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□天皇皇后の揺れる心 [AERA]
http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20070507-01-0101.html
2007年5月7日
天皇皇后の揺れる心
日本国憲法が施行60年を前に、
大きな転機を迎えようとしている。
改正が可能になったら? 「戦争の放棄」は?
そう思うと心は揺れる。あるいは両陛下の心も。
編集部 高橋淳子
天皇陛下は1989年8月4日、即位後の記者会見で、こう語った。
「終戦の翌年に学習院初等科を卒業した私にとって、その年に憲法が公布されましたことから、私にとって憲法として意識されているものは日本国憲法ということになります」
言葉だけではない。学習院初等科からの陛下の学友で元共同通信記者の橋本明さんはこう証言する。
「われわれは新憲法の申し子みたいな世代。陛下はこれまで理屈でなく行動によって、平和憲法のありようをみせようとしてきた」
沖縄、長崎、サイパン
皇太子時代から陛下がとくに心を砕いてきたのは、先の大戦の激戦地、とりわけ多くの民間人が犠牲になった地だ。
75年、初の沖縄訪問を果たした際には「ひめゆりの塔」前で過激派に火炎瓶を投げつけられながらも、予定を変えずに頭を下げた。
90年、長崎市の本島等市長(当時)が「昭和天皇の戦争責任」に言及し、狙撃されて間もない長崎を訪問。本島氏を気遣いつつ雨の中、傘を閉じて平和祈念像に祈りを捧げた。94年には小笠原諸島日本復帰25周年を機に硫黄島、父島、母島を訪問。戦後50年にあたる95年には「慰霊の旅」として、長崎、広島、沖縄を巡り、東京大空襲の犠牲者を納骨した東京都慰霊堂を拝礼。2005年にはサイパンへ「慰霊の旅」。彼の地では米国、韓国の戦没者にも祈りを捧げた。
傍らには、いつも皇后美智子さまの姿があった。次の歌からも陛下と一つの「心」が察せられないだろうか。米軍に追い詰められた日本兵や民間人が「天皇陛下、万歳」と叫びながら海に飛び込み、自決したとされるサイパンの「バンザイクリフ」の情景だ。
いまはとて島果ての崖踏みけりしをみなの足裏思へばかなし
いま、こんなお二人の心中を案ずる人が少なからずいる。
憲法改正への道筋をつける「国民投票法案」が衆議院で可決、参議院での審議に入り、5月中旬に成立する見通しとされるからだ。
初等科から高等科までを学習院で過ごし、陛下の「先輩」である参議院議員の田英夫さんは言う。
「ご夫妻は根っからの『平和好き』。日本国憲法の根幹である第9条が国民投票で変えられ、戦争を可能にする条文が入ってきたら驚き、戸惑うだろうな」
憲法改正は96条に記されながらも、必要とされている国民投票について具体的な手続きの記載がなく、国の最高法規は、47年の施行以来、一言一句変わっていない。
雑駁な構図に収まらず
「護憲」派と「改憲」派の論争は長年にわたり続いてきたが、最大の争点は「戦争の放棄」を掲げる9条だった。2号で「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」としながら自衛隊がある。国際連合憲章は自衛権を国家固有の権利としながら、それを行使できない。「改憲」派は条文を変え、この「ねじれ」を解消すべきと主張してきた。安倍首相もこうした論を展開しており、近々、集団的自衛権行使などを研究する有識者会議を設置するとも伝えられている。
従来的には護憲派が「左」「ハト派」、改憲派は「右」「タカ派」などとよばれてきた。総じて前者には天皇制に懐疑的な見方も交じり、後者に天皇制を信奉する傾向が強いとみられてきたが、9条問題について発言を続けてきた国際政治学者の姜尚中さんは、この構図が崩れてきたとみる。
「僕個人の印象として、今上天皇は日本国憲法に対して非常に強いアタッチメント(愛着)をもっていらっしゃるのではないか、と。天皇制を支持する人が『右』といった雑駁な構図には収まらなくなっている。奇妙な現象です。政治がポピュリズム(大衆迎合主義)に傾いているいま、天皇が戦後民主主義の象徴として『重し』になるという『ねじれ』が生じている」
日本国憲法第1章「天皇」の1条にはこう記されている。
「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」
姜さんは言う。
「個人的には、9条は国民の大方の主要な関心事ではなく、少なくとも現時点では手をつけないほうがいいと考えています。陛下もそうした民意は忖度しておられていることでしょう。だから1条を受け入れ、国民の総意にもとづき即位した『象徴』として、サイパンへ『慰霊の旅』を続けるなどしていらっしゃる。少なくともいまの天皇の意識の中では、1条と9条はワンセットになっているように思えます。9条を軽んじることは、1条の軽視につながる。いまはそうした政治家が多い」
「言を慎みたい」と
戦後の皇族の語録集『おことば』(新潮社)を編纂した作家の島田雅彦さんは、
「現天皇はそのお言葉を見る限り、現代思想家の、だれにいちばん近いスタンスで立っておられるかというと、僕は大江健三郎だと思う」(「週刊朝日」2006年3月17日号)
と述べた。続く言葉を紹介する。
「僕には陛下自身が左翼のように見える。護憲を訴えることは、最近、旗色が悪いですよね。そんな時代にあって徹底した平和主義を貫き、アジア諸国に対する配慮、特に韓国や中国に対して配慮を示すということは、なんとなく左翼的な発言とみなされて、いま少数派になっているでしょう。全体的に右に傾斜してますからね。その中で天皇はそのスタンスをずっと保っておられる。それゆえに、左翼っぽい人間もシンパシーを抱く」
もっとも、こうした見方をされることを陛下は望まないだろう。即位後の記者会見では次の言葉も。
「天皇は憲法に従って務めを果たすという立場にあるので、憲法に関する論議については言を慎みたいと思っております」
陛下の胸中を、橋本明さんは、こう察する。
「自衛隊ができるなど9条をめぐる流れの中で、彼が何を考えていたかは分からない。ただ言えることは、いまの憲法を守るという点で揺れがなかった。9条改正も議論の行方を見据え、国民全体が支持するのなら従うことでしょう」
日光に届いた手紙
近年、「富田メモ」「小倉侍従日記」など側近の記録が公になり、戦争へと向かう昭和天皇の苦悩が明らかになってきたが、橋本さんによれば陛下は意識的にそれを追体験してきたという。
陛下は日光の疎開先で「玉音放送」を聞き、終戦を知った。9月9日、昭和天皇からの手紙が届く。そこには、こんな一節が。
「敗因について一言いわしてくれ/我が国人が あまりに皇国を信じ過ぎて 英米をあなどったことである/我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである」
あらゆる意味で民間人のような父と子の関係はありえない。
「自分の親父の足跡を知ることが彼にとって『生きる』こと。大量の資料を読んだ末、明治憲法を遵守した昭和天皇の気持ちを理解することができた、と直接聞いたこともありましたよ」
という橋本さん。陛下の家庭教師だったヴァイニング夫人から、親子で同じ屋根の下に住めない理由を昭和天皇がこう説明したと聞いた。
「戦争の開始を抑えることができなかった自分に、新たな平和な時代を生きていく皇太子を教育する資格はありません」
こうして昭和から平成へと引き継がれてきた戦争の記憶は、次代へ引き継がれてゆくのだろうか。
皇太子さまは06年2月の誕生日会見で、両陛下のサイパンへの「慰霊の旅」に触れ、こう話した。
「先の大戦によって命を失ったすべての人々を追悼され、平和を祈念されるものでした。お心を込めて慰霊をされているお姿に心を打たれるものがありました」
一方で、父親世代とは違う方向性もあるようだ。たとえば04年2月の誕生日会見で。
「イラクに一日も早く平和が訪れることを祈るとともに、イラク復興支援に当たられる自衛隊の皆さんには厳しい状況の中でくれぐれも体に気を付けてイラクの国民のためになるお仕事をしていただきたいと思います」
政治的に世論を二分する話題を「タブー」としてきた皇室では、異例の発言といっていい。
今年、昭和天皇が生まれた4月29日が「昭和の日」になる。この名を必要とするほど「昭和」は遠くなっているのかもしれない。
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