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http://d.hatena.ne.jp/qushanxin/20070429
最近、「フリーター」などの若者弱者が自民党に投票したり、女性が「男女共同参画」を訴える浅野史郎ではなく、女性蔑視発言をしばしば行なう石原慎太郎に投票したりという奇妙な現象が起こっている。
多くの人々は当惑しながら「右傾化」のレッテルを貼って終わりにするだけだが、私が考えるには従来の「左翼」と呼ばれる人々が「中流幻想」からなかなか抜け出せなかったことにあることが背景にあるように思う。1970年代以降にマルクス主義の凋落によって「左翼」の学者やジャーナリストが選択した戦略が何かといえば、(1)女性の社会的な地位向上を訴えるフェミニズム、(2)中国・韓国の戦争被害者に対する補償を求める戦争責任論、(3)「在日」や移民の社会的権利付与を支援するマイノリティ運動などであった。こうした戦略を通じて、戦後の日本社会は経済的な豊かさを達成したものの、それが様々なマイノリティを排除することによって成り立ってきた「男性日本国民」の社会であったことを暴露的に批判することで、「多様で開かれた社会」を達成しようとしたのである。
問題は、評価するにせよ批判するにせよ、こうした議論が1970年代以降の「豊かな中流社会」を多かれ少なかれ前提にしていたことである。つまり日本国民の間では貧困からの脱出に成功し、社会的な地位や収入が拡大しつづけていくという「成長神話」をどこかで念頭においていたからこそ、「男性日本国民」だけがそうした「成長」を特権的に享受していることは不公平な状態であり、女性や民族マイノリティのような「社会的弱者」に権利を拡大していくべきだという主張が正当性を持ちえた(少なくとも許容された)のである。
しかし1990年代後半以降、「左翼」の主張は急速に説得力を失っていく。それは、不況の中で「成長神話」が終焉し、彼らの批判対象だった「男性日本国民」は等しく経済的な豊かを享受しているのでは決してなく、社会的な格差や分断を抱え込んでいることが露わになっていったからである。つまり「左翼」が批判対象とした「男性日本国民」そのものが脆弱化していったことで、「男性日本国民」から排除される女性や民族マイノリティが「社会的弱者」であるということのリアリティも、同時に乏しくなっていったのである。
こうした状況の中で、「左翼」が従来どおり「男性日本国民」の特権性を批判するという戦略を続けていったら、下の世代にとってそれは既に解体しつつある「豊かな中流社会」の幻想にすがりつく、学者やジャーナリストといった「既得権層」の振る舞いにしか見えないだろう。要するに、「男性日本国民」のもつ権利を女性やマイノリティに平等に拡大していくという(もはや現実味に乏しい)主張そのものが、「豊かな中流社会」がまだ存在していると思うことができるような、安定した地位を得ている人々の「きれいごと」にしか聞こえないのである。
あんまりというか全然上手く書けなかった。また考えます。
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