現在の8〜12万円と言われているから、4,000億円から6,000億円の利益を上げたことになる。
重秀の小判改鋳は幕府に利益をもたらしただけでなく、市中に出回る貨幣の量を増やすことになった。通貨の流通量が増えることによって、日本経済はデフレ経済を脱却し活況を呈した。経済の活性化に伴って、元禄文化が花開いた。ちなみに赤穂浪士の吉良邸討入りは、元禄14年(1701年)であるから、荻原重秀が改鋳を始めた6年後であった。
・歴史教科書の荻原重秀
冒頭に述べたように荻原重秀については評価がまっ二つに別れている。経済学者には業績を高く評価する人が多い。しかし重秀についての資料はあまり残っていない。歴史上なぞが多い人物である。
ところが重秀の政敵であり、重秀を追い落とし失脚させた張本人である朱子学者新井白石の書いたもの(折りたく柴の記、西洋記聞など)は沢山残っている。当然、重秀については悪いことしか書かれていない。重秀が不正蓄財をしていたという話も新井白石の著書による。
歴史教科書ではお決まりのように荻原重秀の政策がインフレの元凶ということになっている。しかし米価については、下がり過ぎたものが元の水準に戻ったという解釈ができる。また米価だけが上がらず(他の商品は上がり)、幕府の財政が一層苦しくなったという説がある。
しかし筆者の調べた限りでは、やはり米の値段もある程度上がっているようである。むしろ幕府の収入が増えたことによって、幕府の散財がさらに増えたというのが真相であろう。ただデフレ経済からの脱却に成功したことと、それが行き過ぎてバブルを生んだ可能性はある。
もっともデフレ経済が続いていたなら元禄文化などは生まれなかったであろう。また人々の消費が生活必需品に限られるのなら、華やかな文化が花開くということは無理である。歴史書や歴史教科書では、突然元禄文化が生まれた印象を受ける。しかしこの背景には町人の経済活動が活発になり、農民も消費を増やしたという経済的裏付けが必要と考える。筆者は荻原重秀の通貨増発政策抜きでは、元禄文化の出現は考えられないと思う。
新井白石は荻原重秀の追い落としを何度も試み、とうとう重秀を失脚させることに成功する。さっそく白石は小判の金の含有率を元の慶長小判の水準に戻した(正徳の治)。当然、経済はデフレに逆戻りした。ところが歴史教科書では正徳の治は世直しであり善政という記述になっている。
経済学者の間では新井白石は経済オンチということが定説になっている。一方、荻原重秀の貨幣観を高く評価する者が多い。重秀は「貨幣は国家が造る所、瓦礫を以てこれに代えるといえども、まさに行うべし」と言い切っている。今日の管理通貨制度の本質をみごとに突いている。ちなみに今日の一万円札の原価は20円程度と思われる。
しかし重秀は通貨流量を増やすことによるデフレ経済からの脱却までは考えていなかったと思われる。幕府の財政を立直すため、苦しまぎれの緊急対策のようなものを行ったという感覚であろう。また貨幣の改鋳というアイディアは、重秀だけのものではなく、幕閣の間で燻っていたという話がある。ただ重秀だけが貨幣の本質を本当に理解していたと思われ、其れ故このような大胆な政策が実行できたと考える。
歴史教科書の荻原重秀と新井白石の評価は月とスッポンである。今日のだいたいの評価は「将軍綱吉のとき、勘定吟味荻原重秀が幕府の財政拡大による財政赤字と元禄・宝永の改鋳による金銀含有率の引下げを行い、インフレとなった。その次の新井白石が幕府の支出を削減し、正徳・享保の改鋳で金銀含有比率を慶長小判の水準に戻して、インフレを抑制した」である。
この一連の出来事に関する大学入試問題では、予備校の模範回答もほぼこれと同じである。つまり日本の受験秀才達の常識もこれである。新井白石は経済オンチと言ったが、今日の日本のエリートと呼ばれる人々には白石と同レベルの者が多い。そう言えば歴代の日銀総裁で新井白石と似た人物が何人も思い当たる。
来週は通貨増発政策にもう一歩踏込みたい。 」
http://adpweb.com/eco/eco482.html
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国家財政の巨大な赤字を解決するため本来はインフレ政策をとるしかないのだが、20年余りひたすらインフレ忌避で来た。(国家破産板リンク)
http://www.asyura2.com/07/hasan50/msg/511.html
投稿者 TORA 日時 2007 年 5 月 25 日 08:17:44: CP1Vgnax47n1s
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