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□時評2007 国民投票法案に見る、「国制」の困難=中西 寛 [中央公論]
http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20070522-01-0501.html
2007年5月22日
時評2007 国民投票法案に見る、「国制」の困難=中西 寛
四月十三日、国民投票法案が衆議院を通過し、今国会で成立する見通しとなった。護憲派には反対を唱える向きが強いようだが、憲法九十六条に改正手続きが規定されている以上、憲法付属法として当然整備されるべきものである。護憲派が同法の制定そのものに反対するのは論理矛盾であり、批判があるなら、具体的な修正案を提示すべきである。
内容に対する主な批判は、最低投票率について規定がないこと、公務員や教員の活動に制限が加えられていることの二つである。
しかし前者については具体的に国民ないし有権者の何割が投票することを条件とするかが決めがたいし、また国民投票について投票率と可否投票という二重の基準を設けることになる。憲法九十六条は、衆参両院の三分の二以上の発議のうえでの国民投票による決定を求めているので、その間に有効投票率という新たなハードルを設定することは違憲の疑いすらある。さらに、こうした規定があると、改憲案反対派が棄権を呼びかけるという非正常な状態をもたらしかねない。反対派はあくまで投票による改憲案の否決を呼びかけるべきなのである。
後者の運動制限に対しては、確かに恣意的な運用については慎重でなければならない。しかし衆院通過案には「この節及び次節の規定の適用に当たっては、表現の自由、学問の自由及び政治活動の自由その他の日本国憲法の保障する国民の自由と権利を不当に侵害しないように留意しなければならない」(百条)との規定があるなど、一定の配慮はなされている。たとえば憲法学の教授が大学の講義で改正案に対する是非を学生に講ずることはその職責上も当然である。この教授が学生の可否いずれかの投票を単位認定の条件にするといった明白な便宜供与ないし脅迫行為を伴う場合以外(どうやって投票の内容を確認するかといった問題は別として)は、表現の自由、学問の自由を広く認められるべきである。
もちろん現法案が最善であるとは限らないから、参院の審議で必要があれば修正が加えられるべきである。けれども今回の衆院通過が最終的に強行採決で行われた事実は法案の文言よりも根本的な問題を明らかにした。それは日本の「国制」の抱える問題である。
英語の“コンスティテューション”は「憲法」と訳されることが多いが、本来は、法としての憲法典だけでなく、政治制度やそれを支える秩序観の総体を指す言葉である。この総体を「国制」と称するなら、日本国憲法のような憲法典はその法的表現にすぎない。憲法典が国制に根ざしていなければ、どのように憲法典を書いてみても、実際の運用には無理が生じてしまう。しかるに日本の現在の国制はすこぶる不明瞭な状況にある。
問題の第一は国民投票法案の強行採決が示すが如く、日本の政党制の不明瞭さにある。日本の政党制は、明治以来、政権対在野党という「権力対反権力」の構図と、政権交代可能な二大政党制のモデルの間を揺れ動いてきた。国民も、与党に対する徹底した抵抗と政権政党への脱皮という二律背反的な期待を野党に対して抱いてきた。代替肢提示を重視した前原前代表時代の民主党に対して世論やマスコミは物足りなさを感じていたが、逆に小沢代表下で抵抗戦術をとっている民主党には政権担当能力に人々は不安を覚えている。正反対の要請の間でどのような役割を見出すかは特に野党第一党である民主党に与えられた課題だが、日本人があるべき政党制のイメージをはっきりさせない限り、日本の国制は不安定であり続けるだろう。
問題の第二は、首相権力のあり方である。過去二〇年ほど、首相権限の強化、官邸機能強化が叫ばれ、ある程度の改革が実現し、安倍政権もまたその方向に沿った改革を標榜している。しかし本来、首相権限の強化は、天皇の補佐・協賛体制をとっていた大日本帝国憲法が、議院内閣制を採用した日本国憲法に変更したときになされるべき転換であった。ところが日本国憲法下で官僚と事実上の藩閥政府の後継としての自民党による「有司専制」が続き、近年になってようやく、現行憲法の期待する首相への権限集中が進んでいるのである。他方で、世界の流れは中央集権から権力の分散、分権へと向かい始めている。日本でも道州制などの機能分散が説かれている。権力の集中と分散を並行して行わなければならないところに、日本の「国制」の抱える問題の根深さがある。
(なかにし ひろし 京都大学教授)
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