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日蓮正宗の信者の団体として出発した創価学会
創価学会の“庇を借りて母屋を乗っ取る体質”は、広く知られているところである。日蓮正宗の信者の講(信徒の団体)として出発した創価学会が、宗教法人としての資格をもつことは日蓮正宗の中でも最初から問題視されていた。しかし、いろいろと理屈をつけてこれを押し切って宗教法人としての資格をもつことを認めさせたのである。
創価学会は、最初のうちは日蓮正宗の信者団体であることを最大限に利用した。創価学会が強烈な折伏活動を展開しながらその教勢を拡大していたころは、他の新興宗教団体も熱心な活動をしていた時期でもあった。新興宗教団体にとって最大の弱点は、その正統性を明らかにすることであった。宗教とはそういうものである。
そんな中で創価学会は、「私たちの創価学会は、その辺の新興宗教団体とは訳が違うのだ。700年の伝統をもつ日蓮正宗の教えを現代に生かすものなのだ」といって信者を獲得していった。日蓮正宗の総本山である大石寺参拝を大々的に行なった。私自身、学生時代にこのような執拗な “折伏”を受けたのである。
創価学会と日蓮正宗の確執や紛争は、本稿の目的ではない。創価学会と日蓮正宗は、いまや完全に断絶している。私が問題にしているのは、日蓮正宗という宗教団体との関係を抜きにして今日の創価学会は決して存在し得なかったということである。庇を借りて母屋を乗っ取るという体質を見事に具現していることである。現代風にいえば、“寄生獣(パラサイト)的体質”ということになるのであろう。
責任の所在が不明確な自公合体政権
私はこれまでに4つの創価学会の特質を挙げながら、自民党もそうした体質をもった政党となったこと(すなわち創価学会党化したこと)を論証してきた。このことは、よく考えてみると当然の帰結なのかもしれない。創価学会に寄生された自民党が、創価学会党化していくことは必然なのかもしれない(自民党にはその意識はないかもしれないが…)。創価学会ウォッチャーたちがいうように、創価学会は強烈な“生命力”をもった寄生獣(パラサイト)なのである。
それでは、本論に入ろう。自民党の“寄生獣(パラサイト)的体質”は、どのようなところにみることができるのだろうか。
自民党は昭和30年の保守合同以来、細川・羽田非自民連立政権の時期を除き一貫して政権党であった。ひとつの政党が長期間にわたり政権を掌握した場合、権力の私物化はどうしても起こるし、腐敗することは古今東西の歴史が教えるところである。これまでの自民党も決してその例外ではなかった。
しかし、自民党が公明党と連立を組んでからの問題点は、長期政権一般にみられる私物化や腐敗体質とはちょっと違ったものがあるような気がしてならないのである。自公合体政権の際立った特徴は、無責任体質である。これまでの自民党は、良くても悪くても政権運営の責任を自ら負ってきた。売上税や消費税の導入に際して、自民党が払った犠牲は大きなものであった。
イラクへの自衛隊派遣は大きな問題になると私は思っていたが、意外にすんなり決まった。これは平和と福祉を“看板”としてきた公明党が、イラクへの自衛隊派遣に賛成したことが大きかったと思う。イラクへの派兵は、いまやアメリカでもイギリスでも大問題になっているが、わが国ではイラクへの自衛隊派遣の是非や責任が真剣に議論さえされていない。責任の所在がハッキリしていないからではないだろうか。
外交でさえ、私物化の対象
権力行使の責任が不明確になると、いちばん喜ぶのは権力を掌握しているものである。わが国で権力を掌握し、これを私物化しているのは自民党や公明党だけではない。国家や地方自治体に奉仕すべき官僚(役人)もまた、権力を私物化している存在であることはいまや国民の共通の認識である。わが国は、“官僚(役人)の官僚(役人)による官僚(役人)のための国家”であるとさえ思っている人も多い。わが国が世界に冠たる官僚国家であることだけは確かである。
行政を実際に行うのは官僚(役人)であるのは仕方がないことである。それをコントロールするのが形式的にそのトップに立つ政治家や政党の役割である。政治家や政党は、国民の立場から官僚(役人)の権力の私物化を阻止しなければならない任務があるのであるが、権力行使の責任を不明確にしている自公合体政権の下ではそれは期待できない。
わが国では、自民党も公明党も官僚(役人)も競い合って権力の私物化をしている。その端的な例を、温家宝中国首相と池田大作創価学会名誉会長との会談に私はそのことをみた。
外交においては、双方が国家と国家の利益を最大限に重視して行われる。一挙手一投足、一言半句にさえ最大限の注意をもって行なわれる。
中国側がいかなる目的をもって温首相と池田創価学会名誉会長との会談をセットしたかは定かではない。しかし、創価学会にとって温首相と池田氏の会談はきわめて大きな利益があったことだけは確かである。翌日の『聖教新聞』での扱いをみれば、そのことは疑いを容れることがないほど明らかである。
自民党は池田氏と創価学会のわが国の利益を無視した“我儘”を許しただけでなく、これに協力したのである。かつての自民党ならば、このようなことは決して許されなかったであろう。売国的行為と厳しく非難されたであろう。国家利益がもっとも重視されなければならない外交でさえ、自公合体政権を構成する面々にとっては私物化の対象となっているのである。
即物的俗事としての権力行使
国家権力であろうが、地方自治体の権力であろうが、その権威は国民(住民)に由来し、権力の行使の目的は、国民(住民)の利益を図ることにある。青臭いといわれようが、この基本を離れたら近代民主主義国家はありえない。近代民主主義国家の役割は、国家や社会の構成員が負担すべきコストを決定すると共に利益の配分を行うことである。きわめて俗物的といえば即物的といっていいほど俗物的な仕事である。権力の腐敗というのは、このような即物的俗事を行うにあたっての“余禄”という側面もある。わが国では賄賂のことを、かつては“まいない”といった。広辞苑によれば、「礼として物をおくること。また、その物。贈物」とあるが、“余禄”という雰囲気のある言葉ではないか。
かつては権力を行使する者の“余禄”として許容されていたことが段々と厳しくなってきて、涜職(職務を汚す)ということで犯罪として罰せられるようになった。これは権力の私物化であることに間違いないことだが、俗物的な人間がその誘惑の罠に陥ることはあり得ることである。古今東西の長期政権に腐敗や権力の私物化があるのは、そうした理由からであろう。人間の悲しい性といっても良いのかもしれない。こうした悪弊を私は寄生獣 (パラサイト)などと大袈裟にいうつもりはない。
SFによれば、寄生獣(パラサイト)は鼻や耳など頭部の孔からの他、皮膚を食い破って体内に侵入し、その人間の脳を目指して進んで行くのだという。そして宿主たる人間を完全に支配してしまうのである。
基本的人権の尊重という価値観を食いちぎる自民党
最近の自民党は、わが国の頭脳にあたる部分というか、国家の頭脳的機能を私物化しようとしている。例えば、愛国心である。
近代自由主義国家は、基本的に無価値国家である。国家が特定の価値観を国民に強制することはない。国民がどのように国家を愛するかということは大きな問題であるが、国家の方から特定の価値観を国民に強制することはない。
自民党や公明党が特定の価値観をもつことは否定されないが、その価値観を国民に強制することは自由主義国家であるわが国では許されない。しかし、安倍首相の登場以来、自民党は盛んに自民党的価値観を国民に押し付けようとしている。自民党は、自民党的な価値観を国家の価値観 (頭脳)としたいようである。
戦前の日本は、特定の価値観をもった国家であった。その価値観に反する思想は認められなかったために、最後は批判精神を失い、極端な軍国主義国家となってしまった。かつての共産主義国家も国家それ自体にひとつの価値を認め、それ以外の思想を認めないために現実に対する対応能力を失ってしまった。
わが国の唯一の価値観は、基本的人権の尊重ということであろう。
「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」(憲法97条)。
基本的人権をシッカリと保障し、国民の自由闊達なな活動を確保しておけば、わが国には必ず調和ある秩序が生まれるという思想・価値観である。自民党や公明党は、このことが理解できないようである。自由闊達に行動する国民を統制する頭脳と命令系統を作りたくてしょうがないのではないだろうか。
安倍晋三氏が総裁になってからの自民党は、基本的人権の尊重という価値観(頭脳)をもつわが国の頭脳を食いちぎり、アナクロニズムに満ちた脳細胞に置き換えようとしている寄生獣(パラサイト)といってよいのではないだろうか。
自由を食いちぎる寄生獣(パラサイト)
現在の自民党のアナクロニズムに満ちた考えとは、具体的にはどのようなものであろうか。
それは、反自由主義的ということである。私は日本国憲法の最大の原則は基本的人権の尊重であると考えている。自民党が憲法改正で一番やりたいのは第9条の改正であるといわれているが、果たしてそうであろうか。
国民の7〜8割が自衛隊を憲法に違反するものではないといっている以上、自民党的には憲法第9条は解決済みの問題なのである。逆にいうと、明らかに現状と矛盾している憲法の条文を現状に合うものにしようというのは、憲法改正の理由となっているし、その梃子でさえあるのだ。自民党の憲法改正論者にとって、もっとも我慢ならないのは自由ということで好き勝手なことをいい、自由闊達に行動する国民なのである。これは自民党の中で長い間憲法改正論者と対峙してきた私が確信をもっていえることである。
自由主義の政治思想は、いわゆる無政府主義とは完全に異なるものである。自由主義の政治思想は、最高の秩序は国民を信頼し国民の自由闊達な行動を保障することにより、試行錯誤や紆余曲折はあっても自然調和的に必ず形成されるという信念と執念に基づく政治手法なのである。
自由主義をよく解さないものには、試行錯誤や紆余曲折というところがどうしても理解できないのである。試行錯誤や紆余曲折をなくするために自由を安易に制限したのでは、自由主義は自由主義でなくなし、妙味も失うのである。自由主義者には、忍耐と寛容が求められるのである。似非自由主義者には、この忍耐と寛容の精神が欠如しているのである。
官僚は、本質的に非自由主義的である。彼らは、秩序を作るために汗を流すのが己の使命と考えている。官僚にとっては、秩序とは作るものなのである。しかし、自由主義者にとっては秩序は自然と作られるものなのである。この違いは、決定的な差違なのである。
池田大作創価学会名誉会長は、かつて全体主義がいちばん良いのだといったことがあるという。どういう文脈でいったものか私は知らないが、批判者を抹殺する体質をみていると池田氏が自由主義を解しているとはとうてい思われない。
自公合体政権を構成する面々は、いずれも反自由主義的である。自公合体政権が国においても地方自治体においても定着して現状では、わが国はもうこうした面々に相当程度に侵食されているのかもしれない。彼らは、恐れなければならない寄生獣(パラサイト)なのである。
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