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http://onuma.cocolog-nifty.com/blog1/2007/05/post_f54e.html
雑誌の「世界」(5月号)で、作家の澤地久枝さんが評論家の佐高信さんと、川柳作家、鶴彬(つる・あきら)をめぐって対談していた。
日中戦争の戦時下、29歳の若さで警察署に拘留されて死んだ鶴彬は、川柳界の小林多喜二と言われる。
その鶴彬のことを、わたしは多喜二のふるさと、北海道小樽市の最上(もがみ)の古い木造の民家で、貸間業を営みながら、国を相手に裁判を闘っていた川柳作家、故・佐藤享如(きょうすけ)さんから教わった。1970年代の後半、わたしがまだ20代だったころ。
当時、北海道新聞の小樽報道部に所属し、新聞記者をしていたわたしは、在宅投票制度の復活を求めて闘う「享如さん」の元へ取材で通い出した。
享如さんは寝たきりの身障者。玄関を入ったすぐ横に居間(寝室)があって、寝床で腹ばいになった享如さんのそばに腰掛け、話を聞く。
自身、「冬児(とおる)」を名乗る川柳作家。裁判の話のついでその口から飛び出す政治批判は、自作の川柳同様、辛辣かつ痛快で、わたしは暇ができると、最上の坂の中腹にあるその家まで、話を聞きに出かけるようになった。
「鶴彬」という、聞いたこともない川柳作家のことを教わったのは、そんなある日のことである。
享如さんが諳んじてみせた鶴彬の作品は痛烈なもので、わたしはすぐ覚えてしまった。
たとえば、
手と足をもいだ丸太にしてかへし
や
貞操を為替に組んでふるさとへ
などの句……。
言論による批判・抵抗の意味、実例を、わたしはそのとき教わったのだ。
いまのわたしに、もしも「反骨の小骨」(そういえば、当時、わたしは小樽の飲み屋の女将に、「あんたは軟骨漢ね」と言われたことがある。いま思い出した……)の一本でもあるとすれば、それは鶴彬を高く評価し、国を相手に寝床のなかから、負けないだけの抵抗を続けた享如さんが遺してくれたものだろう。
わたしもまた、佐藤享如さんに出遭ったことを、宝のように誇ることができる一人である。
わたしはその最上の享如さん宅で、川柳仲間の一叩人(いっこうじん)さんにも会った。一叩人さんが小樽までわざわざ訪ねて来たとき、わたしは偶然、寝床のそばにいたのだ。
一叩人さんは独力で鶴彬の作品を収集、ガリ版刷りで手製の「鶴彬全集」を出版した人である。
澤地さんは佐高さんとの「対談」のなかで、故・一叩人さん(本名・命尾小太郎)のことを熱く語っていた。一叩人さんなくして「鶴彬全集」もなく、澤地さんが「私家版」を出すこともなかったろう。
その一叩人さんに関するわたしの記憶は2つ。
ひとつは、享如さん宅の玄関先で挨拶を交わしたときの、柔和な笑顔と、その周りを包んでいた柔らかな日の光で、もうひとつは、何度かもらった手紙の、新聞のチラシでつくった手製封筒のことである。
一叩人さんはつましい暮らしを続けながら「全集」刊行という大事業を成し遂げ、享如さんは享如さんで、国を裁判で追い詰め、在宅(郵便)投票制度の復活につながる「実質勝訴」を手にして、生涯を閉じた。
ふたりとも、見事な人生を生き切ったと思う。
享如さんの川柳でよく知られているのは、
投票所 月より遠く 寝たっきり
だが、わたしは、
神風が 吹かない空を 赤とんぼ
が一番好きである。敗戦の年の初秋の作だ。
軍靴の音が遠くに聞こえる2007年のいま、もしも仮に、享如さん、一叩人さんが生きていたなら、どんな川柳を作ることだろう。
それを想像することが、わたしの義務であり、わたしの指針でなければならないと、わたしはいま思う。
臨終の際、享如さんは両目を、真正面に向けて、焦点を一点に合わせて亡くなった。そのこともまた、わたしはいま思い出す。
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