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2007年05月11日
本当の保守主義とは何か
読者はお気づきかどうかわからないが、私はこのブログを再開してから一日も書くことを止めなかった。一日に複数のブログを書く日はあっても、欠かした日はない。これは一つの意地である。
英語で併記する事はしばらく休んでいる。それは毎日ブログを書き続けることと関係がある。時間とエネルギーがあれば書きたい。しかしどんなに時間がなくても書き続ける事を優先すればどうしても英語が後回しになる。読者は主として日本人だと思うから、どうしても日本の時事問題に絞られるからだ。そしていったん止めると怠け癖がつく。やすきに流れてしまう。
そういう次第で最近は日本語だけになった。そのかわりブログだけは毎日書いていきたい。どうしても朝早く出かけるときは、前日の夜中に書く。これもその一つだ。
5月10日の東京新聞に中島岳志という北海道大学公共政策大学院准教授という人が「保守」と立憲主義という題で興味深い事を書いていた。これが、昨日私がこのブログで書いた「戦後レジームからの脱却」と「かけがえのない日米同盟」の矛盾というテーマと共通しているのだ。今の「自称保守主義」の矛盾である。それを学者が言うとこういうことになる。
・・・「保守主義者」を自認する安倍首相は、憲法改正を最大の政治課題とし、自らの政権下での達成に並々ならぬ意欲を見せている。
しかし、彼ら(保守派の改憲論者)「自称保守主義者」が保守思想の本質をしっかりと理解した上で、改憲論を展開しているとは思えない。逆に、明治以降の保守思想家が依拠してきた立憲主義を、保守派が破壊しようとしているのが現状ではないか。
保守思想家は「懐疑主義的人間観」を共有する。人間は完全な存在ではありえず、どうしようもない悪を抱え込んでいる。おごりや妬み、エゴイズムなどを完全に払拭することはできない。保守思想家は、このような人間の不完全性を直視し、人間の限界を謙虚に受けとめる。「裸の理性」を疑い、一部のエリートによって理想社会を構築できるという考えを退ける。そのため熱狂的な改革には待ったをかけ、歴史の風雪に耐えた伝統に準じた漸進的改革を重視する。
国家は、不完全な国民を統治するため、警察や軍隊のような暴力を合法的に占有する。また、様々な法律によって国民生活に一定の縛りをかけ、国内の秩序を保とうとする。しかし国家指導者も時に過ちを犯してしまう不完全な存在であり、多くの限界を有している。だから、国民の側が彼らに対して一定の規制をする必要がある。
憲法は、こうした国民の側が政治指導者の行為に歯止めをかけ、権力や秩序のバランスをとる装置に他ならない。憲法を制定することで、特定の権力者の暴走を抑制し、社会秩序を保とうとするのが立憲主義である・・・
しかし現在の「自称保守主義者」たちは、この立憲主義の基礎を崩壊させようとしている。憲法を権力者に対する縛りではなく、国民に対する縛りへと転化し、権力の肥大化を志向する。多数者の圧制による平準化を嫌い、個の自由なる精神を尊重する保守思想家にとって、これは本末転倒以外の何ものでもない・・・
九条についても同様の混乱が見られる。アメリカに寄り添う事を国是とする保守勢力は、憲法の条文よりもアメリカの政治的意向を優先する。これは日米同盟が憲法の上位概念であると表明するものであり、日本という国家の主権を脅かしかねない。憲法をないがしろにし、国家主権をアメリカにゆだねようとする者が、「保守主義」を掲げる日本は、どうかしている・・・「保守」を自称するならば、九条を死守することで、わが国の主権を保守することを目指すべきではないか。九条を保守することによってアメリカの意向への追随に歯止めをかけることこそ現実路線であり、日本人の主体性を保守することにつながる・・・
私はつくづく思うのであるが、日本の将来と日本国民の幸福を真剣に考えた時、いや世界の国々にとってもそうだ、米国の言いなりになることなく、憲法9条を大切にして平和国家に徹すること、これ程正しい事はない。誰がこれを否定できるのだろうか。
要するに憲法9条を変えようとしたり、対米追従を正しいと唱えるものは、保守主義とかなんとか言う以前に、自分の事しか考えない者たちだ。少なくとも日本国、日本国民のためになることなど、本気で考えているはずはない。
http://www.amakiblog.com/archives/2007/05/11/#000374
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