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[民主主義の危機]改憲論に潜入するカルトの誘惑(3)
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投稿者 鷹眼乃見物 日時 2007 年 5 月 10 日 07:21:18: YqqS.BdzuYk56
 

[民主主義の危機]改憲論に潜入するカルトの誘惑(3)


<注>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070510


レーゲンスブルクの大聖堂(内陣)
[f:id:toxandoria:20070510011326j:image]


[副題]総カルト化する日本が学ぶべき欧米の知恵(3)


(プロローグ)


5月7日(月、PM7:30〜)に放送された「NHKクローズアップ現代:9条を語れ 憲法は今」で、下記の事実(●)を知り衝撃を受けたことで、このシリーズ記事が始まりました。


●財界の改憲論の主張(経済同友会が火付け役となった)は、グローバリズム経済で世界に伍して大競争に勝ち抜くためには集団的自衛権の行使を容認して「世界の経済戦線で活躍するビジネス現場を自衛隊が守るべきであり、そこでは場合によって先制攻撃も辞すべきでない」と考えていること。


●格差拡大が進みつつある日本社会の底辺へ押しやられた、いわゆる負け組みの人々の中で「一種の職場としての戦争願望から改憲を望む」若者たちが増えつつあること。


いわば、この衝撃は『異質なものや考え方が、互いに自立性を保ちつつ共存し、補完し合い、相呼応して共に見識を深める』という民主主義に必須の内面的な機序が日本国民の精神環境から急速に失われつつあることへの恐怖感です。このようなタイプの「戦争願望」は余りにも自己中心的であり不健全です。市場原理主義の毒素が財界トップと若者たちの内面を冒し始めたようです。


ところで、社会学者の宮台真司氏(首都大学東京・教授)が東京新聞・紙上(http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/consti/news/200705/CK2007050802014481.html)で次のような「憲法改正反対論」を表明しています。


(1)「重武装・自立」か、「軽武装・依存」か、それが国際政治の常識で「軽武装・中立」には傑出した外交能力が求められるので、今の日本には到底無理だ。そもそも、本気で対米自立するには日本の重武装化が必要であり、反撃を予想した敵に攻撃を控えさせるべく弾道ミサイル(核武装も?)などによる対地攻撃を軸とした反撃能力が要るので、それには集団的自衛権を遥かに超えた憲法改正が必要となるが、これは現実的でない。


(2)次善策として、「集団的自衛権の許容」と国連決議などによる「多国間枠組みへの従属」が必要だが、「憲法は国家に対する意思の表明である」ことを殆んどの日本人が理解していないことが問題だ。つまり、「集団的自衛権の許容」と国連決議などによる「多国間枠組みへの従属」を実現するには、「国民の八割が投票して八割が賛成するといった圧倒的意思が示される必要」がある。


(3)従って、低投票率でも憲法改正ができる「与党の国民投票法案」では国民意思の集約にならない。憲法が「国民から国家への命令」であるという基本的理解すらない無知な政治家(及び国民)ばかりという現状では、いずれの憲法改正にも反対である。現行レベルでは日本の改憲は十年早い。


宮台氏が論ずる(3)の部分(日本国民は憲法の授権規範性を明確に意識すべきだとする点)は理解できますが、前提となる(1)については「不可能問題」を敢えて前提として掲げた意図(作為)が窺えます。しかも、この命題の立て方は“極右”サイドから逆手に取られる危険性があると思われます。


同じく、(2)で「国民の八割が投票して八割が賛成するといった圧倒的意思が示される必要」があるとする論点も単純には賛同しかねます。国民投票で圧倒的な国民の意思が示された下記のような歴史的事例が、この種の命題に対する深刻な懸念を突きつけます。


『ナチス・ドイツ軍が国内へ入ったオーストリアでは、大ドイツ主義(この理念のモデルは神聖ローマ帝国のあり方)によって形成される「新生ドイツ国家」への愛国心から、ドイツ・オーストリアの併合(Der Anschluss Oesterreichs an das Deutsche Reich )の是非を問う国民投票では、約97%ものオーストリア国民が合併に賛成する投票行動に出てしまった』・・・ナチス・ドイツ軍の威嚇下での投票とはいいながらも、この時のオーストリア国民の意思は決して強制されたものではなかったと考えられています。


これに比べれば、今回のフランス大統領選挙で多くのフランス国民が困惑・呻吟しながらも「サルコジ氏52.7%、ロワイヤル氏47・3%」という微妙な得票率(投票の結果)を出したフランス民主主義のあり方(及び、そのようなフランス国民の意思表明のあり方)は健全だと思われます。これを“大差での右派サルコジ氏の大勝利”だとするメディアの論評が多いようですが、諸条件を良く考察すれば、これを“僅差”と見做すことも十分可能です。
このようなフランスの大統領選挙(一種の国民投票)の結果(=フランス国民の民主主義に関する精妙なバランス感覚)を見せつけられると、宮台氏が指摘するとおり、たしかに日本政府と日本国民の民主主義の根本である「憲法に対する意思の未熟さ」(政治権力者に対する強烈な授権主体としての意識の不足)が気がかりです。


なお、ドイツの憲法改正に関しては国民投票が位置づけられておらず、その改正要件は「連邦議会議員数の三分の二及び連邦参議院議員の表決数の三分の二の同意を必要とする」ことだけです(同基本法79条)。これによって、NATO加盟のための再軍備・徴兵・国民の環境権などドイツ国民の人権にかかわる重要な改正が行われてきました。これはこれで、フランスとは異なる形で「成熟したドイツの民主主義のあり方」(連邦議会議員と連邦参議院議員の相互批判体制、これら議員のノーブレス・オブリージュへの国民の信頼、ドイツ国民の強烈な主権者意識などが前提となっている)を示しています。


3 ジェームズ・ギブソンの「アフォーダンス理論」


西垣通氏(東京大学大学院・情報学環教授)によれば、「相対知」を支えるのは、人間など生物の行動とその環境世界が一体不可分であるという関係論的な考え方です。例えば、我われがある環境の中で行動すると、人間特有の環境世界が身体を介して「立ち現れて」くるというのです。これは、まさにジェームズ・ギブソンが唱えた「アフォーダンス理論」の考え方に重なります。このような「相対知仮説」では、絶対・永遠の真理と思われる科学的法則でさえも、たまたま特定生物種としての人間の知覚器官と脳神経系でとらえられた環境世界とうまく適合する一種のルールだということになります。


米・コーネル大学の認知心理学者ジェームズ・ギブソン(James Jerome Gibson/1904-1979)の最初の著書『視覚世界の知覚』(1950)の刊行で「アフォーダンス理論」が誕生しますが、それはユニークな新しい認知心理学の誕生であり、この理論は「生態実在論」(エコロジカル・リアリズム)とも呼ばれています。ギブソンは空軍の依頼を受けて“戦闘機パイロットの離着陸時における視覚の研究”に取り組み、それが「アフォーダンス理論」の発表に結びつきます。


ある種の動物が周囲にある出来事やモノを認識するためには、自分と周辺環境との間の相対的な変化、つまり運動(動き)の中にありながらも不変でありつづける特定の性質(特徴)を察知しなければならないと考えられます。逆に言えば、これは“動き”がなければ見えないものでもあるのです。「生態光学」(エコロジカル・オプティックス)とも呼ばれるアフォーダンスの考え方によれば、動物が動くことによって、例えば、個々の対象物上の各点ごとに存在する包囲光(ある一点に降りそそぐ、あらゆる方面からの放射光と反射光のすべて)が身体の上下・左右への移動に伴って包囲光配列の構造(包囲光配列を構成する立体角)を変化させます。この場合、その包囲光が光源との間で形成する角度には「一定の対応関係」があることが発見され、ギブソンはこれを「視覚の不変項」と名づけました。


この「視覚の不変項」について、佐々木正人著『アフォーダンス、新しい認知の理論』(岩波書店)は次のように説明しています。


『・・・例えば、我われ知覚者がある机の周囲をゆっくり動きながら移動するとした場合、立体角(放射光に沿って視線が机の形をなぞってできる角度)の変化を通して知覚されるその机の姿は様々な形の台形に変形します。しかし、それにもかかわらず、我われは、そこに“同じ一つの机”を意識(知覚)するのです。それはなぜか? 机の形は知覚者の視点の移動によって様々な台形に変形するが、そこで次々と現れる台形の四隅の角度と辺の関係には常に変化しない一定の比率があります。すなわち、この不変の比率が、その机がどのような「姿」であるかを決定(特定)するのです。このような訳で、見るという動作で観察者が行っていることは「包囲光の配列から不変項を取り出すこと」なのです。そして、決定的に重要なことは、何かを見ている人の頭、眼、首、胴体、下肢など、つまり、その人の全身が微妙に、あるいは常によく動いているという“現実”です。もし、我われ人間が動かない存在であるとするなら、固定された一つの包囲光配列に表現された立体角だけから対象が何であるかを推論しなければなりません。しかし、我われは動くことが可能なので、そのように不十分な情報から推論する必要がないのです。もし情報が足りないならば、視点を変えることで、十分な情報を光の中に探せばよいだけのことですから・・・ 』


これは、眼を「感覚器」、脳を「情報処理&記憶装置」とするケプラー以来の人間と対象物にかかわる視覚理論(視覚的な情報処理メカニズム)を覆すものです。つまり、このような「不変項」が“視覚の内容であるアフォーダンスを知るための手掛かり情報”だということになるからです。そして、このアフォーダンスは“環境の性質”であるとともに“動物行動の性質”でもあるのです。言い換えれば、アフォーダンスとは“環境と動物がある一体的な存在のあり方”を表しているものだということになります。具体例をもう一つ挙げると、例えば“曲げたり、捻ったり、巻きつけたりできることが紐の一般的な性質”ですが、それらの性質こそが紐のアフォーダンスだということになります。また、我々を取り囲む大気は“重力・熱・光・音(振動)及び各種のガス類(酸素・炭酸ガス)など揮発性の物質”で満たされていますが、これら多様なエネルギー流動の中にもアフォーダンスを特定する「手掛かり情報」が存在していると、ギブソンは考えました。つまり、アフォーダンスはシニフィアン(意味するもの)としての「手掛かり情報」に対応する、実在的なシニフィエ(意味されるもの)であり、我われ生物にとって重要な「生命的な価値」でもあるというのです。そして、これは視覚にかかわるだけの問題ではなく、あらゆる知覚にアフォーダンスが存在することになります。


ともかくも、このアフォーダンス理論の特徴は、動物が環境世界から「不変項」という手掛かり情報を受け取り、その中に「アフォーダンス」という、ある動物が生きていくために必要な個別的な『意味』(生命的な価値)を認知するという点にあるのです。あらゆる動物たちは、ある環境の中で動き回ることで動物としての経験(成長史・発達史)を積み重ねます。そして、そのようにして初めて彼らは環境世界の中で持続的に生きることが可能になるということであり、そのプロセスで獲得する情報と『意味』は、ある程度の長さの時間をかけるほど有意性が高まると考えられます。そして、この立場からすれば、我われ人間の知は人間としての生物進化の結果として偶然に得られたものであり、それが全ての生物種に通用する絶対的に正しい知だという根拠は存在しないことになります。つまり、犬には犬の知があり、猫には猫の知があり、カラスにはカラスの知があり、カエルにはカエルの知があるという訳です。


このように「相対知」を前提とするアフォーダンス理論の考え方は、従来の「絶対知」を前提とした認知心理学に対して、まさに“コペルニクス的”とも言えるほど画期的なものです。そして、近年は、ますますその再評価の声が高まりつつあり、マッハ(Ernst Mach/1838-1916/オーストリアの物理学者・哲学者/ニュートン力学の時間・空間の概念を批判的に検討し、また実証主義的経験批判論の先駆者でもある)の「現象学的物理学」の再評価とともに新しい世界観・科学観・倫理観などへの突破口となる可能性があると考えられています。 もう一つ付け加えるならば、このような「相対知」を重視する立場の背後に存在する、「生命世界」に対するある種の“しなやかな感性”のような視点(眼差し)をを見逃すべきではないということです。それは、あらゆる生物を客観的な制御対象と見做す冷徹な眼差しではなく、それらの全てを観察者と対等な自律的主体と見做す柔軟で穏やかな眼差しです。そして、これこそが「暗黙知」(メタ相対知)の眼差しなのかも知れません。


ところで、これまで述べてきた二つの「知の仮説」に関して、もう一つ注意しなければならない観点があります。それは「カルト」の問題です。リアリズム認識の混乱、つまり絶対的な抽象的観念の世界を堂々巡りする罠に嵌るという意味では「宗教原理主義」も「科学原理主義」も「市場原理主義」も「リバタリアニズム」も似たような原理主義的な精神だと見做すことができそうです。例えば「絶対知仮説」の主な要素である「自由意志」と「抽象論理」は合理的思考・科学的思考にとっては必須のツールですが、同時に人間が自らの進むべき適切な方向性を見失った途端に、そのツールは容易に「カルト」への入り口と化す恐れがあるのです。このような意味で、我われは、社会的大事件を引き起こした閉鎖性が強い某カルト教団のメンバーの中枢に理工系の優れた頭脳が多数参加していた事実を忘れるべきではないようです。


また、今の日本の政治状況を観察したとき、これが絶対に正しいという「確信の誘惑=決して疑われることのない堅固な認識の世界の権力的な押し付け」(その典型例が安倍の“美しい国”?)が蔓延っていますが、これは一種のカルト現象ではないかと思っています。本性が「嘘つきで悪辣な政治権力者」が、さかんに“美しい、美しい、美しい”と言い募るのは有名な「嘘つきのクレタ人のパラドックス」と同じ轍で、大方の日本国民へは不可解な幻惑感を与えるばかりです。


従って、先ずここで想起すべきはスコトウスが説いた“堂々巡りの「いかさま論理の罠」(カルトへの誘い)から逃れるために必要なものは人間の本性を直視する「実践理性」(倫理)の働き”だということです。また、生命体の自己組織化理論(オートポエーシス理論)の先駆者として名高い生物学者ウンベルト・マトラーナ(Humberto Maturana R./1928 − )とフランシスコ・バレーラ(Francisco Varela/1946-2001)が示した「魔術・カルトによる説明=確信の誘惑、確信の押し付け」と「科学による説明」の見分け方も忘れるべきではないようです。彼らによると、ある現象の観察についての説明的な言説が科学的であるためには次の「四つの条件」を明らかにする必要があります。[出典:ウンベルト・マトラーナ、フランシスコ・バレーラ共著『知恵の樹』(ちくま学芸文庫)]


(a)観察者が属する社会によって広く受け入れられるようなやり方で、ある現象を説明する。


(b)観察者が所属する社会によって広く受け入れられるようなやり方で、ある現象をひきおこすと思われる概念的システム(言説的仮説)を説明する。


(c)(b)の仮説の中ではハッキリと考察できなかった、その他の現象を演繹する。また、観察者が所属する社会における、その観察者についての諸条件をあらゆる角度から十分に説明する。


(d)(b)から演繹された、その他の現象を現実的に観察し帰納的に説明する。

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