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(回答先: 小林直哉社長は共産主義者同盟パルチザン派に高校生時代から属していたと言っていました。 投稿者 ワヤクチャ 日時 2007 年 5 月 12 日 10:27:45)
小川淳(仮名) 本名:米村邦弥(よど号犯赤木志郎の妹との婚姻届けを出したため現在の本名は、赤木
テーマ:拉致問題
■小川淳(仮名) 本名:米村邦弥(よど号犯赤木志郎の妹との婚姻届けを出したため現在の本名は、赤木邦弥)
http://nyt.trycomp.com:8080/modules/news/
1、経歴
1958年生まれ 熊本県出身
学生時代・神戸大学に在学
第四インター所属・1978年に成田空港管制塔占拠事件に参加 「本人談」
1980年代前半に欧州から北朝鮮に入国
1990年代前半からよど号グループ機関紙「お元気ですか」に登場
肩書きはジャーナリスト
2、家族構成
入国後、やはり後から北朝鮮に入国したよど号メンバー赤木志郎の妹・赤木美智子と結婚し子供が一人いるようである。妻の赤木美智子は2003年4月に帰国、罰金刑が確定しており、一人の娘もすでに帰国している。
【反核運動とよど号犯】
1970 年代末からヨーロッパを席巻した「反核」運動の波は、ウィーンを中心にヨーロッパ在住の日本人留学生の間でも広がり始めた。運動は日本でも「文学者の反核声明」などあらゆる団体が反核声明をだすような広範囲な関心を呼んだ。
この時の「反核運動」は、背後にアメリカのレーガン核戦略に対する東側の政治的な意図が秘められていた。東側の核は問題とされず、西側の核だけが問題にされたのである。日本で、公然と異論を唱えたのは評論家の吉本隆明氏くらいのものだった。
この東側の意図を背後に秘めた「反核運動」を利用しようとした勢力がある。北朝鮮である。
北朝鮮はこの運藤の高揚を政治勢力の拡大につなげ、チュチェ思想の宣布を狙ったのである。実際の工作はよど号犯グループが担当した。
ヨーロッパでの「反核運動」の中心地の一つであったウィーンは、石岡さん、松木さんが「ウィーン旅行」に誘われ拉致されたことからもわかるようによど号犯グループの工作拠点でもあった。地の利があったのである。
よど号犯の工作は、リーダー田宮高麿の指揮の下、岡本武(拉致されたと思われる福留貴美子と結婚していた)が実際に動いた。
岡本武は、まず宣伝扇動のため雑誌を発行した。
雑誌は「おーJAPAN」と名づけられた。1978年の創刊から号を追う毎に内容は広がりを持った。のち、この「おーJAPAN」は、日本人の「有名人」を顧問に迎える。
それが、哲学者久野収と宇井純氏であった。これによって「おーJAPAN」は日本国内でも反核運動の中心的な情報誌となる。
この時の「反核運動」は日本で燃え広がった。抗議行動や集会では数万人規模の動員力を持つようになった。“ダイ・イン”と称して地面に寝ころぶ「死に真似」パフォーマンスが繰り返された。「反戦」という言葉に代わって「反核」が、この時期、一世を風靡したのである。
「おー JAPAN」は、創刊4年にして、新しい政治組織の結成に向かう。
「新しい民主の波」である。「おーJAPAN」創刊4周年記念号(1982年)は、この「新しい民主の波」結成記念号であり、そこに記念メッセージを寄せているのは、岩井章(総評事務局長)、土井たか子(社会党党首)、宇都宮徳馬(参議院議員)、野間宏(小説家)、宇井純らであった。
よど号犯グループにとって、恐らく唯一成功した「工作活動」だったろう。
日本やヨーロッパで、政治意識に目覚め、しかし既成の党派の色のついていない“純粋な”な若者との出会いを可能にしたのである。それは、よど号犯グループの組織拡大と「日本人獲得工作」にうってつけの対象であった。
宇井純氏や土井たか子氏らは、このよど号犯らにまんまと利用されていた。ヨーロッパで「おー JAPAN」に集まった若者らと面談している土井たか子氏の写真も存在している。この写真には、小川淳も映っている。
赤丸が小川淳。真ん中に写っているのが、もちろん土井たか子先生。
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